蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

寂しさが冷たく発火する:島田荘司『火刑都市』

改訂完全版 火刑都市 (講談社文庫)

 島田荘司作品の中にあって、かなり地味な地位にあると思われる本作。著者の二枚看板である御手洗シリーズや吉敷シリーズではないノンシリーズものではあるが、主人公は吉敷シリーズでたびたび出てくる中村吉造が務めている。

 この小説は島田荘司の社会派的な側面と都市評論的な側面が色濃く出た作品だ。そして、大まかにはそれに準じた二部構成になっていて、消えた女性の足取りを地道に追う前半部と、東京という都市にまつわる放火犯の後半部。それらが混じり合うというよりは、東京という都市の上に載せられていることで、まとめられている印象はするものの、二人の男女の奇妙な関係性――決して融和することはないが、離れることもできない姿と二重写しになっている。

 事件を追ってゆく中村刑事は、次第に東京という都市の姿を、そしてそこに住もうとしながらも馴染めなかった者たちの姿を見つめてゆくことになる。

  島田荘司による社会派作品ということだが、確かにごく普通の刑事が足で地道に捜査していく要素を軸にしつつも、著者らしいスケール感のある事件の膨らませ方や不可能興味などが盛り込まれていて、著者らしい魅力が滲んだ作品になっている。

 

あらすじ

 東京都内で起きた放火事件。雑居ビルの焼け跡からは、若いガードマンの焼死体が発見された。発火当時、詰め所で何故か寝入っていたガードマンは睡眠薬を服用した形跡があり、しかし普段から飲んでいる様子はなかったという。なにか不審なにおいのする死。事件を担当することになった中村は、ガードマン――土屋の生活の中に痕跡を念入りに消した女性の存在をかぎつける。

 人付き合いのない土屋の生活の中に婚約者として入りこんでいた女性は何者なのか。彼女の行方を追う中村。彼女の名前を突き止め、寒風吹きすさぶ越後の地にまでその姿を辿ることに成功したのもつかの間、そこで彼女――渡辺由紀子への糸は途絶えてしまう。

 由紀子を見失う一方で、東京では土屋の死から続く放火事件が頻発していた。その放火の現場は奇怪な状況で発生し、「東亰」という不可解な文字が書かれた張り紙が残される。そして、ついには犯人による犯行声明が。

 土屋の事件から始まる由紀子の失踪、そして連続放火事件をつなぎ、真相が明らかになる時、浮かび上がるのは奇妙で孤独な男女の姿。そして、彼らがみる東京という都市は中村に何を語るのか。

 

感想 ※この先は少しネタバレを示唆する部分があるのでそのつもりで。

 

 

 島田荘司は都市というものに執着していることをたびたび語ってきていた。そして、本作はその都市への思い――特に東京へのそれが物語として結実した代表作といっていい。

 この物語の前半部は社会派のフォーマットに則り、失踪した女性を追う刑事の足による地道な捜査が描かれる。そして彼女の故郷である越後の寒村に行きつくことで、社会派としての本作は一つのピークを迎える。

 しかし、この小説の島田荘司らしさ、その島田荘司流の社会派の真価はそこで失踪した渡辺由紀子の行方が途絶えてから始まる。放火事件が次々と起こり、そこに不可能興味が浮上していくとともに、本作もう一人の主人公ともいえる男の姿が浮かび上がる。同時に東亰という過去に束の間存在した東京のもう一つの言葉と水の都市としての側面。社会派的な前半部からギアチェンジする後半部は島田荘司ならではの演出が光る。

 東京についての憧憬ともいえる都市論が語られるとともに、放火犯の犯行声明により、放火が文字通り東京に対する「火刑」であったことが明らかになる。このある意味犯人の思想が色濃く出た作品は島田荘司作品の中にあって、異質な光芒を放っているように思う。

 実利的な動機を持つ女とどこか抽象的な動機で動く男。この二人の人物が二つのプロットを駆動し、中村刑事を動かす。しかし、それらは止揚するというより、東京という都市の器によってかろうじて盛り付けられている。そして、それらは彼らがつながり合うことはなくとも、なんだかんだ離れられない奇妙な関係性に陥っているのと重なり合い、構成が人間関係の二重写しとなっている。ある意味絶妙なバランスといえるかもしれない。

 島田荘司の作品はどちらかというと人情的な犯罪動機に収束していくタイプがおおく、この作品もどちらかというと女性の悲哀みたいな部分に収斂していくのだが、それでも放火犯の東京を火刑するという都市への、そしてそこに住む人間に対する怨嗟の叫びが発火するような犯行声明に私は魅せられる部分があった。まあ、単純に対世界みたいな中二感が好きという個人的な嗜好が入ってはいるのだけれど。

 犯人たちはどちらも東京出身ではなく、東京に来たもののそこからはじき出されてしまった人間だ。そして、それを追う中村吉造は東京に生まれた生粋の東京の人間である。中村には、彼らの疎外感は分からない。はじかれてしまったからこそ、男はかつてあったかもしれない水の都「東亰」に憧れを抱く。しかし、生粋の東京人中村はそんなものが今現れたとしても、やはり外堀は埋め立てられ、木は切られ、マンションが建つだろうと、どこか諦めにも似た思いを抱いている。

 女もまた東京が怖いと言い放つ。しかし、そんな中で初めて優しくされた、手を差し伸べてくれた人間が土屋だった。そのはずなのに、彼女は結局彼を好きにはなれなかった。誰にもうかがい知ることのできない彼女の孤独な空白を、やはり中村はどこか諦めたように眺めることしかできない。

 この作品は、大都市の中にあってどこにもつながることができない人間の寂しさ、そんな人間の今いる都市の、そして夢想する都市の寂しさ。どこまで行っても寂しいトーンで貫かれた物語であり、そして、著者の中村に託した東京に対する諦念にも似た視線を感じられる作品でもあるように思えるのだ。

 東京を火刑する炎、それはどこまでも寂しい冷たさをたたえている。

 

  またそこそこミステリを読んだので、感想をバーッとあげていこうかと。

 

  今現在『十二人への手紙』が再ブレイク中の井上ひさしによる長編ミステリ。二人の作家が招かれた温泉宿で起きる奇妙な事件。橋は落ちるし、鬼の面をつけた怪人物が登場したりと、いかにもな探偵小説風味のストレートなミステリとなっています。とはいえ、どこか「探偵小説」をあえて演じて見せた距離感というのはありますが。

 テレビ、という文化がなにか影響しているような気がしたりするんですけど、どうもうまく言えない……というのもズバリテレビの枠組みで横溝的な「探偵小説」を覗いた島田荘司の『嘘でもいいから殺人事件』とかなり近いテイストがあるんですよね。

 本気で本格探偵小説をやって見せるというより、消えてしまった伝統芸能をあえてヤラセで再現してみる……みたいな。うーん、やっぱりあんまうまく言葉にならないですね。

 

  学園祭のお化け屋敷で起きた殺人事件を、分刻みのアリバイを検証しつつ犯人を特定するという要素がウリの本格ミステリ。そこは確かに細かな検証と伏線の回収が行われていて、少しずつ真実に迫っていく楽しみがありました。

 この作品、動機が全く描かれないことに不満がある向きが結構あるようなのですが、むしろその動機が全く描かれないことこそが、事件の中心にあるトリックの怖さ、そこに居た人間の怖さを浮き彫りにしていると思います。空白がゆえの怖さというものがありますし、また、主人公の「空白」とも連動しているような気がして、なにがなんでも動機がないといけないというものではないとは思うのですが。

 殺人動機はともかく、探偵役の甲森さんといういかにもな陰キャの彼女が事件に挑む動機というものが結構面白く、誰かのためとかじゃなくて、完全に自分のためというのも良いですし、それが結局は報われないというのもまた、独特の探偵像として印象深いキャラクターになっていると思いました。

 

  久々のロスマク。とはいえ、あんまり読んでないんですよね。『ウィチャリ―家の女』とか、『さむけ』ぐらいしか読んでいないはず。確か、「魔術師オーフェン」の登場人物の名前の元ネタってことで手を出したような。

 今作は、ショットガンを持ち出した娘の行方を捜す、というハードボイルドの典型的な失踪者を捜すというのとは少し変わったシチュエーションになっていました。途中で姿を見つけたのを取り逃がすという出来事もあって、失踪者が生きてるのか死んでるのか、みたいな要素はひかえめ。ただし、その娘さんがとても危ういシチュエーションにいるという綱渡り状態が続くので、結構緊張感があります。

 この作品、衝撃の強さだとシリーズピカ一みたいな感じで言われていたので手に取ったのですが、確かになかなかの背負い投げを食らわせる結末となっていました。

 あと、最後に出てくる冷然とした母親という存在が、謎が解けるとともにクローズアップして、強い印象を残しました。

 

遊川夕妃の実験手記 彼女が孔雀の箱に落ちたわけ (星海社FICTIONS)

遊川夕妃の実験手記 彼女が孔雀の箱に落ちたわけ (星海社FICTIONS)

  • 作者:綿世 景
  • 発売日: 2020/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  星海社FICTIONは、ここ最近だと『不屍者の検視人』や『世界樹の棺』などのミステリがスマッシュヒットしていて、こちらの作品もまたなかなか面白いミステリでした。破天荒な自称博士である遊川夕妃とその助手が、借金返済のために潜り込んだ女学園で遭遇した殺人事件を解決する話。「孔雀の箱」と呼ばれる奇妙な箱で見つかった死体。そして容疑者の少女はどこへ消えたのか。

 遊川夕妃のハチャメチャなキャラで物語を駆動していきますが、彼女が駆動する物語には別の側面があり、その別の物語が立ち上がってくる複層的な構成がなかなか。ミステリの要素もシンプルな構図が上手く効果を上げています。

 終盤に向けて高まっていく緊張感と次々と物語が立ち上がっていく感覚が良かったと思いますね。

 

三人の名探偵のための事件 (海外文庫)

三人の名探偵のための事件 (海外文庫)

 

  前読んでたはずなのですが、再読してみたら結構忘れてました。密室トリックの一部とかくらいしか覚えてませんでしたね。

  ピーター・ウィムジイ卿風の貴族探偵、エルキュール・ポワロ風の外国人探偵、そしてブラウン氏風の神父探偵と三人の名探偵、そしてさえない警部が出てきて密室殺人事件の謎に挑むというお話。殺人件数一件で、ここまで引っ張れるのかという。ちょっと中盤は弱い気はするのですが、それでも三人の名探偵たちの推理を順繰りたどることで、読ませます。

 名探偵のパロディ3人については、出番に結構ムラがあって、神父探偵の出番はほかの二人に比べると少なめですね。事件構成は凝っていて、著者の名探偵賛歌もほほえましい一作ですね。

希望が死んだ夜に (文春文庫)

希望が死んだ夜に (文春文庫)

  • 作者:涼, 天祢
  • 発売日: 2019/10/09
  • メディア: 文庫
 

  現代における貧困をテーマに、二人の少女の交流と別離を描く社会派作品。なんというか、『砂糖菓子の弾丸はうち抜けない』の系譜にあるような感じの作品で、非常に重たい読後感が後を引きます。

 貧しい少女と恵まれた少女の出会い、彼女たちの触れ合いがやがて希望を育み、そしてついにそれが“死んでしまう”までを描いていく。

 彼女たちの儚い触れ合いの果てに、一方が死に、生き残った少女は自分が彼女を殺したということを主張する。果たして彼女は殺人を犯してしまったのか。

 ミステリとしてもなかなかですが、何と言っても現代の貧困に陥ってしまう若者の姿とその貧困ゆえ、そして世界の狭さゆえに死を選ばざるを得なかった少女たちの悲しみ、そして残された者の絶望。

 たまたま生き残ることができた大人は、かける言葉を必死に探そうとする。そんな少女の絶望を真摯に見つめるような視線に、希望があることを祈るようなラストでした。

名探偵の行き先:エラリー・クイーン『第八の日』

第八の日 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-6)

 『第八の日』は、自分の衝撃を与えたミステリ10選として過去挙げていた作品だ。

kamiyamautou.hatenablog.com

  そして、最近、『ミッドサマー』を観て、なんかちょっと似たようなところあるな、みたいな気がしたので、なんか記事のネタになるかもしんねえ……という下心もあり、再読した次第。ミッドと同じく、都会の疲れた人間が自然のど真ん中に展開される集落に行きつき、妙な事態に巻き込まれる。村にはそれぞれの役割を配置された十二人の評議員と彼らを導く“教師”がいて、その中心にはなんだかよく分からない謎の書物がある。燃えるやまよもぎの匂いが村につくまでやたらと漂うのはドラッグを思い起こさせるし、彼らは最終的に「儀式」をへて、外部の人間を新たな指導者として迎え入れる展開もどことなく似ている。

 とはいえ、再読し終えてしまうとその辺はどうでもよくなった。この本の持つ奇妙な引っ掛かりのほうが、改めて自分の中で大ききなっていったからだ。

 

 改めて読むと、やはりあの一行はちょっと重たいし、最後のエラリイの立ち尽くすような姿は国名シリーズを読んできた読者にはとてもインパクトがあるだろう。個人的にエラリイ三部作と呼んでいる『十日間の不思議』『九尾の猫』の掉尾を飾る作品で、なんとなくシリーズ最終作と勝手に捉えている作品でもある。

  『第八の日』はエラリイ・クイーンの作品の中で極めつきの異色作だ。この作品は1964年に執筆されたわけだが、それは東京オリンピックの年だったりする。そして、アメリカでは公民権法が成立し、ベトナム戦争が激化していった年でもある。

 しかし、クイーンはこの作品を1944年の話として書いた。第二次大戦がその多量の死を生み出さんとしていた時期だ。作中のエラリイは映画のシナリオを描くためハリウッドに赴き、一日20本のシナリオを書き、そして疲弊している。実際の執筆当時の60年代ハリウッドは、新しいうねり、いわゆるアメリカンニューシネマが台頭し始める時期*1であり、40年代のロートルたちの映画がウケなくなっているという時代でもある。

 二十年のタイムラグは恐らく意図的であり、第二次大戦とベトナム戦争二重写しの存在なのだ。カウンターカルチャーのうねりが大きくなる中で、この老作家は、自身の生み出した時代遅れになりつつある「名探偵」を外界から隔絶された村へと送り込む。

 初期のクイーンは主に閉じられたフィールドを形成することで高度な犯人当てを達成した。その後、クイーンはハリウッドやライツヴィル、ニューヨークといった街や都市というふうに、フィールドを広げ、そのどこかリングのロープが見えずらい場所で犯人と戦う方向性を模索し、そしてそれは文字通りの苦闘となってゆく。その見えずらいリングの上で探偵小説としての探偵と犯人をまとめ上げるのは、人間の意志を越えたもの――運命であり、やがて“神”が姿を現すようになる。

 勝手に個人的な三部作としている『十日間の不思議』『九尾の猫』そして『第八の日』は、その事件のフィールドを、『十日間の不思議』では家というミニマムな場所から、『九尾の猫』でニューヨークという広大な都市に移し、そしてこの『第八の日』に至り、広大な砂漠の中に浮かぶ、小さなコミュニティへと移り変わる。そのフィールドの変遷も興味深い所だ。

 今作は、広大なフィールドの中に浮かぶ小さな舞台の中で、エラリイはこれまでのような警察組織の助けを借りることなく(『シャム双生児の謎』もそうではあるが)、身一つで殺人事件の謎に立ち向かうことになる。

 社会とも切り離されたこのコミュニティは、それまで殺人事件が起こったことがなく、よって殺人事件を捜査するという概念に乏しく、指紋すら知らない。そんな中で、エラリイは、自前の捜査キット(これも「シャム」で活躍した)を使い、関係者を一人一人尋問してゆく。

 クイーナンという村には十二人の評議員とそれを統べる「教師」なる人物がいて、彼は嘘をつかない。ある種の正直人パズル的な要素が組み込まれているのだが、そのミステリの難易度というか、密度は正直低い。簡単な語り落としによって、エラリーは欺かれるわけだが、割と早く誤謬に気づき、軌道修正する。そこは、『十日間の不思議』や『九尾の猫』を通過してだけあってか、立ち直りは早い。

 しかし、またもクイーンは失敗してしまう。それは、操りという問題ではなく、この村というシステムに敗北してしまうのだ。まあ、システムというよりも掟というものに近いが。契約といってもいい。

 打ちひしがれ、村を出ていくエラリイの前に村の新たな教師がメシアのごとく現れる。愕然とするエラリイは大いなる意思を感じつつ言う――

“あの丘の向こうには新しい世界があります。そしてたぶん……たぶん……そこの村民はきみを待っているでしょう”

 

 物語を改めて眺めてみると、本当に奇妙な物語だ。エラリイはニガヨモギの匂いに導かれるようにして「世界の果て」なる名前の店にたどり着き、そこから現代社会とはかけ離れた生活を送る集団の世界へと入る。そして、彼らの社会にある予言の一部としての役割を演じ、そして去る。そこには、もはやかつてあった本格探偵小説の姿は微塵もない。

 この物語は解決はもとより徹底して二重化三重化された諸々によって成り立っている。それは、先の方で述べた時代感覚の二重性の他にも物語のいたるところで顔を出す。酩酊感を誘うニガヨモギアブサンを連想させるとともに、天使を意味し、エラリイを村へと導く。そしてエラリイは予言者であったり、キリストを死刑にするピラトのようでもある。主要人物である「教師」はイエスのようでもあり、毒杯をあおるソクラテスの役割を担う。殺される雑品係――ストリカイはユダであり、銀貨三十枚で殺されるということで、またもやキリストの姿が浮かび上がる。

 キリストの意匠をまとうのは、最後に出てくる男、教師、雑品係という三人であり、これは恐らく三位一体ということなのだろう。そしてこの村の聖書は、作中の時代における敵国の「聖書」によってあまりにも異様な二重化がなされている。また、クイーナンという村はユダヤ教エッセネ派が作り上げたコミュニティということだが、文明を拒否した自然回帰的なこの集団は、執筆当時の感覚でいうと、ヒッピー的なコミュニティ、もしくはアーミッシュ的なものが重ねられているのかもしれない。

 しかし、この多層的に意味を重ねることにいったいどんな意味があるというのだろうか。ここで、再読中に読んでいた山本七平の『空気の研究』を引っ張り出そうと思う。

 いきなりなんで「空気」における日本人論の本が出てくるのか、と思われるかもしれないが、本論というよりは、山本の西洋理解、その根幹にある聖書についての言説が目を引いたのだ。

 山本は西洋の生き方を、対象をも自らをも対立概念で把握することによって虚構化を防ぎ、またそれによって対象に支配されず、対象から独立して逆に対象を支配する生き方を学んだとし、その教科書として聖書――主に旧訳を挙げる。そして聖書は徹底的相対化世界だという。要するに対象を絶対化しない。

 聖書に記述されている「人間像」は矛盾が多々ある。しかし、聖書はその矛盾を解消しようとはせずに、あらゆる命題が自らの内に矛盾を含み、その矛盾を矛盾のままに把握する時、初めて命題が生かされるとする。例えば、ヨブのように神の声という命題を絶対化してしまえば、その命題は逆に消えてしまう。

 あくまで山本七平という日本人の理解だが、何かとても『第八の日』という矛盾だらけの作品の形態に当てはまるものがある。エラリイはひたすら矛盾に満ちた出来事を前に立ち尽くし、すべてを承認するしかない。それはある意味「名探偵」の放棄だ。

 探偵小説はある種の絶対化によって、成り立っているものだ。作者クイーンはロジックを、ロゴスを絶対化することで、ロジックが神のごとく支配する作品空間を作り上げた。しかし、絶対化したことで、その命題はやがてひびが入り、崩壊することになる。ロジックを絶対化したことが、それをもってロジックの絶対性を操る存在が生まれ、エラリイの推理は逆に揺らぎ始めてゆく。

 そして、『ギリシャ棺の謎』でうっすらと浮上していたそれが『十日間の不思議』にて表面化し、『九尾の猫』や『第八の日』では、ついに彼の「絶対的な」推理は作品全体を支配することはない。『第八の日』は矛盾が矛盾のまま、そして奇妙な意味にならない意味だけが張りついた世界が展開されている。それはたぶん、われわれの世界のことでもある。

 神は一人であって、その他に神はいない――これは、『九尾の猫』の最後の言葉だ。

 絶対化されたロジックは、それを口にする探偵を絶対化させる。それゆえ、探偵は一種の偶像と化す。クイーンは探偵の偶像化を解除することをこの作品で鮮明化しているように思える。それは、探偵からロゴスを解放することだ。言葉にある意味が探偵によってまとめられ、世界を統べる一つの真理が形作られるのではなく、矛盾を抱えたまま存在するということ、それが、本来あるべき聖書的な世界であり、それはそれが書かれた人々の世界の認識であったはずだ。クイーンはこの作品によって、エラリイを絶対の偶像から解放しようとした。涙を流し、そして、彼は矛盾を承認して立ち去ることで帰還するのではないか――砂漠の向こうから来た男と入れ替わるようにして――矛盾に満ちたわれわれの世界へと。

 そういう意味でも、これは「名探偵」エラリー・クイーンの最終回(もちろんこの作品以降もシリーズとしては続くのだが……まあ、最後はここに行きつくという意味で)なんじゃないか……なんて。

 

 という感じで、最後はかなり強引にまとめてみました。ああ、そういえばプロットはクイーンの片割れであるダネイですが、執筆はSF界の鬼才ウィリアム・デヴィットスンによる云々にはメンドクサイのであえて触れませんでした。

 それにしてもクイーンに安易に手を出すべきじゃないですね、これまで以上にめちゃめちゃな文章になってしまった……あーあ。まあ、クイーンはこれっきりということで。

 とにかくなんというか、この作品は本当に奇妙な作品で、しかしどこか強烈に引き付けるものがある作品でもあります。世界という謎を残してエラリイは立ち去るしかない。残った世界の謎が、私たちを引き付ける。これはそう言う作品なのかもしれない。

*1:ニューシネマの嚆矢とされる『イージーライダー』(1969)まであと5年である

そのわけは天の上に:映画『明日、君がいない』

 ツイッターの相互フォロワーである青さん@8823_blue が、御自身のブログ『偽物の映画館』で紹介されていた映画に興味を持ち、観てみました。

 映画のタイトルは『明日、きみがいない』(原題は『2:37』)。監督は ムラーリ・K・タルリ。

青さんの紹介記事はこちら。

reza8823.hatenablog.com

 映画自体はとても良かったのですが、とあるシーンがかなりキツくて、文字通り刻み込まれるような映画体験になりました。気軽に観ていいものではなかった……しかし、それでも自分の一部になるような映画でした。

 映画と出会う機会をくれた青さんに感謝。

 

※今回はネタバレ前提で語っているのでそのつもりで。

 

 

 

 

 

  六人の学生がいる。彼らはそれぞれ違った場所で、脚光を浴びる者や差別される者、悲しみや鬱屈を抱えた者として、映画を観る者の前に現れる。

 そして、巻き起こるひとりの死。誰が死んだかは示されないまま、時間はその冒頭に死に至るまでさかのぼり、六人の学生たちの姿をつぶさに見せてゆく。それがこの映画の主旨だ。

 ある種の群像劇というか、ある場面のその時、他の人物がどう動いていたかなどがカットバックで描かれてゆく。邦画の「桐島」と似たようなテイストではある。しかし、描かれている学生たちの境遇は、「桐島」以上にハードだ。

 学校という中である程度はっきりと役割が見えているような彼らだが、次第に彼らが隠しているものや、心の奥にある深刻な思いがあぶり出されてゆく。

 それがもう、ひたすら陰鬱というか、どんどん息がつまってゆく。そこにはイケメンがオタクが陰キャ陽キャが、などという領域でそれぞれへの共感云々という要素は微塵もない。登場人物の持つものは圧倒的に彼ら自身のものだ。みんな辛い。ひたすら辛い。

 この映画は、先に述べた通り、六人の登場人物を提示し、冒頭の一人の死が伏せられたまま、その死に向かって時間が巻き戻る形で構成されている。ある意味、死者探しのミステリというふうに見ることもできるし、最後に示される死者はミステリ的な意外性を持っているとはいえる。だが、それはこの映画の主眼というわけではないだろう。

 六人の学生たちの苦悩が明らかになっていく中で、観る側は自殺の動機というものを、次々と浮かび上がる人物たちの、その苦悩を当てはめてゆく。これこそが自殺の理由なのではないか――観る側は、新しい苦悩が明らかになるたびに、死の理由をそれではないかと予想していく。

 しかし、最後に明らかになる自殺者は、これまでその六人の周辺にいつつも、特に姿を映されることもなく、語られることも無かった人物なのだ。ケリーという学生は、最後までその死の理由が提示されない。時系列が元に戻る直前――最後の最後で執拗に映されるその死の瞬間によって、ケリーという存在が鋭利なナイフのように、暴力的なまでに観る者に刻まれる。しかし、彼女の自殺に至る理由は空白のままなのだ。

 誰かの死について、私たちは常に理由を求める。特に当事者ではない場合は、たぶん失恋だろうとか、借金があったならそうかのかもな、みたいな理解で、その死をやり過ごす。もっともらしい理由を当てはめようとする。この映画の六人が抱えていた深刻な悩みなど、そういう恰好の理由だ。

 しかし、そのように観る者へ、この映画は平手打ちを食らわせる。映画のように、人の内面や状況をつぶさに見ることはできない。いつだって気がつくのは起こってからだ。そして、残るのはその人がもういないという厳然たる事実なのだ。

 ただ、具体的な理由は明かされないにせよ、六人の周りにいたケリーは、そのどこか透明な姿だけは映されている。そして他の六人とは違い、彼女は圧倒的に世界から切り離されている。苦悩する学生たちには圧倒的な暴力であれ、その苦悩の外部が描かれ、良くも悪くも「繋がって」はいる。しかし、彼女は他者へ関わろうとする意志を持ちつつも、常に空白の場所にいる。どこか透明ともいえる孤独感だけが画面からにじむ。

 そして、その自殺シーンはあまりにも壮絶で、不意にやってくる無言の他者の死というものを、心に刻み付ける。彼女だけじゃない、その刃は間違いなく、私をえぐっていた。

 最後に、冒頭の木々の青葉を見上げている視線、そして空への視線が彼女のものだとわかる。彼女が何を見ていたのか、何を望んでいたのかは誰にも分からない。それはもう、向こう側へといってしまったのだ。

 

 個人的なことだが、私は血がドバドバ出たり、人体破壊したりする描写を見せられることについて、もちろん好んでいるわけではないが、そこまで苦手ではない。しかし、手首を切るという行為だけは、昔から直視できないし、そういうのが脳内で認識されるだけで手首を不自然に曲げてわきに挟んだりして、衝動が過ぎるのを待つ。今回の映画では、そのシーンではほとんど目を逸らしていたし、血が飛び出るのが視界の端に入った時には、声を上げてうめいていた。なので、必要以上にこの映画に私は抉られているのかもしれない。ケリーの自殺シーンとは別に、かなりエグイレイプシーンもあるため、かなり心が削られる映画であった。

明日、君がいない [DVD]

 『バーナード嬢曰く。』の五巻が発売されたので、先日読んだ。四巻から二年ぶりということだが、町田さわ子は相変わらず本を読んでいて、自分の二年の停滞ぶりを思うと、なんだかその姿は眩しい。

 今回もとても素晴らしく、彼らと本の風景は、巻を重ねるごとにかけがえのない瞬間を切り取るようなものとなっている。さわ子と神林のやり取りは、これまで以上にその瞬間の切り取り方がウエットになっている。また、今回は遠藤君と神林という珍しい組み合わせが見られる。共通の知り合いを通してグループにいるものの、いざその知り合い抜きで一緒にいる時の距離感の掴めなさは彼ららしくて好きなシーンだ。特に遠藤君の屈折ぶりも増量で、遠藤君好きにはうれしい。

 さわ子と神林はもちろんのこと、全員の読書スタイルが固まってきていて、遠藤君や長谷川さんも交えた4人の読書のスタンスの違いなどが、より本と彼らの姿をくっきりとさせる。その違いというものがやはり楽しい。それぞれのメンドクサさも愛おしくなる。それは、彼らが純粋に読書することを楽しんでいるからだろう。

 それにしても、施川ユウキは取り上げる本の多彩さもそうだが、それを四人の本を読む日常に溶け込ませるのが相変わらず巧い。変に趣味に対する気負ったところもないし、とてもカジュアルでしかし、示唆に富んだ言葉がサラッと語られたりする。四人の関係性や日常を面白く語りながらも、きっちりそこで出てきた本も読みたくなる。そこに押しつけがましさは微塵もない。この漫画から、ごく自然に別の本への枝葉が無数に伸びていて、やはりそこがとても素晴らしいと思うのだ。

 

 一人で読んで終わるのもいいけれど、それについて誰かと語らうことで、本は読む人それぞれの、いかに読んだか、という姿を相手に伝え合う。それは、本を読むことと同じくらい面白いことだ。私は、じかに誰かと本について語らうという経験はあまりない。しかし、ネットによって、どう読んだかということに触れることができた。同じ本を読んで感じ方は様々だし、同じところもあれば、違う所もある。そんな他者との差異が興味深く、だから、私は誰かの感想を読むことが好きだ。もちろん、なんだよその感想……と思うこともあるが、それもまた他者との差異をはかる指標になる。

 今巻には、評価に迷ったり、なにを読むべきか……という読書する時に遭遇する思いに、背中を押すような言葉がちりばめられていて、読書をする、ということに対する元気を改めてもらうことができた。私も自分が読んだ本はこんな感じだったよ、という思いを彼らに伝えるような気持ちで文章を書いていけたらな、と。

 読み終えて早くも次の巻が待ち遠しくなると同時に、そんなふうに思うのだった。

 

 

細切れにされてゆく「わたしたち」

 最近、色んな積読をペラペラ見ては次に移るという感じで、なかなか一冊を読み切ることができないでいる。なんというか、無気力感もすごい。文字を追うのが酷く億劫でしかたがない。

 例のウイルスの影響は、地方の都市にも確実に忍び寄ってきていて、相変わらずマスクはないし、トイレットペーパーもマスクほどではないが、棚の空きが目立つ時がある。久々に足を運んだ書店のレジにはビニールの覆いが設置されていた。映画館もついに自粛で入ることができなくなった。

 とはいえ、自分の生活が劇的に変わったというわけでもなく、ただダラダラそんな状況を横目にしつつ目の前の生活にしんどさを感じ、日々減退していく読書量を嘆いている。本当に自分は本が好きなんだろうか、本を読んでなんになる、そんな思いがやたらと頭に浮かぶが、自分には本を読むくらいしか取り柄がない。そういうふうにして、本当のところ、たいした取り柄ではないものに縋り付きながら、ズルズルと後退戦をしているような気がするが、もうどうしようもない。以前ほど読めないが、それでも本を手に取る。

 今ペラペラつまみ読みしている中途半端な本の一つにオーウェルの『あなたと原爆』(光文社古典新約文庫)がある。これはなかなか面白いというか、オーウェルの鋭くて広い視線が今読んでいる自分に突き刺さる。原爆や科学について、スペイン内戦回顧、そしてナショナリズム。そこに展開されるオーウェル指摘は今の世界の近似だ。

 ネットへの期待とそれによる分断も、世界を結ぶ技術が通ってきた繰り返しの一つであり、かつて「国境を無効にした」といわれた飛行機が、実際には本格的に兵器になることで国境をよりくっきりとさせ、国家間の理解や協力を押し進めると期待されたラジオも、ある国をほかの国から分離する手段となる。そして網というよりは、細かいセル状になった世界の中で醸成されていくナショナリズム

 記録された歴史の殆どが多かれ少なかれが嘘である、という言い方が最近の流行である――それは、オーウェルの当時から今でも“最近の流行”だ。そして私たちが生きているこの時代に特有なのは、歴史が正しく書かれうるのだ、という考えの放棄であり、それは今でもこの国ではびこっている歴史に対する認識でもある。そこにはそれでも双方が本気で相手を否定したりはしない中立的事実ともいえる共通基盤はない。

 歴史だけでなく、国と国、人と人を包括する共通基盤といえるようなものが砕かれ、細かな「共通基盤」によって人々はクラスター化していく。しかし、細切れにされた「わたしたち」は自分が信じる単純化された“強いもの”を核に寄り集まってしまう。なんというか、共通基盤という台地の上で個人がやり取りし、くっついたり離れたりを繰り返すモデルが崩れ、宇宙空間に投げ出された個人は巨大な「核」に引き寄せられるようにして、結局は細切れにされつつも単純な集団となって衝突を繰り返している――そんな感じだろうか。

 オーウエルはナショナリズムについて、ナショナリストはただ強者の側につくという原則で行動しているわけではない。むしろ逆であって、いったん自分がどちらかの側につくか決めたなら、ナショナリストはそちらの側こそが強者であると自分で信じ込むのであり、事実が圧倒的に不利な場合でも自分の信じたことに固執するのだ、と述べる。そしてナショナリズムとは自己欺瞞によって強化された権力欲だと。

 複雑なものを複雑なまま受け入れることができる社会のことを鈴木健は「なめらかな社会」と定義づけていたが、それが到来するのはいつの時代になるのか。

 細切れにされたわたしたちは、自己欺瞞によって強化されたより単純な権力欲にとりつかれているように思える。ネットは網ではなく、ただただ単純な方向へと細分化していくためのシステムと化している。

 わたしの中の「つよい一つ」に取りつかれがちな中で、だからこそ、億劫だと愚痴をこぼしながらも、なるべく多くの本を、時間や空間を越えた誰かの言葉を私は求めざるを得ない。自分とは縁もゆかりもない、時間も空間も離れた遥か彼方の様々な人々の言葉こそが、一つに向かう重力に対抗するすべであると信じるから。物理的にも人が遠くなってゆく中、私を中心にした他者の言葉の網目をコツコツと編んでゆくことにしたい。

 なんだかんだで、私はまだ、本を読むことを止めたくはないのだ。

 

モノトーンの幻影:ブッツァーティ『神を見た犬』

 つまり、私たちが書き続ける小説や、画家が描く絵、音楽家が作る曲といった、きみの言う理解しがたく無益な、狂気の産物こそが、人類の到達点をしるすものであることに変わりなく、まぎれもない旗印なんだ。

 このうえもなく無益だろうとかまわない。いや、むしろ無益だからこそ重要なんだよ。

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

 

  ブッツァーティーといえば『タタール人の砂漠』ということらしいのですが、バーナード嬢曰くで紹介されていて興味を持ちつつも未だ読んだことがなく、光文社古典新訳文庫のこれが私の初ブッツァーティーとなりました。

 納められている22編はどれもモノトーンな趣きながらも多彩で、現実の中に溶け込む幻想のさじ加減が絶妙。そしてその現実と幻想の混じり合いの果てに、どこか寓話のような手触りを作品に与えています。不条理感も確かにあって、カフカ云々といわれたりするのも分からなくはないですが、カフカよりはどこかまとまりがあって、とっつきやすさはあるような気はしますが。

 彼の作品は、全体的に緩やかな形で死や老いをはじめとして終焉に向かうものや、なぜかそうせざるを得なくなってしまった人々を描き出します。その代表が「七階」や「神を見た犬」でしょう。「七階」はゆるやかに死へと向かう感覚というか、なにか逆らいがたい流れに沿って引っ張られてゆくのです。ある種の不条理ですが、それは死もまたそうであるわけですね。

 「神を見た犬」は、なんてことないはずの一匹のみすぼらしい犬に、村全体が支配されてゆく様子を描く。これもまた、なぜかそういう状況にどうしようもなく流されてしまう人々の行き着く果てを描いています。滑稽なはずなのに、どこかやるせない作品なのは、多分人間の本質の一部を切り取っているからでしょう。

 一方、寓話的な色合いが強いのが「コロンブレ」や「戦の歌」とかでしょうか。そして、背広の右ポケットからお金が出続ける「呪われた背広」や神によって最高指導者の地位にいると死んでしまう状況から生まれる平和「一九八〇年の教訓」、相手のイデオロギーを自分たちと同じくする兵器による顛末が苦笑を誘う「秘密兵器」など、フックの利いたアイディアからオチなのも含めて星新一のショート・ショートめいたテイストがとても楽しい。

 それから、天国の聖人たちをテーマにした可笑しみや何とも言えない寓話的な感情に訴えかけるお話群も好い味わいです。

 そして、個人的に大好きなのが「護送大隊襲撃」です。仲間たちに見捨てられた山賊の首領と彼を慕う青年の生と死のはざまに現れる幻影の風景がとても素晴らしいのです。ブッツァーティの淡々とした筆致で現実から幻想へと塗り替えられる瞬間がどこか清清しくて、老いた山賊が護送大隊を襲撃しようとしてあっさり死ぬ話なのに、どこか明朗でさえあるのです。

 それから「驕れる心」も個人的になんか好きな話です。司祭と人から言われたことで気持ちよくなってしまうことで罪の意識を感じ、懺悔しに来る青年とそれを許す老司祭。青年の懺悔する気持ちよくなってしまう名称は司教や枢機卿へと変わってゆき……という展開で、最後がどういうことになるのか察しつつ読むのですが、何故かジンと来てしまう不思議な話。老人たちが抱き合う姿に、どこか静謐で尊さのようなものを感じてしまうのです。

 「戦艦《死》」もまた、状況が人を縛る話ですが、謎の転属を受けた兵士たちの行方と《作戦第9000号》という作戦名、そして明らかになる決戦兵器の存在――どこかSF的な超兵器に謎の敵という構成要素が楽しい。そして、状況に飲み込まれた人々が、幻影の霧をくぐってゆく描写はやはり巧い。

 「マジシャン」の創作に対する今も昔も変わらない状況と、その愚痴の果てに出てくる、トップに引用した文章は、著者の小説を書く者としての堂々たる宣言の様で、お話全体もどこか温かみを帯びた、そんな創作者たちの肩を叩くような作品となっています。

 どれも、どこか淡い質感を伴った筆致で描かれていますが、その淡々とした中から、シームレスに幻影に導かれるような感覚がなかなか良かったですね。なんというか、著者が吹き出す紫煙の中に見る幻影の世界、そんな感じでしょうか。