※割とネタバレ前提な感じで語っているのでそのつもりで
トロイの木馬――一人の男が発案したその奸計によって、10年にも及んだ戦いが終わることになる。男の名はオデッセウス。そして、男は故郷に帰る――さらに10年の時をかけて。
3000年ほど前、吟遊詩人ホメロスによる叙事詩として後世に残る物語は、知略の英雄の物語として語られてきた。しかし、一方で、プラトンはこの”英雄”を悪賢い男だと批判しており、特にトロイの木馬についてをその悪賢さの代表として指摘している。
おそらくその逸話をベースというか、トロイの木馬というのは、ある種の掟――人間の信頼を破壊するものの象徴としてこの映画の中心に据えられている。そして、オデュッセウスはその罰として、故郷イタケへの帰還を地獄めぐりとして長くさまよい続けることになる。
元の話は英雄の帰還として描かれているわけだが、本作は一つの「発明」によって戦いを終わらせたものの、そこに付随する”罪”の意識に囚われ続ける男の話になっている。なんというか、監督のノーランの前作である『オッペンハイマー』B面というか、いや、時系列が複雑に前後することを含めて、ほとんどそのまんまな作品構成だったりする。自分がやったことの大きさに慄き、罪の意識さいなまれ続ける。だからこれは、全体的に暗く、陰鬱な話となっている。
ほんとに、どこまでも陰鬱な話だ。戦後、トロイアからの帰還する中で、サイクロプスやライストリューゴーン族、キルケーの魔女、セイレーンやスキュラといった怪物や魔女という困難が立ちふさがるのだが、どれもオデュッセウス一行はひどい目に遭い、這う這うの体で逃げ出すことを繰り返しながら、オデュッセウスは同胞の兵士たちの数を減らしてゆく。
そして帰還してから、王妃の求婚者たちを一掃するクライマックスも、従来なら、王の帰還と今まで王妃を苦しめてきた下郎たちをバッタバッタとなぎ倒す、そんな冒険譚の最後を飾るシーンだったりするのだが、今作はなんというか、矢を受け刀を受けな満身創痍でのたうち回るようにして、最後ほとんど力尽きているような感じで戦いを終える。
戦いを終わらせるために、神と人間との掟を破り、自分だけ生き残ったという負い目を背負い、自らをイタケから追放することになる。罪と罰。ずっとそんな感じ。まあだから、スペクタクル映画を期待するとちょっとどうかというところはある。確かに、それなりに壮大な映像が続いている、という意味ではスペクタクル映画ではある。ただ、全体的にピントの合っていない、背景がボヤっとした映像と、どことなく狭苦しい画面構成と地中海を舞台にしたわりには陰鬱な空と海が続く。要するに、どれもがオデュッセウスの後悔や罪の意識とつながっている。だからこれは、正確にはスペクタクル映画ではない。現代のというか、まあ戦争に行ってきた人間のPTSDを映した映画なのだろう。
彼の周りでアテナ(ゼンデイヤが演じている。なんか彼女はこういう黙って愁いを帯びてる役ばっかりな気がする)として現れる女性――それが、オデュッセウスのPTSDの原点だとわかるシーンがこの映画のクライマックスといっていい。オデュッセウスの奸計によって虐殺の場と化すトロイヤ、そこで首をつかまれ、剣を叩き込まれる少女――それが、オデュッセウスの前にアテネとして現れる女性であり、彼女が首を切られる瞬間、別の兵士がトロイにあったアテナ像の首をはねるシーンが重ねられる。
トロイの木馬はアテナへの贈り物として残された。ギリシャ世界の神は、そこに住む者たちの共通の神であり、アテナは敵味方共通の神の一人なのだ。だから、トロイヤの人々は、自分たちのアテナへの贈り物として、それを城内に引き入れる。共通の神への供物にオデュッセウスは毒を仕込んだ。そして、城内になだれ込んだ兵士はアテナの像の首を断ち切る。彼らの神にもかかわらず。ある意味、神殺しのようなそのシーンは、オデュッセウスの心に彼の罪悪感の原点として刻み込まれる。
ぶっちゃけ面白い映画かというと、どうなのかなあ、という気はするし、相変わらずのノーラン、みたいな感慨以上のものは個人的にあんまなかったけど、まあ、今の時代でオデュッセイアを語るなら、みたいな形にしようとしてこうなっているのも分からないではない。ただ、映画として面白いかというと……みたいなところは正直ある。同時期に映画館で観たリドリーの『ラストサバイバー』の方が面白味があったような気がする。
世界に対する絶望の色が濃い映画ではある。共通する約束事が意味のないものになっていく世界――これまで信じられてきた「神話」が崩壊していく現実世界と重ねられたこの映画は、新しい時代の到来を予期して終わる。観ているときは何となく希望を感じるような気がしていたが、オデュッセウスがわざわざ「青銅時代の終わり」と口にすることで、それは自分の勘違いだということを悟らされる。彼が口にする「青銅の時代」とは、人間の時代を五つの時代――黄金、白銀、青銅、英雄、そして鉄の時代と五つに分けて、その人類の歴史の衰退をヘシオドスが語っていたことに由来する。
神々との約束を人々が守り、規律と正義に則った時代から、次第に堕落し、争いが絶えない時代へと移っていくという歴史観だ。暴力の芽生える時代が青銅、そして、その中でつかの間の栄光――英雄たちの時代をヘシオドスは置いているのだが、この映画の解釈的には英雄の時代(トロイヤ戦争などが含まれている)はただ単に青銅時代の中の殺戮者の代表たちが活躍した時代に過ぎないのだろう。そして、不正義が横行し、力が正義となった混迷の時代、「鉄の時代」がやってくる。それが、ノーランが予期しているこの世界の次なる時代の姿なのだろう。
そういう意味で、現実の似姿(と予期されるもの)としてこの映画は撮られている。ただまあ、そんなことわざわざ言われなくても分かってるよ、という気もしつつ、表現者として今やらないといけない、という意識も分からないではない。なんか映画そのものよりも、そういうことが自分の中でグルグルしちゃう映画ではあった。
人と人との約束事、前提となる「神話」の破壊者であふれたこの時代、問題なのは、そういう連中がオデュッセウスほど後悔も罪の意識も感じてはいない人間がほとんどだ、ということだろう。ルールの裏をかいて利益を得る人間が賢いとかいう意識が蔓延するなかで、オデュッセウスの苦悩が滑稽に見えかねない、そんな時代だというのが大きな絶望なのかもしれない。



