蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

彼方より来たもの

 もう十五日で、十二月十日、もとい今年の黒鳥忌をだいぶ過ぎてしまったわけだが、まあいいや、僕はそんなことは気にしないぜ。とりあえず、自分にとって中井英夫、というか『虚無への供物』がどんな存在なのか、ということを書きたくなったので書こうかなと。そういう気分なんで。毎度の自分語りだ。つまりは他人の思い出語り。まあ、そういう文章です。

 『虚無への供物』。ミステリ読みなら、これを読んでこじらせた人間がたくさんいるだろう。そして躊躇なくオールタイムベストに挙げる。僕もまたそんなたくさんの中の一人だ。ただ、何故この作品に衝撃を受けたかは、少し違うかもしれない。

 最初に読んだのは高校生が終わるころ、だった。当時新本格に夢中になっていたころだ。有栖川有栖二階堂黎人法月綸太郎島田荘司、等々と読み進めているうちに、どこからともなく現れた一つの言葉に突き当る。“アンチミステリ”そして、それを冠された作品の名前――『虚無への供物』。その挑発的な言葉と本格ミステリの最高峰などと言われて手を伸ばさないわけにはいかない。その分厚く、そして大島哲似による、顔が青い薔薇のマンドリンを持つ女性を表紙の装画に据えた、その見るからに妖しい本を手に取ったのだ。

 ぶっちゃけ、最初読んだときは、イライラした――作中の登場人物に。この鼻持ちならない連中ときたら、花言葉だ誕生石だ植物の色だと大して意味のない衒学を振り回しては、意味ありげなだけで特に面白くもない(高校生の僕には)推理以前の自己中心的な妄想を推理合戦と称し、もったいぶって話しやがるのだ。何なんだこれは……僕は途方に暮れた。いくら自分の好きな密室殺人がメインとはいえ、まだだいぶページは残っている。というか、この調子でまともな解決が待っているのかも分からない。しかし、そこは高校生というか、権威主義の徒である。最高峰の本格ミステリ、という評判にすがり読み進めた。これはきっと素晴らしいものなんだ。

 とはいえ、途中で飽きたり、すごくつまらないと思うことはなかった。なんだかんだで読み進め、残りのページは少なくなっていった。そして解決篇。またもや序盤のような推理合戦が始まるが、自称探偵たちの推理は相変わらず好き勝手で自分本位で、読者である自分を説得させようとする気があまりないのも変わらない。彼らの話は推理というよりは、自分がそうあってほしいという妄想に近い。そしてそんな探偵たちにうんざりしたように現れる“犯人”……。しかし、その“犯人”が語る神話めいた動機もどこか、僕には彼岸の言葉に思えていた。

 しかし、「鉄格子の内そと」の章で文字通り、世界は反転する。

 衝撃というか、それは告発に近かった。そしてそれは、僕にとって、現実で見た光景の再来だったのだ。

 それは僕が小学生の頃にさかのぼる。世間を大きな事件が一色に染めていた。オウム真理教によるその前代未聞の事件が連日テレビをにぎわす少し前。テレビが映していたのはあの松本サリン事件だった。

 犯人と目された人物は、最初はそれとなく、そしてしだいにそうに違いないという前提のもとに語られ、僕はテレビの前で憤った。なんてふてぶてしい人物なのだと。さっさと犯行を認めるべきだ、と。その後、僕は初めてメディアというものが、いや、大人たちがそう言っていたとしても違うことがあるということを知る。「正しさ」とは何だ? あの時、僕の中の鉄格子は融解したのだ。テレビを熱狂気味に見て、テレビの向こうの派手な事件の見た目にワクワクし、あいつが犯人に違いないと叫んだのは誰だ?

 この小説は、そんなことを忘れかけ、ミステリに耽溺していた僕に、再び指をさす。くだらない推理で盛り上がる探偵たちは誰だ。気持ちがわかるだとか平気で言い、分かったような説教を上から垂れるのは誰だ。安全な場所から好奇心しかない目で被害者を眺めるのは誰だ。お前はいったい何なんだ。この小説は、現実における事実とは違う形で、時を経て再び僕を告発しに来た。初めて小説を恐ろしいものだと思った。

 そしてこの小説における「犯人」とは何なのかを理解したのだ。どうでもいいが、時々この小説の「読者が犯人」というのを文字通りそういう趣向であると勘違いしている向きがあるが、読者が犯人というのはミステリ的なネタではない。どんな時でも人は「犯人」足り得るものを備えている。いや、すでに存在そのものが「犯人」だという、それは思想なんだ。

 少しずつ人ではないもの、人間じゃない何ものかに変わっていると喝破されて、もうすでに半世紀以上が経った。僕らはいったい、何なんだろうか、何になってしまったんだろうか。

 しかし、それでも僕は推理小説を、ミステリを読んでいる。それは呪縛なのか何なのか。ただ、常にこの小説の存在が、その言葉が、ミステリを読むということを介して僕の中の「犯人」を見つめ続けている。

 

虚無への供物 (講談社文庫)

虚無への供物 (講談社文庫)