蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

F・W・クロフツ『クロイドン発12時30分』

クロイドン発12時30分【新訳版】 (創元推理文庫)

Impression

 クロフツといえばアリバイ崩し、という前情報とこの題名で、ながらく鉄道を使ったアリバイトリックものなのかと思っていたが、鉄道は全然関係なく、「12時30分発」は被害者が死んでいるのが発見される飛行機のことなのだ。とはいえ、クリスティの『雲をつかむ死』のような、物語の中心になるような場として機能しているわけではない。単に冒頭で描かれる被害者の死に場所にすぎない。

 この作品は、『樽』に並ぶクロフツの代表作とされ、そして、黄金期の本格ミステリにおける倒叙ミステリ――つまりは犯人視点で進んでいくミステリである。犯人の視点で描かれる作品は、これが初めてではないが、その黎明期的な、型にはまっていない構成が独特の読み味というか、クロフツ流な倒叙を作り上げているような気がする(まあ、そこまで倒叙を私は読んではいないので勘違いかもしれないが)。

 倒叙、というミステリの形態がどのようにして生まれたのか、その萌芽はホームズあたりから出てきていたと思われる。『緋色の研究』(1987)といった長編は、犯人が判明した後で、その犯人視点で犯行に至るまでを語り直す構成をとっている。ならば、それを頭に持ってくる、というアイディアが出てくるのは時間の問題だったろう。1921年にオースティン・フリーマンの『歌う白骨』がミステリ史における倒叙の嚆矢といわれ、犯人視点で事件が描かれるミステリーが生まれていくことになる。

 ところで、私は倒叙が苦手だ。その理由は、犯人が初めからわかっている、という点に尽きる。ミステリとは、トリックを暴き、そのさきにいる犯人を探偵の推理が捕らえる――そういう、謎で満ちた物語という理解にあって、そもそも犯人が割れているということは、謎が大きく目減りしている、それってなんかお得感がない、そう思っていたのだ。

 ただ、一方で、倒叙は、ミステリがもつある欠点を解消する。それは、犯人の心理を描けないという点だ。正直、私としては、それを欠点とするかは微妙なところだとは思うが、人間心理を重んじる層から探偵小説の欠点だと指摘されていた時代があったりする。まあ、殺人事件に際して、大切な部分は殺人を犯す人間を中心に描くことである――それがまあ小説の文学性である、みたいな考えがあったとかなかったとか……例えば『罪と罰』を最高の推理小説と挙げたりするような読者にとって。

 まあ、それはどうでもいいのだが、とにかく、倒叙は犯罪を犯人視点で描くことで、誰だかわからない犯人を探偵が暴くというスタイルとは違う方向性(とはいえ、ある意味、従来的な文学的書き方ではないかと思うが)は、推理小説内の無視できないジャンルの一つとなっていく。

  本作は、倒叙の黎明期ということもあり、型にはまった感がなく、けっこう、今となってはこの作品ならではの味になっている。クロフツの樽と並ぶ傑作のひとつといわれているが、樽ほど凝ったトリックが仕込まれているわけではなく、どっちかというと小説的な妙味で読ませる作品となっていて、今でもちゃんと面白く読める作品だった。

 

あらすじ

 チャールズ・スウィンバーンは進退窮まっていた。不況の影響で会社の設備投資ができず、それによって予定していた仕事を取れず、銀行からの資金援助も打ち切りになってしまう。倒産が秒読み状態の中で、意中の女性ユナは金のない人間には目もくれず、自分から離れようとしている。そこで、チャールズは一つの決断を下す。彼の叔父、アンドルー・クラウザーの遺産を相続すること――そのために、叔父を亡き者とする。

 叔父がいつも飲んでいる錠剤の一つを青酸カリ入りのものとすり替える。そして、叔父が毒入り錠剤を飲むころにアリバイを作るため、クルーズ船の旅に出るチャールズ。そして、その船上で思惑どり叔父が死んだと知らせを受け、そもまま遺産を相続して会社を立て直すことに成功するチャールズ。すべては計画通り――そう確信したチャールズだったが、ある日突然、彼に司直の手が伸びる。

 

感想

 構成としては、工場経営者の主人公が、恐慌のあおりで経営に行き詰まり、窮地に陥っていくところを丁寧に描き、ついに叔父の遺産目当てに殺人を決意してから、今度は犯行の準備を、毒物をどう確保するか、というところからまた詳細に描いていく。

 通常の倒叙だと、殺人が終了してから、今度は探偵や刑事といった捜査陣が犯人の前に現れて、腹の探り合いだったり、手がかりや証言をめぐる攻防みたいなものが描かれていく感じだが、本作はわりとあっさりと逮捕されてしまう。そして、舞台は法廷に移り、法廷ミステリ的な攻防が展開されるのかと思いきや、そこもわりと淡々と犯人の犯行が立証されていって、最後に一縷の望みが見えるか――という展開はあるものの、そこもすぐにつぶされて、犯人は有罪判決を受けることになる。

 で、最後の最後で、フレンチ警部をはじめとした捜査陣による、なぜすぐに他殺だと判明したのか、なぜチャールズが捜査線上に犯人として浮かんだのか、彼の完璧と見えた計画が、いかに杜撰というか、すぐに特定されてしまうようなものだったのかが読者に開陳される。これが、探偵による謎解きパートのような役割をはたしていて、犯行が毒殺だと特定してからの、毒物の入手ルートをたどる捜査が丁寧に説明されて、それに付随したアリバイ工作などが検討されていく。そして、第二の殺人についての推理が開陳されるのだが、これが意外となかなかすごくて、犯人が死体をどう処理したのか? という出発点から、ある手掛かりが浮かび上がり、それに基づいて犯人の範囲を狭めていく。このあたりの推理は、チャールズも読者も見落としていた部分を突いていて、なかなか上手かったと思う。

 そんなわけで、クロフツ作品としては、アリバイ崩しがメインではないものの、倒叙としての面白さや、捜査や推理で犯人を特定していく面白さが十分楽しめる作品として、今読んでも面白いものになっていたと思う。なかなか読んで損はない作品だった。

複製されていく世界と私:映画『バックルームズ』(2026)

Introduction

 バックルーム――それは、インターネットの匿名掲示板(4chan)に投稿された一枚の写真から生まれた。黄色い壁紙と蛍光灯、そしてカーペット敷きの広めの空間と、それが奥に続いているようなどこか不穏な空気。もとは家具屋だった居抜き物件の改築中の様子を撮ったものらしいのだが、そこに映っていたどことなく不安を喚起させる映像に、この空間がバックルーム(壁抜け世界みたいな感じ?)であるという、短いが想像を掻き立てる文章が投稿され、この投稿の内容を起源として、無限増殖するような誰もいない空間に迷い込むという、インターネット怪談(クリーピーパスタと向こうでは言う)が出現し、それこそ様々な形で増殖していくこととなる。

 これまで数々のショートストーリーが投稿され、いろいろな設定があるらしいのだが、このネット怪談を一躍有名にしたのが、ケイン・パターソンズによる映像作品だろう。以前からの流行りだったファウンドフッテージ物として、この物語を映像化し、バックルームに迷い込んだ者が撮った映像という設定でYoutubに作品を投稿、それは2000万回以上も再生され、当時のSNS(twitter)経由で私もそれを観た。バックルームなるネット怪談の存在もそこで知り、知る人ぞ知るようなその話を、自分のようなそういうのに疎い人間にまで知らしめたという意味では、ケインの映像作品は、バックルームという存在を一気に一般的なものへと押し上げたといっても過言ではあるまい。

 そして、その当のケインが監督を務める映画がA24制作で今年公開されることとなった次第。監督のケインは20歳という、スピルバーグよりも若い年齢で監督デビューを果たすという異例な経歴となった。

 ショートストーリーによって、さまざまな人が語り、確立した側面があるにせよ、このネット怪談の肝というのは、最初に投稿された空間の映像にある。ああいった空間はリミナルスペースと呼ばれる。通路や空間、普段は人がたくさんいる場所において、営業時間外などで、人がいなくなり、がらんとしたいつもと違う感覚――あるはずの人がいないことによる、どことなく不安で異質な雰囲気をまとう空間のことをそう呼んだりするらしい。幽霊やら殺人鬼とは違う単にだだっぴろい空間そのものへの恐怖感――都市に住む人間ならではの新しい恐怖感ではある。バックルームというクリーピーパスタは、これまであった、都市の隙間に落ちるような不安感に具体的な質感と物語を与え、形にしてみせたと言えるのかもしれない。

 そして、その拡大に寄与したものが、インターネットというこれまた新しい人間のツールである。この映画は、そのネット以後の人間とその世界についての映画でもある。

 

あらすじ

 家具店を経営するクラークはある日、店の地下にあるショールームの壁をすり抜け、奇妙な空間を発見してしまう。そこは、黄色い壁紙と蛍光灯、そして家具が無秩序におかれた空間がどこまでも広がっており、その無人で奇妙な空間に、やがてクラークは魅せられるようにして探索にのめりこんでゆく。

 クラークのセラピストであるメアリーは、クラークが急に店の壁の向こうに出現した部屋のことを語りだし、それに囚われている様子に不安を覚え、彼の家具店に向かうが、店は営業している様子はなく、クラークや従業員の姿もない。そして、彼女もまた、何かに導かれるようにして、地下の壁の向こう――バックルームへと足を踏み入れることになるのだった。

 

感想 ※ネタバレ前提で語っていくので注意。

 要するにこれは、コピー&ペーストな話だ。くしくもクリーピーパスタというものが、もとはクリーピー(奇妙な)パスタのパスタが、コピー&ペーストという言葉の変化であるように。まあ、そもそもネット怪談というものは、元ネタのコピーのコピーのコピーの……という増殖し続けるコピーなのだから。

 いや、別にそれはネット怪談に限ったことではなく、この世界そのものというか、そもそも人間も遺伝子なるもののコピー&ペーストではある。まあ、それは置いておいて、ネットの登場によって、コピー&ペーストというものは身近で、特にSNSなんかでは、自身の言葉がコピー&ペーストされ、本人以上に力を持ったり、本人に災いをふりまいたりという世界になっている。

 この映画におけるバックルームというものは、空間そのものが何かしらの意思を持っているというか、人間や人間の記憶を複製する場所として機能しているらしい。まあ、近いのを挙げればソラリスの海のように。ただ、ソラリスの海ほど知性を感じるわけでなく、ただ、意味もなく模倣している、そんな感じが強い。しかも同じようなものを延々とコピーしていく感じ。犬を見たことがないものが、犬の説明を聞いて犬を描いている、みたいなことが劇中で繰り返しキーテーマとして語られているのだが、そういう、ある種の伝言ゲームによるズレが、どこか気味の悪い空間を立ち上げていく。そしてその気味の悪さは、現実のネット空間そのものでもあるのかもしれない。

 主人公の一人であるクラークは、自身を模倣したような存在に殺されてしまうのだが、その姿は彼が海賊に扮した姿であり、家具店のCMのために扮した姿であった。それは、複製された彼のもう一つのコピーとでも言うべきものであり、テレビを介してそれは拡散されていった。たぶん、彼自身よりも、その姿の彼しか知らない人の方が多くなっている。そして、その拡散した歪なコピーに殺されてしまうというのは、なかなかネット的なものをほうふつとさせるではないか。

 そんな感じで、コピー&ペーストの世界――つまりは、インターネットの世界として、この映画はバックルームを描いていく。そして、主人公たちは、そこから出ることはついぞない。

 ここからは作劇の話なのだが、クラークとそのセラピストであるメアリーは、それぞれ個人的な問題を抱えている。クラークはかつて持っていた建築家という夢を捨て、あまり経営のうまくいっていない家具店の店長。妻とも別れ、人とのかかわりを避けたがり、終わりのない空間であるバックルームの探索にのめりこんでいく。そして、彼をカウンセリングするメアリーも幼少期に部屋にまつわる記憶――外は危険だと部屋にいるように言いつける親、そしてそんな彼女たちがこもる部屋を、地上げなのか、行政の代執行なのか、重機が無理やりこじ開ける。

 とにかく、彼らは内にこもりがちな性質を示唆され、それは通常の作劇だと、その内向きな要素を打破することでカタルシスを醸成する。しかし、この映画の人物たちにそのような解放は訪れない。彼らは歪なコピー&ペーストの部屋に迷い込んだまま戻ってはこない。それはある意味、インターネットに囚われ続ける我々の姿と言えなくもないが、個人的には、登場人物たちの抱えた問題を設定しつつも、アンチクライマックスで解放感のない終わり方に、少しモヤモヤ感がないわけではなかった。確かに、演出的な狙いとしてはそのネット怪談やネットそのものに囚われ続ける我々、というのがバックルームというものの映画化として「正しい」形ではあるのだろう。とはいえ、ただでさえ現実世界そのものが出口の見えないものと化しているのかで、そういう現実を追認するようなフィクションを個人的には今あんまり摂取したくはなかったという……まあ、これは作品そのものの評価というよりは、単に私の個人的な事情に過ぎないが。

 とりあえず、結末はこのネタらしいといえばらしいだろうし、そういう意味で評価する人はいるだろう。あと、リミナルスペースの何とも言えない不安を喚起させる映像が好きな人は嫌というほど体感できる。じゃっかん退屈な部分はあるし、若い監督の割にはあまり破天荒というか、型破りなことはなく、妙に老成したような絵作りなのを含め、なんかそつなくこなした作品という印象だったりはしたが。もちろん、20歳そこそこで、ここまでの作品を撮れるのはすさまじい才能だとはおもうけど。

映画『ウェポンズ』(2025)

WEAPONS/ウェポンズ

 

あらすじ

 ペンシルベニアの小さな町で起こった奇妙な失踪事件。小学校の1クラス18人中17人が、深夜2時17分に一斉に外に出て、そのまま闇の中に走り去っていった。いくつかの家の防犯カメラに残っていた映像は、彼らがあくまで自主的に家を出たこと、そして、そろって手を斜めに広げたポーズで走って行ったことを残すのみで、その後も何の手掛かりもなく、彼らが消えてひと月が過ぎようとしていた。

 あまりにも異常な事態に、親たちの不安は、クラスの担任であったジャスティンへの不信と怒りに替わり、彼女は町の人間たちから非難や嫌がらせを受ける事態に。

 一方、ジャスティンのクラスでただ一人、失踪しなかった子供、アレックスは、警察をはじめとした大人たちからの追求に沈黙で通し、隠れるようにすべてを避けていた。

 アレックスの家には事件後、窓に新聞紙が張られて目隠しがされ、両親たちも全く外に出なくなり、異様な雰囲気に包まれていた。そして、この家を中心に、ジャスティンをはじめとした関係者たちに不可解な出来事が迫り始めていたのだった……。

 

感想

 ウェポンズという題名から『兵器人間』みたいな改造人間ホラーなのかと思ってたら、郊外の町で奇妙な出来事が起きるスティーヴン・キングの作品めいた感じのミステリ・ホラーという感じ。ちょっとIT風の恐怖描写もあるし、アリ・アスターの『ヘレディタリー/継承』のフォロワーっぽいところもある。

 話の全体構成としては、17名の子供の大量失踪という事件をフックにして、その関係者である、教師、警官、親、町に迷い込んだ浮浪者の青年、校長、そしてたった一人残された少年という、人物の視点を入れ替えることによって、章立てて物語は語られていく。

 それぞれのパートで起きる奇妙な出来事が、ある人物の視点でその前後関係が明かされたりなどして、少しずつこの町で何が起こっていたのか? という謎が明かされていく、その辺の構成――語り口はなかなか巧い。一応、ホラー映画的な演出はあるが、奇妙な集団失踪という大きな謎から、細かい気味の悪さを点描していきつつ、真相を明らかにしていくというミステリ的なテイストが強いかもしれない。とはいえ、ジャンプスケア的な恐怖もあるし、ふらっと異様なものが現れるとか、文字通りある何かが「立ち上がる」ところなどは、独特の恐怖感があったと思う。

 そしてなにより、この映画を象徴するような、子供たちが手を斜めに広げて闇夜をかけていく絵の何とも言えない不気味さが印象的。不穏、不条理、そういったイメージが映画を支配していて、このイメージが最終的にある意味爆笑というか、なんかスカッとするラストシーンになっていくのもインパクト大。

 映画最大のグロとともに、あんまホラーにはない、諸悪の根源を滅殺! みたいなカタルシスがあるにはあるが、ただまあ、癒えない傷もまた残るところもあり、爽快とも言い切れない後味を残して映画は終わる。その辺の塩梅も悪くはない。

 全体的に不穏や突発する異様な出来事を多視点で見ていくミステリ・スリラー色が強く、血みどろで痛い表現とかはそんなにないし、霊とか怪異が怖いというタイプでもないので、比較的ホラーが苦手でも見やすい方だと思う。どっちかというと、映画の中でもモチーフとして示唆されているが、”寄生”というべきタイプの、平穏な空間がみるみるうちに侵食されていくイヤ~な恐怖。そういうのが味わえる作品だ。

映画『開戦前夜』(2026)

 数日前、結構久々に映画を見に行った。『開戦前夜』と『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』の二本。二本で4900円した。スパイドメンはIMAXで観たのもあるが……って、それにしても高くないか? と思わずにはいられない。とはいえ、夏休みの映画館は流石に人が多く、みんな何を観に来ているのかよくわからなかったが(たぶん『ちいかわ』とか『トイ・ストーリー5』なんだと思う)。いやまあ、自分が観た二本も結構人が入ってはいたが。

 『開戦前夜』は猪瀬直樹によるノンフィクション『昭和16年夏の敗戦』をベースにNHKでドラマ化したもののノーカット版みたいなやつらしい。著者については、正直現在のSNSの言動とか政治理念とか疑問符つきまくりであんま信用できないところはあるのだが、まあ、それはそれとして、かつて存在した「総力戦研究所」における日本必敗の研究結果が、開戦しかない、という空気の前には何の意味もなくスルーされていく様子は、これがまあ、まったく過去のことではなく、今現在のこの国の末期を見てるような感覚になってある種冷めた気分で観ていた。

 しかし、エリートの中のエリートが集められてどうのこのという割には、アメリカと戦えるかどうかなんて、石油備蓄量と工業生産力比べれば一目瞭然なことで、桁も違うそれらは別にエリートかき集めなくても、軍でも容易に算出できるだろ、というレベルで、案の定、総力研で出てる数字は軍の方でも出している。アメリカと戦って勝てないことは、分かっているやつは分かっている。じゃあなんでこんなことやってるの? みたいな感じなのだが、まあ、アメリカへの開戦までと開戦から負けるまでの詳細なシミュレートを彼らは行っていく。

 そもそもが研究機関というよりは教育機関だったぽい「総力戦研」の実態はあんまりよくわからないのだが、この映画では、こういう仰々しい名前の研究所で詳細なレポートをまとめて、避戦派はアメリカとの開戦回避の根拠として、あくまで自分たちから出たやつじゃないですけど、スーパーエリートたちが出したこういう結果がありますよ、という形で天皇をちらちら横目で見ている感じだ。

 てか、戦争を避けたい連中はみんなそんな感じ。自分たちでは言い出せないけど(世論や開戦論者が怖い:まあ、感情的で凶暴だからね)陸軍から言ってくれないかなあ、いや海軍の方こそ言うべきだろ、みたいな感じでけん制し合い、天皇は天皇で総理大臣が何とかしてくれないかなあ、みたいな感じなのだ。で、じゃあ皇族が総理大臣になったらみんなが言うこと聞くんじゃね? ということで皇族を総理にしようとしたらで、もしそれで戦争になって負けたら皇族、そして天皇に責任が集中してヤバいみたいな感じでやっぱそれもなしになる。

 要するに誰も貧乏くじを引きたくない、責任を取りたくない。そもそももう、開戦するってことは大筋で決まってるんだし、やるしかねーだろ。メディアは軍の言うとおりに世論をあおり、町行く人々も開戦だ! やるしかない! とわめいている(この辺の大衆も戦争を望んでた描写があるのは、割と見ない描写でよかった気がする。一瞬だが)。こうしてイキッた何も知らない人々と、大体どうなるかわかってるけど矢面に立ちたくねーな、という責任者たち、そしてとりあえず利権確保と金儲けできればいーかという豚と精神論で認知をゆがませたヤンキーを乗せた無責任集団の船は、流れでアメリカに開戦し、原子爆弾二発という”予想外”以外は予想通りの展開で壊滅しましたとさ。

 ところがどっこい、壊滅してないのである。無責任マンたちは当然のように生き残り、記憶を改ざんし、反省などもせず、そいつらに感化された戦争を知らないバカどもに同じことを繰り返させようとしている。この映画に映っているのは過去ではない。もうすでに防衛大臣は新たな戦い方を模索するといってドローンをせっせと購入する算段をつけてるし、先制攻撃するためのミサイル配備したり、ガンガン戦争できる法整備も進めている(どう戦うのかは知らないが。経戦能力? せめて食料自給率上げてから言えよ)。権力の広報係と堕したメディアという恥知らずの代名詞をはじめ、頭のおかしい総理大臣ごっこをしているこれまた恥知らずをだれも止めようとはしない。大衆は推し活とかいう感情と消費に支配された脳みそでユルユルである。そしてあいかわらず威勢のいいイキった言動が大好きだ。そんなこんなでとりあえずは第二の大日本帝国を目指して国民一丸となって邁進しているところである。

 ただ、今回は前回のようなカタストロフがあるのかどうかが問題だ。延々と戦争の準備を進めながらだらだらと独裁貧困国家として永らえる、そんな可能性が高いかもしれない。その独裁貧困国家――第二の大日本帝国が誕生するまで、あとそうそう時間はからないだろうという現実の中、正直こんな映画を観ても何も感じないというのが偽らざる私の気分だったりする。

 ちなみに、私の母方の祖父は戦争経験者で陸軍中尉だったが、負けるとかまったく思っていない認知のゆがんだ方の側で、アメリカに一番乗りするつもりでいたらしい。ノモンハンにいて広島に帰りそこで大和を見て日本海軍健在なり、と意を強くするもその時すでに連合艦隊は壊滅していて、またしても何も知らない祖父はそのまま沖縄に送られる――ところを直前に東大東島に変更され、そこで敗戦を迎えることになる。東大東島行は家族に連絡がいってなく、当時は死んだと思われて墓があったらしい。

 勝つつもりで戦っていた祖父にとって「総力戦研」やら、軍上層や内閣、天皇の挙動はどう見えたのか、今となっては何もわからないが、今のこの国の現状も含め、どう感じるのか、もし生きていたら聞いてみたかった気はする。

 いややっぱいいかも。

大胆で自由な時代を感じるミステリ:西村京太郎『消えたタンカー』

消えたタンカー 新装版 十津川警部 (光文社文庫)

あらすじ

 大型石油タンカー日本丸が日本への帰航途中で炎上、沈没する事故が発生。乗員32名のうち、船長を含めた6名は救命ボートに乗っているところを救出されたが、残りの船員たちの行方は不明のまま捜査は打ち切られた。しかし、その後、船長が不審な死を遂げたのを皮切りに、生き残って帰国した船員たちが次々と何者かに殺されていく。十津川警部補は警察に挑戦状を送り付ける大胆な犯人の犯行から、残りの船員たちを守るため、奔走することになるのだが……。

感想

 巨大タンカーの沈没から始まり、生き残った船員たちが次々と狙われていき、それをいかにして防いでいくのか、というのが前半のプロット。そして、その犯人との攻防に一つの決着がついてから、大きな謎――これがミステリらしい謎でうれしい――が立ちふさがる展開が事件をよりスケールの大きなものとして魅せる。

 前半部分は、犯人に先回りしてターゲットとなった船員たちを守れるか、というサスペンスで引っ張りつつ、犯人は死んだとされた32に人の誰か? という謎を十津川が捜査していくのがミステリのメインになるが、後半はより大掛かりな、本格ミステリらしい謎が出現するという展開がアツい。前半までの思い込みを切り替えることで、違う風景が見えてきて、壁を破ったようでありながら、そこにはまた大きな謎が……という作りこみがいい。そしてそんなことできるのか、という大胆過ぎる真相がまたスケールがでかくていいのだ。

 まあ、正直、色々とおおざっぱ過ぎない? みたいなところはあるのだが、だからこそこのスケールの大きなミステリに仕上がっている、というところもある。細かいところを気にしない、だからこその自由さみたいなみたいなものがある。殺しのプロっぽい犯人との攻防、あっさり一週間の休暇をくれて独自捜査を命じる上司、十津川は沖縄からブラジル、さらには南アフリカまで犯人と謎を追う。そこには、昨今の完全に作り物の異世界ですよ、という諦念めいた舞台設定でミステリを演じるのではなく、あくまで「現実」にひびを入れてまで、読者と地続きの世界にミステリのロマンを顕現させようとするあっけらかんとした力強さがある――ように思う。

 昔の昭和なミステリという先入観もどこ吹く風、何とも奔放なミステリの風を感じる作品だった。

ある男の、そして女たちの物語:アガサ・クリスティー『ホロー荘の殺人』

ホロー荘の殺人 (クリスティー文庫)

 

あらすじ

 アンカテル卿のホロー荘。そこには、卿の妻であるルーシーの親類縁者たちが招かれていた。彼らの間には、それぞれ微妙な関係性がわだかまり、その中心は医師のジョン・クリストウという妻子ある男であった。今にも何かが起きそうな関係性の軋みがホロー荘の中を不穏な空気で満たしていく。そして、ついに一発の銃声がホロー荘に響いた。駆け付けた関係者たちが目にしたのは、プールサイドに横たわる、ジョン・クリストウ。そして、その傍らには彼の妻ガーダが、ピストルを手にして佇んでいた。

 たまたま近くに滞在していたポワロは、アンカテル卿に招かれていたこともあり、成り行きで事件にかかわってゆく。はたして、ジョンを撃ったのはガーダなのか。ほどなくジョンを撃ちぬいた弾丸が、彼女が持っていた銃から発射されたものではないことが判明し、事件は混迷の色を帯びていく。

感想

 この作品は、事件そのものというよりは、そこに至るまでの登場人物たちの微妙な関係性――主に恋愛模様――をじっくりと描いていく。ジョンの妻のガーダをはじめ、ジョンと恋愛関係にあった彫刻家のヘンリエッタ。そのヘンリエッタに三度告白しているエドワード。そして、エドワードに惹かれつつ、貴族的な他の一族と境遇での距離感を感じているミッジ、さらにはかつてジョンに結婚を迫った女優のヴェロニカ。読んでいくうちに登場人物たちがくっきりと立ち上がり、読者に印象付けていく筆致は、さすがの円熟期の手管といったところ。

 タイプとしては『ナイルに死す』などの事件までにたっぷり紙幅をとって登場人物をじっくり描いていき、最終的にある女性の姿が浮かび上がるという感じ。とはいえ、描写の主体は特定の一人というよりはホロー荘の多様な女性たちでもある。ヘンリエッタを中心に、ミッジ、そしてダーガという女性たちのそれぞれの人生の落としどころが描かれていく。その陰影の形こそが、この作品の肝といったところだろう。そして、それが印象的に描かれるがゆえに、中心にいたジョンという男の影もまた色濃く読者の印象に残るのではないか。

 彼は影だ。登場人物たちの中心として、その周りが描かれていけばいくほど、その真ん中のぽっかり空いた彼という虚は強調されていく。こういう形で、すべてに影を落とす男性の人物像は、結構クリスティー作品の中では珍しい方なのではないか。そういう意味でもちょっと特異な感じの作品ではないかと思う。

 ミステリとしてもポワロシリーズとしては少し異色というか、探偵小説的な劇的さみたいなのは希薄だ。中心の仕掛け自体は、クリスティーの十八番の要素を帯びた思想設計ではある。ただ、それによってひっかけられるような快感は低めで、ポワロもなんで登場しているのか正直あまりよくわからない。事件も探偵が介入しなくとも登場人物たちの間で解決するような展開を見せるので、編集にポワロ出せと言われたから出した、みたいなくらいの印象がしてしまう。

 まあ、それはともかく、クリスティー円熟期の人物描写力が光る一作であることは間違いないだろう。クリスティー読みたいという人にいきなりこれ、というのはおすすめしないが、ある程度シリーズを読んだ読者には差し出したい、特に「ナイル」の事件が起きるまでが好きな人とかには――という作品だ。

映画『トレジャープラネット』(2002)

トレジャー・プラネット

 

 ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ制作の長編アニメーション。

 ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオというと、手塚治虫が憧れた過去の伝説的な作品以外にも『ライオンキング』『アナと雪の女王』『ズートピア』『モアナと伝説の海』といった世界的な大ヒットを生み出している一方、微妙な作品群もその大ヒットの間にちらちら挟まっている。本作はその、微妙な作品群の一つみたいな印象だったが、視聴して、まあ、その印象は変化しなかったといっていい。

 この作品は、ディズニーの古来からの手法――世界の古典的名作をアニメ化しちゃうというタイプの一つで、この作品の原作はスティーブンソンの『宝島』なのだが、初期のみんなが知っている風のおとぎ話をそのまま映画がするというよりは、SF風な世界にアレンジした作品となっている。また、2Dと3Dの融合を行うなども含め、過渡期的な挑戦が見られる。

 まあ、その挑戦が成功したかというと、微妙なところではあるのだが、宝島をSF仕立てにした世界はそんなに悪くない。ソーラーボードでサーフィンみたいに宙をかけるところとか、エウレカセブンに先駆けた爽快なアニメーションがあるし、特に序盤のシーンの自由落下する2D作画は今観てもこんなのそうそう見れないくらいの超絶クオリティを誇る。ただ、その最序盤が作画的クライマックスというのが少しつらいところだが……。あと、今観ると2D部分はすごいが、3Dの部分は3D黎明期というか、まだまだな部分もあって2D部分よりも古めかしく見えたりする。

 物語は、まあ、宝島のダイジェストみたいな感じで、宇宙仕立てにしているが、あんまり宇宙にした意味がないというか、原作場面を宇宙ならではの演出を取り入れたものにコンバートできているかといえば微妙だし、荒天の海や絶海の孤島で宝さがしみたいなアドベンチャーに替わるものを宇宙を舞台にして創出できているかというとそれもまた微妙な感じだ。ただ、海賊シルバーと主人公のジムとのどこか父と息子のような交流は結構悪くない作劇になっていたように思う。

 正直なんか全体的にいまいちな印象はするが、ディズニーの2D作画のすごみみたいなものはちゃんとあって、そこは今となっては見られない部分ではあると思うので、現在、改めて観るというのは、そんな悪くないんじゃないかとは思ったりした。