蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 『ウマ娘 シンデレラグレイ』の第二話を読む。

 北原にスカウトされ、オグリキャップはレースに出ることになる。東海ダービーについて熱く語る北原にオグリは短く答える。「私をレースに出して」

 扉ページに据えられた言葉は、“まだ見据える先もない”。彼女の目的はまずレースに出ることだ。

 アニメのウマ娘の主人公スペシャルウィークには初めから夢があった。“日本一のウマ娘”。母親から贈られたそれを、自分自身の意志で夢としたスペシャルウィークとは違い、オグリキャップにはそれがまだなく、この漫画はまずトレーナーの夢が先にある。

 現実のモデル馬のことを考えると、誰かの夢に翻弄されていくというのが序盤のカサマツ編における一つの物語の流れを形作るのかもしれない。事実と照らし合わせれば、トレーナの夢を振り切って、自身の夢を設定する形になるのかと思ったりもするが、もちろんあくまで勝手な予想にすぎない。

 オグリはベルノになぜそんなに走るのかと問われて、走れるから、と返す。自分は立って走れるだけで奇跡であり、だからすごく嬉しい。走れるから走る。彼女の根源的な走る理由はそれであり、恐らく事実における無茶なローテーションにつながっていく発言かもしれない。

 走れるから走る少女が、自分の夢を抱く話となるのか、それともそのまま突っ走ってゆくのか、そういう所も注目して読んでいきたい。あと、アプリのライブ要素は描かれるのかそれとも無視されるのか。

 また、今回はオグリキャップの何考えてるか分からないキャラながらも、お母さんが大好きだったり、その時の表情が可愛らしかったりと少し普段とのギャップが見えてきたところ。していなかった頭の髪飾りは、母親の現役時代のものという設定が明かされ、母娘の絆として二話目で装着――公式イラスト完全体に。

 そして、序盤のライバルとしてフジマサマーチ(モデル:トウショウマーチ)がクローズアップされ、いよいよその因縁が始まろうとするところ、その最初のレースで今回は終了。第三話も気になる所だ。

 久しぶりにヤンジャンを買った(というか、漫画雑誌を買うのはウン十年ぶり)。何のためにって、『ウマ娘 シンデレラグレイ』のためにである。

 ウマ娘はまあ、今のところサイゲームスの開発中であるアプリのメディアミックスとして出たP.A.WORKSによるアニメ『ウマ娘 プリティーダービー』が、大きな中心になっている、といっていいだろう。アニメが『ウマ娘』というコンテンツの形をくっきりさせたといっても過言ではない。

 そして、アニメが、他のメディアミックスとして出ていたサイコミの漫画と一線を画していたのは、『がんばれハルウララ』や『うまよん』『Starting Gate』といった漫画がキャラクター方面に重心をかけていたのに対し、キャラクターをたくさん出してはいたが、物語は主人公のスペシャルウィークサイレンススズカの物語一本に絞り、実際のレース展開に沿ったレース中心の物語の中でIFを描く、というコンセプトを示したことだ。そして、そのためにウマ娘という存在が、現実の競走馬の異世界転生した姿という設定を打ち出した(ゲーム公式サイトのイントロダクションにはそのような説明はない)。

 開発中のゲームについてみる限り、ゲームは実際の競走馬を美少女にし、そこにサイゲームスお得意のアイドル要素を組み込んだもののようだ。育成&シミュレーションでキャラクターに親しみつつ、ゲームとしてはレースを行い、勝利したら彼女たちのライブを見る、という他のアイドル・ソーシャルゲーム音ゲー要素が育成&レースに変わったようなもので、メインはその他のアイドルものと変わらないように思われる。どっちかというと、ダービースタリオン的なものを組み込んだ、ちょっと毛色の変わったアイドルゲームというのを目指していたのかもしれない。

 一方でアニメは、前述したようにそこに実際の競走馬の事実に基づいたレース展開を中心にして、そこに“もしも”を描くことという新たなコンセプトを持ち込んだ。アニメの開巻出てくる奇妙な壁画にかぶさる言葉は、このコンセプトを端的に表している。

彼女たちは時に数奇で時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前とともに生まれ、その魂を受け継いで走る。――この世界に生きるウマ娘の未来のレース結果は、まだ誰にも分からない――。

  この壁画とウマ娘の存在を説明する言葉は「シンデレラグレイ」の開巻にも言葉を変えつつ受け継がれている。そういう意味で、『Starting Gate』などの漫画はアプリのコンセプトに沿ったコミック化であって、この「シンデレラグレイ」はアニメのコンセプトの漫画化であると言えるだろう。また、この漫画はアニメの脚本、シリーズ構成を務めた杉浦理史、アニメウマ娘の実際の競走馬方面を一手に引き受け、プロデューサーを務めた伊藤準之助がストーリーを担当している。それも鑑みると、やはり『ウマ娘 シンデレラグレイ』は「アニメ・『ウマ娘 プリティーダービー』のコミカライズ」というふうに言える。

 なんだかめちゃくちゃ前置きが長くなってしまったが、アニメとの関連性は重要というか、作っている人間が同じなので、構成がアニメの第一話と少し似ている。そこをちょこちょこ比較しつつ、第一話「ここにいる」の感想を書いていこうと思う。

 

 ウマ娘の壁画の次は、府中の東京レース場が描かれる。ゴールドシチーの勝負服が変わっているので、この漫画はアニメとは別の世界なのかもしれないし、青年誌的な変更かもしれない(どっちかというと公式の衣装の方が好みだが)。まあそれはともかく、盛況なレース場と日本ダービーという競争ウマ娘の中心が描かれる。それをスマホで観て熱くなるトレーナー北原穣。

 一転して彼のいるカサマツレース場がうつる。さびれた地方のレース場。人はいないし、解説者もウマ娘もやる気がなく、ゆるい空気が流れている。

 アニメのウマ娘たちはキャラクターがほとんど有名馬の一流どころで、勝利に貪欲であったことを考えると、はなからやる気のないウマ娘たちはなかなか新鮮。

 設備も人員もウマ娘も中央とレベルが違う。そういう諦めの中で、北原トレーナーはスターがいないと嘆く。

自分と重ね合わせて心の底から応援したくなるような……そんなウマ娘……

  おそらく、これが今作のテーマというか、主人公のウマ娘が背負うものなのだろう。そんなトレーナーの横を風のようにして突っ切る主人公ウマ娘

 そしてカサマツトレセン学園。スペシャルウィークが登校した中央のトレセン学園と違っていかにもな地方の高校っぽい校舎。そして、語り手っぽいベルノライトの登場とその他のキャラクター紹介。ガラッとアニメのスペシャルウィークみたく入ってくる主人公。そしてアニメ同様、レースについての世界観説明。アニメではデビュー戦、未勝利戦から始まってG3・G2を勝ち上がってG1での勝利を目指す、みたいな話だったが、ここでは地方のローカルシリーズの説明。開催地は全国に十五箇所らしい(ここテストに出ますよ――アニメと同じセリフ出てきた)。この辺は現代の規模に準じているよう。帯広が出てきたので、一部ではばんえいウマ娘の存在で盛り上がる人々が。ちなみに、アニメの教師はきれいな女性だったが、この漫画ではロン毛のじいさんである。

 中央は? と質問するベルノライトに君たちは気にしなくていいです、と告げる教師。あそこはレベルが違う――。

 そして食堂シーンへ。主人公が教室に現れてから授業→食堂という流れはアニメと同様だが、アニメを観ているとこのカサマツ学園の地方感とアニメのトレセン学園の華やかさの対比が際立つ。アニメは田舎出身のスペシャルウィーク含めて教室のウマ娘たちはお嬢様に見えるし、食堂はオシャレなカフェテリアで、メニューも豪華だ。一方のカサマツは制服着崩していたり、だらしない座り方してたりと、多くは普通の女子高生風だし、食堂は泣きたくなるくらい地方の大学食堂丸出しだ。そこでアニメのスペシャルウィーク同様――いやそれ以上の山盛りご飯を食らう主人公。元馬の健啖ぶりはアニメに出てきた時と同様かそれ以上か。

 入学そうそう遅刻したり、食堂で悪目立ちしたせいか、ちょっとガラのよくなさそうな三人組のウマ娘に目をつけられた主人公。三人組の一人と同室だったため、体よく物置に追いやられてしまうが、本人はあまり気にせず三人組も毒気を抜かれたようになってしまう。この物置で寝るシーンで母親との回想シーンが入る。アニメのスペシャルウィーク同様、母親との約束というのも一つのテーマになるのかもしれない。

 そしてゲートを体験する模擬レースへ。いきなり出遅れてしまう所もアニメのスペシャルウィークと同じ。そして、ベルノライト、君は立ち止まってていいのか……アニメのトレーナーに叱られそう。出遅れたものの、驚異的な追い上げを見せつけゴール。その姿に、北原トレーナーは自分と重ね合わせて応援できるようなウマ娘の存在を確信する。ここにそのスターがいる!

 北原は彼女に名前を尋ね、そして彼女は答える――オグリキャップ、と。

 

 

 という感じの一話で、まとまりの良いアニメ第一話って感じでしたね。アニメとは対照的に、まずは地方のウマ娘のレースに焦点が当たると思うので、アニメ観てるとそのギャップをより味わえる。そういう意味でも、まずはアニメを観ることをおススメしたい。いや、まあ、見なくてもいいとは思うけど、より楽しめるということで。

 アニメのスペシャルウィークの物語は舞台も華やかで、夢に向けて一直線という感じでしたが、アニメのOVA版である「BNWの誓い」におけるナリタタイシンの物語で、夢とその期待に応えられない恐怖が描かれました。そして、今回の「シンデレラグレイ」、その巻頭に添えられた言葉は「時を超え、夢と業を背負う少女たち……」ということで、アニメではあまり描かれなかった夢の影の部分みたいなのが色濃く出てきそうな気はしますね。

 アニメのスペシャルウィークと違って、オグリはあまり感情を表に出さないので、ツッコミ役兼語り手としてベルノライト(詳しい人々によるとツインビーという競走馬が元ネタらしい)というキャラクター配しているのだけれど、出会いという意味では、北原トレーナー、そして今後出てくるであろう最大のライバルが大きな役割を背負っていそう。とはいえ、ベルノライトがどんな役割を果たすのかも気になる所です。

 アニメ・ウマ娘の系譜として、レース展開や実際の競走馬に基づくエピソードがちりばめられたり再現されていくのでしょうが、個人的にはそこまで競馬を知らないということもあって、「忠実な再現」というか、どこまで史実に基づいてるかみたいなのを計測することには正直興味はなくて、それはどうせ調べたり、そうしなくても競馬ファンいちいち指摘してくると思うので、ウマ娘のIFがどう描かれるのかが興味あります(オグリ時代の地方競馬場の数が、現在のものになってる云々とかのツッコミとか心底どうでもいい)。

 アニメはスペシャルウィークサイレンススズカが出会う、というIFが物語を形作っていましたが、今回はどんなIFが物語を形作るのか、そういう興味で見ている感じです。

 あんまりこういうと競馬ファンからは怒られそうですが、私はオグリキャップの物語というよりは、ウマ娘オグリキャップの物語を楽しみたいという所があるのです。それがわざわざ擬人化して物語る意味というか、伝記とかじゃなくて一個の創作物として作る意味というか、アニメ『ウマ娘  プリティーダービー』がウマ娘スペシャルウィークサイレンススズカの物語だったように、そこから実際の競走馬への物語に導いていけるような物語でいいのではないか、そう思っているのですが。

 そういうわけで、競馬ファンからはあまり評判がよろしくないライブもぜひ描いて欲しいなー、というふうにも思っているわけです。別にメインで描く必要はないし、アニメでも額縁みたいな役割でしたが、中央との華やかさのギャップが描ける要素にもなるでしょうし、またウマ娘異世界ぶりがはっきりわかるという意味でも見てみたい、ライブ。

 あと、気になった点として、カサマツトレセン学園入学時のオグリは、公式イラストでつけている勝負服柄のカチューシャをしていないので、そのカチューシャについてのエピソードが盛り込まれるっぽい感じでしょうか。そのあたりも注目して見ていこうかなと。それから、舞台の笠松がカサマツになっているのは、フィクションなのでということなのでしょうが、佐賀競馬場もサガってカタカナだったのはなんでなんだろう……同じサイゲームスコンテンツで、佐賀を舞台にしたゾンビランド・サガに対する目くばせなのか、もしくは舞台として登場するのか。

 なんにせよ、作画担当の久住太陽によるレース描写の迫力やコマ割りのテンポも良くて、漫画としても期待できるものになっていると思いました。第二話も期待です。

寂しさが冷たく発火する:島田荘司『火刑都市』

改訂完全版 火刑都市 (講談社文庫)

 島田荘司作品の中にあって、かなり地味な地位にあると思われる本作。著者の二枚看板である御手洗シリーズや吉敷シリーズではないノンシリーズものではあるが、主人公は吉敷シリーズでたびたび出てくる中村吉造が務めている。

 この小説は島田荘司の社会派的な側面と都市評論的な側面が色濃く出た作品だ。そして、大まかにはそれに準じた二部構成になっていて、消えた女性の足取りを地道に追う前半部と、東京という都市にまつわる放火犯の後半部。それらが混じり合うというよりは、東京という都市の上に載せられていることで、まとめられている印象はするものの、二人の男女の奇妙な関係性――決して融和することはないが、離れることもできない姿と二重写しになっている。

 事件を追ってゆく中村刑事は、次第に東京という都市の姿を、そしてそこに住もうとしながらも馴染めなかった者たちの姿を見つめてゆくことになる。

  島田荘司による社会派作品ということだが、確かにごく普通の刑事が足で地道に捜査していく要素を軸にしつつも、著者らしいスケール感のある事件の膨らませ方や不可能興味などが盛り込まれていて、著者らしい魅力が滲んだ作品になっている。

 

あらすじ

 東京都内で起きた放火事件。雑居ビルの焼け跡からは、若いガードマンの焼死体が発見された。発火当時、詰め所で何故か寝入っていたガードマンは睡眠薬を服用した形跡があり、しかし普段から飲んでいる様子はなかったという。なにか不審なにおいのする死。事件を担当することになった中村は、ガードマン――土屋の生活の中に痕跡を念入りに消した女性の存在をかぎつける。

 人付き合いのない土屋の生活の中に婚約者として入りこんでいた女性は何者なのか。彼女の行方を追う中村。彼女の名前を突き止め、寒風吹きすさぶ越後の地にまでその姿を辿ることに成功したのもつかの間、そこで彼女――渡辺由紀子への糸は途絶えてしまう。

 由紀子を見失う一方で、東京では土屋の死から続く放火事件が頻発していた。その放火の現場は奇怪な状況で発生し、「東亰」という不可解な文字が書かれた張り紙が残される。そして、ついには犯人による犯行声明が。

 土屋の事件から始まる由紀子の失踪、そして連続放火事件をつなぎ、真相が明らかになる時、浮かび上がるのは奇妙で孤独な男女の姿。そして、彼らがみる東京という都市は中村に何を語るのか。

 

感想 ※この先は少しネタバレを示唆する部分があるのでそのつもりで。

 

 

 島田荘司は都市というものに執着していることをたびたび語ってきていた。そして、本作はその都市への思い――特に東京へのそれが物語として結実した代表作といっていい。

 この物語の前半部は社会派のフォーマットに則り、失踪した女性を追う刑事の足による地道な捜査が描かれる。そして彼女の故郷である越後の寒村に行きつくことで、社会派としての本作は一つのピークを迎える。

 しかし、この小説の島田荘司らしさ、その島田荘司流の社会派の真価はそこで失踪した渡辺由紀子の行方が途絶えてから始まる。放火事件が次々と起こり、そこに不可能興味が浮上していくとともに、本作もう一人の主人公ともいえる男の姿が浮かび上がる。同時に東亰という過去に束の間存在した東京のもう一つの言葉と水の都市としての側面。社会派的な前半部からギアチェンジする後半部は島田荘司ならではの演出が光る。

 東京についての憧憬ともいえる都市論が語られるとともに、放火犯の犯行声明により、放火が文字通り東京に対する「火刑」であったことが明らかになる。このある意味犯人の思想が色濃く出た作品は島田荘司作品の中にあって、異質な光芒を放っているように思う。

 実利的な動機を持つ女とどこか抽象的な動機で動く男。この二人の人物が二つのプロットを駆動し、中村刑事を動かす。しかし、それらは止揚するというより、東京という都市の器によってかろうじて盛り付けられている。そして、それらは彼らがつながり合うことはなくとも、なんだかんだ離れられない奇妙な関係性に陥っているのと重なり合い、構成が人間関係の二重写しとなっている。ある意味絶妙なバランスといえるかもしれない。

 島田荘司の作品はどちらかというと人情的な犯罪動機に収束していくタイプがおおく、この作品もどちらかというと女性の悲哀みたいな部分に収斂していくのだが、それでも放火犯の東京を火刑するという都市への、そしてそこに住む人間に対する怨嗟の叫びが発火するような犯行声明に私は魅せられる部分があった。まあ、単純に対世界みたいな中二感が好きという個人的な嗜好が入ってはいるのだけれど。

 犯人たちはどちらも東京出身ではなく、東京に来たもののそこからはじき出されてしまった人間だ。そして、それを追う中村吉造は東京に生まれた生粋の東京の人間である。中村には、彼らの疎外感は分からない。はじかれてしまったからこそ、男はかつてあったかもしれない水の都「東亰」に憧れを抱く。しかし、生粋の東京人中村はそんなものが今現れたとしても、やはり外堀は埋め立てられ、木は切られ、マンションが建つだろうと、どこか諦めにも似た思いを抱いている。

 女もまた東京が怖いと言い放つ。しかし、そんな中で初めて優しくされた、手を差し伸べてくれた人間が土屋だった。そのはずなのに、彼女は結局彼を好きにはなれなかった。誰にもうかがい知ることのできない彼女の孤独な空白を、やはり中村はどこか諦めたように眺めることしかできない。

 この作品は、大都市の中にあってどこにもつながることができない人間の寂しさ、そんな人間の今いる都市の、そして夢想する都市の寂しさ。どこまで行っても寂しいトーンで貫かれた物語であり、そして、著者の中村に託した東京に対する諦念にも似た視線を感じられる作品でもあるように思えるのだ。

 東京を火刑する炎、それはどこまでも寂しい冷たさをたたえている。

 

  またそこそこミステリを読んだので、感想をバーッとあげていこうかと。

 

  今現在『十二人への手紙』が再ブレイク中の井上ひさしによる長編ミステリ。二人の作家が招かれた温泉宿で起きる奇妙な事件。橋は落ちるし、鬼の面をつけた怪人物が登場したりと、いかにもな探偵小説風味のストレートなミステリとなっています。とはいえ、どこか「探偵小説」をあえて演じて見せた距離感というのはありますが。

 テレビ、という文化がなにか影響しているような気がしたりするんですけど、どうもうまく言えない……というのもズバリテレビの枠組みで横溝的な「探偵小説」を覗いた島田荘司の『嘘でもいいから殺人事件』とかなり近いテイストがあるんですよね。

 本気で本格探偵小説をやって見せるというより、消えてしまった伝統芸能をあえてヤラセで再現してみる……みたいな。うーん、やっぱりあんまうまく言葉にならないですね。

 

  学園祭のお化け屋敷で起きた殺人事件を、分刻みのアリバイを検証しつつ犯人を特定するという要素がウリの本格ミステリ。そこは確かに細かな検証と伏線の回収が行われていて、少しずつ真実に迫っていく楽しみがありました。

 この作品、動機が全く描かれないことに不満がある向きが結構あるようなのですが、むしろその動機が全く描かれないことこそが、事件の中心にあるトリックの怖さ、そこに居た人間の怖さを浮き彫りにしていると思います。空白がゆえの怖さというものがありますし、また、主人公の「空白」とも連動しているような気がして、なにがなんでも動機がないといけないというものではないとは思うのですが。

 殺人動機はともかく、探偵役の甲森さんといういかにもな陰キャの彼女が事件に挑む動機というものが結構面白く、誰かのためとかじゃなくて、完全に自分のためというのも良いですし、それが結局は報われないというのもまた、独特の探偵像として印象深いキャラクターになっていると思いました。

 

  久々のロスマク。とはいえ、あんまり読んでないんですよね。『ウィチャリ―家の女』とか、『さむけ』ぐらいしか読んでいないはず。確か、「魔術師オーフェン」の登場人物の名前の元ネタってことで手を出したような。

 今作は、ショットガンを持ち出した娘の行方を捜す、というハードボイルドの典型的な失踪者を捜すというのとは少し変わったシチュエーションになっていました。途中で姿を見つけたのを取り逃がすという出来事もあって、失踪者が生きてるのか死んでるのか、みたいな要素はひかえめ。ただし、その娘さんがとても危ういシチュエーションにいるという綱渡り状態が続くので、結構緊張感があります。

 この作品、衝撃の強さだとシリーズピカ一みたいな感じで言われていたので手に取ったのですが、確かになかなかの背負い投げを食らわせる結末となっていました。

 あと、最後に出てくる冷然とした母親という存在が、謎が解けるとともにクローズアップして、強い印象を残しました。

 

遊川夕妃の実験手記 彼女が孔雀の箱に落ちたわけ (星海社FICTIONS)

遊川夕妃の実験手記 彼女が孔雀の箱に落ちたわけ (星海社FICTIONS)

  • 作者:綿世 景
  • 発売日: 2020/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  星海社FICTIONは、ここ最近だと『不屍者の検視人』や『世界樹の棺』などのミステリがスマッシュヒットしていて、こちらの作品もまたなかなか面白いミステリでした。破天荒な自称博士である遊川夕妃とその助手が、借金返済のために潜り込んだ女学園で遭遇した殺人事件を解決する話。「孔雀の箱」と呼ばれる奇妙な箱で見つかった死体。そして容疑者の少女はどこへ消えたのか。

 遊川夕妃のハチャメチャなキャラで物語を駆動していきますが、彼女が駆動する物語には別の側面があり、その別の物語が立ち上がってくる複層的な構成がなかなか。ミステリの要素もシンプルな構図が上手く効果を上げています。

 終盤に向けて高まっていく緊張感と次々と物語が立ち上がっていく感覚が良かったと思いますね。

 

三人の名探偵のための事件 (海外文庫)

三人の名探偵のための事件 (海外文庫)

 

  前読んでたはずなのですが、再読してみたら結構忘れてました。密室トリックの一部とかくらいしか覚えてませんでしたね。

  ピーター・ウィムジイ卿風の貴族探偵、エルキュール・ポワロ風の外国人探偵、そしてブラウン氏風の神父探偵と三人の名探偵、そしてさえない警部が出てきて密室殺人事件の謎に挑むというお話。殺人件数一件で、ここまで引っ張れるのかという。ちょっと中盤は弱い気はするのですが、それでも三人の名探偵たちの推理を順繰りたどることで、読ませます。

 名探偵のパロディ3人については、出番に結構ムラがあって、神父探偵の出番はほかの二人に比べると少なめですね。事件構成は凝っていて、著者の名探偵賛歌もほほえましい一作ですね。

希望が死んだ夜に (文春文庫)

希望が死んだ夜に (文春文庫)

  • 作者:涼, 天祢
  • 発売日: 2019/10/09
  • メディア: 文庫
 

  現代における貧困をテーマに、二人の少女の交流と別離を描く社会派作品。なんというか、『砂糖菓子の弾丸はうち抜けない』の系譜にあるような感じの作品で、非常に重たい読後感が後を引きます。

 貧しい少女と恵まれた少女の出会い、彼女たちの触れ合いがやがて希望を育み、そしてついにそれが“死んでしまう”までを描いていく。

 彼女たちの儚い触れ合いの果てに、一方が死に、生き残った少女は自分が彼女を殺したということを主張する。果たして彼女は殺人を犯してしまったのか。

 ミステリとしてもなかなかですが、何と言っても現代の貧困に陥ってしまう若者の姿とその貧困ゆえ、そして世界の狭さゆえに死を選ばざるを得なかった少女たちの悲しみ、そして残された者の絶望。

 たまたま生き残ることができた大人は、かける言葉を必死に探そうとする。そんな少女の絶望を真摯に見つめるような視線に、希望があることを祈るようなラストでした。

名探偵の行き先:エラリー・クイーン『第八の日』

第八の日 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-6)

 『第八の日』は、自分の衝撃を与えたミステリ10選として過去挙げていた作品だ。

kamiyamautou.hatenablog.com

  そして、最近、『ミッドサマー』を観て、なんかちょっと似たようなところあるな、みたいな気がしたので、なんか記事のネタになるかもしんねえ……という下心もあり、再読した次第。ミッドと同じく、都会の疲れた人間が自然のど真ん中に展開される集落に行きつき、妙な事態に巻き込まれる。村にはそれぞれの役割を配置された十二人の評議員と彼らを導く“教師”がいて、その中心にはなんだかよく分からない謎の書物がある。燃えるやまよもぎの匂いが村につくまでやたらと漂うのはドラッグを思い起こさせるし、彼らは最終的に「儀式」をへて、外部の人間を新たな指導者として迎え入れる展開もどことなく似ている。

 とはいえ、再読し終えてしまうとその辺はどうでもよくなった。この本の持つ奇妙な引っ掛かりのほうが、改めて自分の中で大ききなっていったからだ。

 

 改めて読むと、やはりあの一行はちょっと重たいし、最後のエラリイの立ち尽くすような姿は国名シリーズを読んできた読者にはとてもインパクトがあるだろう。個人的にエラリイ三部作と呼んでいる『十日間の不思議』『九尾の猫』の掉尾を飾る作品で、なんとなくシリーズ最終作と勝手に捉えている作品でもある。

  『第八の日』はエラリイ・クイーンの作品の中で極めつきの異色作だ。この作品は1964年に執筆されたわけだが、それは東京オリンピックの年だったりする。そして、アメリカでは公民権法が成立し、ベトナム戦争が激化していった年でもある。

 しかし、クイーンはこの作品を1944年の話として書いた。第二次大戦がその多量の死を生み出さんとしていた時期だ。作中のエラリイは映画のシナリオを描くためハリウッドに赴き、一日20本のシナリオを書き、そして疲弊している。実際の執筆当時の60年代ハリウッドは、新しいうねり、いわゆるアメリカンニューシネマが台頭し始める時期*1であり、40年代のロートルたちの映画がウケなくなっているという時代でもある。

 二十年のタイムラグは恐らく意図的であり、第二次大戦とベトナム戦争二重写しの存在なのだ。カウンターカルチャーのうねりが大きくなる中で、この老作家は、自身の生み出した時代遅れになりつつある「名探偵」を外界から隔絶された村へと送り込む。

 初期のクイーンは主に閉じられたフィールドを形成することで高度な犯人当てを達成した。その後、クイーンはハリウッドやライツヴィル、ニューヨークといった街や都市というふうに、フィールドを広げ、そのどこかリングのロープが見えずらい場所で犯人と戦う方向性を模索し、そしてそれは文字通りの苦闘となってゆく。その見えずらいリングの上で探偵小説としての探偵と犯人をまとめ上げるのは、人間の意志を越えたもの――運命であり、やがて“神”が姿を現すようになる。

 勝手に個人的な三部作としている『十日間の不思議』『九尾の猫』そして『第八の日』は、その事件のフィールドを、『十日間の不思議』では家というミニマムな場所から、『九尾の猫』でニューヨークという広大な都市に移し、そしてこの『第八の日』に至り、広大な砂漠の中に浮かぶ、小さなコミュニティへと移り変わる。そのフィールドの変遷も興味深い所だ。

 今作は、広大なフィールドの中に浮かぶ小さな舞台の中で、エラリイはこれまでのような警察組織の助けを借りることなく(『シャム双生児の謎』もそうではあるが)、身一つで殺人事件の謎に立ち向かうことになる。

 社会とも切り離されたこのコミュニティは、それまで殺人事件が起こったことがなく、よって殺人事件を捜査するという概念に乏しく、指紋すら知らない。そんな中で、エラリイは、自前の捜査キット(これも「シャム」で活躍した)を使い、関係者を一人一人尋問してゆく。

 クイーナンという村には十二人の評議員とそれを統べる「教師」なる人物がいて、彼は嘘をつかない。ある種の正直人パズル的な要素が組み込まれているのだが、そのミステリの難易度というか、密度は正直低い。簡単な語り落としによって、エラリーは欺かれるわけだが、割と早く誤謬に気づき、軌道修正する。そこは、『十日間の不思議』や『九尾の猫』を通過してだけあってか、立ち直りは早い。

 しかし、またもクイーンは失敗してしまう。それは、操りという問題ではなく、この村というシステムに敗北してしまうのだ。まあ、システムというよりも掟というものに近いが。契約といってもいい。

 打ちひしがれ、村を出ていくエラリイの前に村の新たな教師がメシアのごとく現れる。愕然とするエラリイは大いなる意思を感じつつ言う――

“あの丘の向こうには新しい世界があります。そしてたぶん……たぶん……そこの村民はきみを待っているでしょう”

 

 物語を改めて眺めてみると、本当に奇妙な物語だ。エラリイはニガヨモギの匂いに導かれるようにして「世界の果て」なる名前の店にたどり着き、そこから現代社会とはかけ離れた生活を送る集団の世界へと入る。そして、彼らの社会にある予言の一部としての役割を演じ、そして去る。そこには、もはやかつてあった本格探偵小説の姿は微塵もない。

 この物語は解決はもとより徹底して二重化三重化された諸々によって成り立っている。それは、先の方で述べた時代感覚の二重性の他にも物語のいたるところで顔を出す。酩酊感を誘うニガヨモギアブサンを連想させるとともに、天使を意味し、エラリイを村へと導く。そしてエラリイは予言者であったり、キリストを死刑にするピラトのようでもある。主要人物である「教師」はイエスのようでもあり、毒杯をあおるソクラテスの役割を担う。殺される雑品係――ストリカイはユダであり、銀貨三十枚で殺されるということで、またもやキリストの姿が浮かび上がる。

 キリストの意匠をまとうのは、最後に出てくる男、教師、雑品係という三人であり、これは恐らく三位一体ということなのだろう。そしてこの村の聖書は、作中の時代における敵国の「聖書」によってあまりにも異様な二重化がなされている。また、クイーナンという村はユダヤ教エッセネ派が作り上げたコミュニティということだが、文明を拒否した自然回帰的なこの集団は、執筆当時の感覚でいうと、ヒッピー的なコミュニティ、もしくはアーミッシュ的なものが重ねられているのかもしれない。

 しかし、この多層的に意味を重ねることにいったいどんな意味があるというのだろうか。ここで、再読中に読んでいた山本七平の『空気の研究』を引っ張り出そうと思う。

 いきなりなんで「空気」における日本人論の本が出てくるのか、と思われるかもしれないが、本論というよりは、山本の西洋理解、その根幹にある聖書についての言説が目を引いたのだ。

 山本は西洋の生き方を、対象をも自らをも対立概念で把握することによって虚構化を防ぎ、またそれによって対象に支配されず、対象から独立して逆に対象を支配する生き方を学んだとし、その教科書として聖書――主に旧訳を挙げる。そして聖書は徹底的相対化世界だという。要するに対象を絶対化しない。

 聖書に記述されている「人間像」は矛盾が多々ある。しかし、聖書はその矛盾を解消しようとはせずに、あらゆる命題が自らの内に矛盾を含み、その矛盾を矛盾のままに把握する時、初めて命題が生かされるとする。例えば、ヨブのように神の声という命題を絶対化してしまえば、その命題は逆に消えてしまう。

 あくまで山本七平という日本人の理解だが、何かとても『第八の日』という矛盾だらけの作品の形態に当てはまるものがある。エラリイはひたすら矛盾に満ちた出来事を前に立ち尽くし、すべてを承認するしかない。それはある意味「名探偵」の放棄だ。

 探偵小説はある種の絶対化によって、成り立っているものだ。作者クイーンはロジックを、ロゴスを絶対化することで、ロジックが神のごとく支配する作品空間を作り上げた。しかし、絶対化したことで、その命題はやがてひびが入り、崩壊することになる。ロジックを絶対化したことが、それをもってロジックの絶対性を操る存在が生まれ、エラリイの推理は逆に揺らぎ始めてゆく。

 そして、『ギリシャ棺の謎』でうっすらと浮上していたそれが『十日間の不思議』にて表面化し、『九尾の猫』や『第八の日』では、ついに彼の「絶対的な」推理は作品全体を支配することはない。『第八の日』は矛盾が矛盾のまま、そして奇妙な意味にならない意味だけが張りついた世界が展開されている。それはたぶん、われわれの世界のことでもある。

 神は一人であって、その他に神はいない――これは、『九尾の猫』の最後の言葉だ。

 絶対化されたロジックは、それを口にする探偵を絶対化させる。それゆえ、探偵は一種の偶像と化す。クイーンは探偵の偶像化を解除することをこの作品で鮮明化しているように思える。それは、探偵からロゴスを解放することだ。言葉にある意味が探偵によってまとめられ、世界を統べる一つの真理が形作られるのではなく、矛盾を抱えたまま存在するということ、それが、本来あるべき聖書的な世界であり、それはそれが書かれた人々の世界の認識であったはずだ。クイーンはこの作品によって、エラリイを絶対の偶像から解放しようとした。涙を流し、そして、彼は矛盾を承認して立ち去ることで帰還するのではないか――砂漠の向こうから来た男と入れ替わるようにして――矛盾に満ちたわれわれの世界へと。

 そういう意味でも、これは「名探偵」エラリー・クイーンの最終回(もちろんこの作品以降もシリーズとしては続くのだが……まあ、最後はここに行きつくという意味で)なんじゃないか……なんて。

 

 という感じで、最後はかなり強引にまとめてみました。ああ、そういえばプロットはクイーンの片割れであるダネイですが、執筆はSF界の鬼才ウィリアム・デヴィットスンによる云々にはメンドクサイのであえて触れませんでした。

 それにしてもクイーンに安易に手を出すべきじゃないですね、これまで以上にめちゃめちゃな文章になってしまった……あーあ。まあ、クイーンはこれっきりということで。

 とにかくなんというか、この作品は本当に奇妙な作品で、しかしどこか強烈に引き付けるものがある作品でもあります。世界という謎を残してエラリイは立ち去るしかない。残った世界の謎が、私たちを引き付ける。これはそう言う作品なのかもしれない。

*1:ニューシネマの嚆矢とされる『イージーライダー』(1969)まであと5年である

そのわけは天の上に:映画『明日、君がいない』

 ツイッターの相互フォロワーである青さん@8823_blue が、御自身のブログ『偽物の映画館』で紹介されていた映画に興味を持ち、観てみました。

 映画のタイトルは『明日、きみがいない』(原題は『2:37』)。監督は ムラーリ・K・タルリ。

青さんの紹介記事はこちら。

reza8823.hatenablog.com

 映画自体はとても良かったのですが、とあるシーンがかなりキツくて、文字通り刻み込まれるような映画体験になりました。気軽に観ていいものではなかった……しかし、それでも自分の一部になるような映画でした。

 映画と出会う機会をくれた青さんに感謝。

 

※今回はネタバレ前提で語っているのでそのつもりで。

 

 

 

 

 

  六人の学生がいる。彼らはそれぞれ違った場所で、脚光を浴びる者や差別される者、悲しみや鬱屈を抱えた者として、映画を観る者の前に現れる。

 そして、巻き起こるひとりの死。誰が死んだかは示されないまま、時間はその冒頭に死に至るまでさかのぼり、六人の学生たちの姿をつぶさに見せてゆく。それがこの映画の主旨だ。

 ある種の群像劇というか、ある場面のその時、他の人物がどう動いていたかなどがカットバックで描かれてゆく。邦画の「桐島」と似たようなテイストではある。しかし、描かれている学生たちの境遇は、「桐島」以上にハードだ。

 学校という中である程度はっきりと役割が見えているような彼らだが、次第に彼らが隠しているものや、心の奥にある深刻な思いがあぶり出されてゆく。

 それがもう、ひたすら陰鬱というか、どんどん息がつまってゆく。そこにはイケメンがオタクが陰キャ陽キャが、などという領域でそれぞれへの共感云々という要素は微塵もない。登場人物の持つものは圧倒的に彼ら自身のものだ。みんな辛い。ひたすら辛い。

 この映画は、先に述べた通り、六人の登場人物を提示し、冒頭の一人の死が伏せられたまま、その死に向かって時間が巻き戻る形で構成されている。ある意味、死者探しのミステリというふうに見ることもできるし、最後に示される死者はミステリ的な意外性を持っているとはいえる。だが、それはこの映画の主眼というわけではないだろう。

 六人の学生たちの苦悩が明らかになっていく中で、観る側は自殺の動機というものを、次々と浮かび上がる人物たちの、その苦悩を当てはめてゆく。これこそが自殺の理由なのではないか――観る側は、新しい苦悩が明らかになるたびに、死の理由をそれではないかと予想していく。

 しかし、最後に明らかになる自殺者は、これまでその六人の周辺にいつつも、特に姿を映されることもなく、語られることも無かった人物なのだ。ケリーという学生は、最後までその死の理由が提示されない。時系列が元に戻る直前――最後の最後で執拗に映されるその死の瞬間によって、ケリーという存在が鋭利なナイフのように、暴力的なまでに観る者に刻まれる。しかし、彼女の自殺に至る理由は空白のままなのだ。

 誰かの死について、私たちは常に理由を求める。特に当事者ではない場合は、たぶん失恋だろうとか、借金があったならそうかのかもな、みたいな理解で、その死をやり過ごす。もっともらしい理由を当てはめようとする。この映画の六人が抱えていた深刻な悩みなど、そういう恰好の理由だ。

 しかし、そのように観る者へ、この映画は平手打ちを食らわせる。映画のように、人の内面や状況をつぶさに見ることはできない。いつだって気がつくのは起こってからだ。そして、残るのはその人がもういないという厳然たる事実なのだ。

 ただ、具体的な理由は明かされないにせよ、六人の周りにいたケリーは、そのどこか透明な姿だけは映されている。そして他の六人とは違い、彼女は圧倒的に世界から切り離されている。苦悩する学生たちには圧倒的な暴力であれ、その苦悩の外部が描かれ、良くも悪くも「繋がって」はいる。しかし、彼女は他者へ関わろうとする意志を持ちつつも、常に空白の場所にいる。どこか透明ともいえる孤独感だけが画面からにじむ。

 そして、その自殺シーンはあまりにも壮絶で、不意にやってくる無言の他者の死というものを、心に刻み付ける。彼女だけじゃない、その刃は間違いなく、私をえぐっていた。

 最後に、冒頭の木々の青葉を見上げている視線、そして空への視線が彼女のものだとわかる。彼女が何を見ていたのか、何を望んでいたのかは誰にも分からない。それはもう、向こう側へといってしまったのだ。

 

 個人的なことだが、私は血がドバドバ出たり、人体破壊したりする描写を見せられることについて、もちろん好んでいるわけではないが、そこまで苦手ではない。しかし、手首を切るという行為だけは、昔から直視できないし、そういうのが脳内で認識されるだけで手首を不自然に曲げてわきに挟んだりして、衝動が過ぎるのを待つ。今回の映画では、そのシーンではほとんど目を逸らしていたし、血が飛び出るのが視界の端に入った時には、声を上げてうめいていた。なので、必要以上にこの映画に私は抉られているのかもしれない。ケリーの自殺シーンとは別に、かなりエグイレイプシーンもあるため、かなり心が削られる映画であった。

明日、君がいない [DVD]

 『バーナード嬢曰く。』の五巻が発売されたので、先日読んだ。四巻から二年ぶりということだが、町田さわ子は相変わらず本を読んでいて、自分の二年の停滞ぶりを思うと、なんだかその姿は眩しい。

 今回もとても素晴らしく、彼らと本の風景は、巻を重ねるごとにかけがえのない瞬間を切り取るようなものとなっている。さわ子と神林のやり取りは、これまで以上にその瞬間の切り取り方がウエットになっている。また、今回は遠藤君と神林という珍しい組み合わせが見られる。共通の知り合いを通してグループにいるものの、いざその知り合い抜きで一緒にいる時の距離感の掴めなさは彼ららしくて好きなシーンだ。特に遠藤君の屈折ぶりも増量で、遠藤君好きにはうれしい。

 さわ子と神林はもちろんのこと、全員の読書スタイルが固まってきていて、遠藤君や長谷川さんも交えた4人の読書のスタンスの違いなどが、より本と彼らの姿をくっきりとさせる。その違いというものがやはり楽しい。それぞれのメンドクサさも愛おしくなる。それは、彼らが純粋に読書することを楽しんでいるからだろう。

 それにしても、施川ユウキは取り上げる本の多彩さもそうだが、それを四人の本を読む日常に溶け込ませるのが相変わらず巧い。変に趣味に対する気負ったところもないし、とてもカジュアルでしかし、示唆に富んだ言葉がサラッと語られたりする。四人の関係性や日常を面白く語りながらも、きっちりそこで出てきた本も読みたくなる。そこに押しつけがましさは微塵もない。この漫画から、ごく自然に別の本への枝葉が無数に伸びていて、やはりそこがとても素晴らしいと思うのだ。

 

 一人で読んで終わるのもいいけれど、それについて誰かと語らうことで、本は読む人それぞれの、いかに読んだか、という姿を相手に伝え合う。それは、本を読むことと同じくらい面白いことだ。私は、じかに誰かと本について語らうという経験はあまりない。しかし、ネットによって、どう読んだかということに触れることができた。同じ本を読んで感じ方は様々だし、同じところもあれば、違う所もある。そんな他者との差異が興味深く、だから、私は誰かの感想を読むことが好きだ。もちろん、なんだよその感想……と思うこともあるが、それもまた他者との差異をはかる指標になる。

 今巻には、評価に迷ったり、なにを読むべきか……という読書する時に遭遇する思いに、背中を押すような言葉がちりばめられていて、読書をする、ということに対する元気を改めてもらうことができた。私も自分が読んだ本はこんな感じだったよ、という思いを彼らに伝えるような気持ちで文章を書いていけたらな、と。

 読み終えて早くも次の巻が待ち遠しくなると同時に、そんなふうに思うのだった。