蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 もうすぎちゃったけど、十二月十日、またふたたび黒鳥忌がやってきたということで、なんか中井英夫について書いてたっけと探したらメインで書いてたのは一つだけだった。

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 中井英夫というか『虚無への供物』についての思い出話みたいなものだった。というか、もう三年も前か……なんか文章あんまり変わってないし、自分の文章の癖がクッキリ突きつけられてやだなあ、という感じだ(毎回書いてて思うが、エモに距離を置くそぶりを見せつつ結局はエモで駆動する文章を書いてしまうのはなんという矛盾か)。

 それはともかく、中井英夫の『虚無への供物』は自分にとってかなり大きな読書体験として刻まれているわけだが、では、他の作品はどうかと言われると、実のところボンヤリしているというか、そもそもが『とらんぷ譚』と『夜翔ぶ女』とあといくらかの短編をつまみ読みしたくらいだ。基本的に自分はその魔術的な文体で淡く描かれる幻想性よりも、「虚無」に刻まれた強烈な思想性に魅かれたんだろうと思う。この思想性というものは、その流れを汲んだ笠井潔の作品に流れる“哲学”とはまた違う極めて個人的な観念の爆弾ともいえるものだ。とはいえ、笠井は『バイバイエンジェル』で、「虚無」のその思想性――観念について私が思うぴったりの言葉を登場人物に言わせている。同書の終盤で矢吹にあなたの考える革命とは、と問われた人物が口にする「世界に向かって放たれた観念の炸裂です」*1がそれだ。

 世界に向かって放たれた観念の炸裂。そしてそれはさらに続けられる。

「……観念は自ら炸裂し一瞬のうちに世界に充満した無意味な闇をあかあかと照らし出す閃光なのです」

 また、「自身を兇器と化して世界の闇を切り開く観念の炸裂」とも。

 『虚無への供物』が内包していた「告発」とは、このセリフに説明しつくされている。自身が練り上げた観念を読者を含めた「探偵たち(犯人たち)」の前で炸裂させることで、世界が抱えた無意味性をグロテスクなまでにあらわにする。

 一方で『バイバイ、エンジェル』の犯人はそう云った「自身を兇器と化して世界の闇を切り開く観念の炸裂」を部分的なものとし、それをより具体的に達成するための結社や、それをまとめ上げるための政治要綱で革命へと具現化しようとする。そういう意味でここでの笠井潔の思想性とは、強い理に基づく思想によって、世界を裏返すこと(革命)への具現化を目指すものとなっている。

 逆に中井の「虚無」における思想性というものはかなりパーソナルなものだ。世界の不条理を前にした個人が、個人的に世界を読み変えることによって裏返し、みんなが思い込んでいる「意味ある世界」の徹底した無意味性を告発する。

 だが、世界が徹底して無意味ならば、死もまた無意味になってしまう。だからこそ、「虚無」の「犯人」はその無意味な死に意味を与えようとする。その一方でもう片方の「犯人たち(探偵たち)」は、世界に意味があると疑わないからこそ、死や密室やその他諸々に意味を見出そうとし、手前勝手な意味を押しつけようとする。

 『虚無への供物』に込められたものは、そんな無意味と意味をめぐる世界についてのどこかウロボロス的な闘争であり、「バイバイ」で図らずもそれを説明していた笠井潔は『哲学者の密室』において、本格的にそれに挑戦している。そして、この『哲学者の密室』の犯人が笠井の作品において一番「虚無」に近づいた作品と言える。だからこそ、「哲学」の犯人は個人的な「特権的な死の夢想」という思想性をよりパーソナルに封じ込めるため、探偵小説的な密室を必要とした。大量の死を前に、人々を結び合わせるはずの“哲学”が瓦解した時、無意味な荒野と化した世界とその無意味な死に対して抵抗するように、特権的な死を捧げようとする。しかし、笠井は(おそらく中井も)それが夢想でしかないということに気づいている。そして、探偵小説において、意味を与えるという行為については、その「犯人」たちが嫌悪する、意味を疑わないもう一方の「犯人たち(探偵たち)」による意味を探すという行為――探偵行為に結果的に貢献するということにも。

 世界が無意味だと知りながら意味を与えることと、世界に意味があると疑わずに意味を見出そうとすること。その二つはその根本的な所では全く対立しつつもどちらも意味へと向かってしまう。一方で、大体の探偵小説においては、すべてが伏線、というように世界は意味で満ちているという前提が強いのは明らかだ。

 探偵小説とはもともと、世界には意味があるという世界観の反映だとするならば、アンチ探偵小説とは世界に意味はないと暴露することだ。しかし、それもまた“意味”を呼び込む。それをふまえて、やはり、アンチミステリと言うものは、一回限りの個人の観念の炸裂、と言えるのかもしれない。そうして、一瞬だけ照らされた世界の姿を、中井の言葉を借りるなら、反世界というのだろう。そして、それが、私が強烈に魅せられた探偵小説の一つの姿に他ならない。

 一方、アンチミステリについて笠井は、探偵小説形式を過剰に積み上げることでその自重でブラックホール化したものと表現していたが、その方向からの個人的な解釈としては探偵小説であろうとすること、その徹底して虚構であろうとすることで一瞬だけ見える風景――それが「真実」か「異界」かは分からないが、そんな一瞬の光景を望むことを、探偵小説を読むことに託している部分がある。そんな風景が見たいから、私は探偵小説を読んでいるのだろう。

 

 そういえば、カフカが元ネタの「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」という言葉があるが、探偵小説の中には思い切り世界に戦いを挑んだり、その無意味性について告発するなどの作品が結構ある。乱歩の『孤島の鬼』と『盲獣』は「私」を世界に広げるという意味で、対世界を無化しようとする観念が描かれた作品として評価しているし、それについて昔ちょっと書いた。「虚無」を入り口にして乱歩作品のそんな一面を読み取ったように、探偵小説とは、世界に散りばめられた意味を拾い上げて謎を解き、事件というものを意味づけるだけではないということを、『虚無への供物』は指し示してくれた。そういう意味でも自分にとって重要な作品であることは間違いない。 

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 『孤島の鬼』は語り手の「私」と簔浦がどうとかより、怪人丈五郎の観念的な動機によほど惹かれてしまうのだけど。なかなか理解を得られない気がする……。

 

 『哲学者の密室』もまた再読したいなあ……。てか、『煉獄の時』来年にちゃんと刊行されるといいなあ。

*1:『バイバイ、エンジェル』P361