蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

『オッペンハイマー』より安吾を読め

 映画『オッペンハイマー』を観に行った。まあ、今話題の映画なのは確かだろうし、正直、話題の映画だから観に行った。そういう割り切りで観に行く映画もあるわけだ。あと、ただ単に、この映画のアメリカ本国公開後にこの国で起こった、観もしない連中による、なんかよく分からない批判がムカついたから観に行ったという部分もある。だいたい、ノーランの映画なんて『ダークナイト』以外は大して好きじゃないし、3時間もある映画なんてそもそも行きたくない。

 この映画について、原爆について肯定的か批判的かなどという次元で良いか悪いかとか、心底どうでもいいし、“被害者を具体的に描かない”という点においても、そういう描写を描いた漫画ですら、教育の場から締め出そうとする自国の動きなんかの方を、もっと心配した方が良いんじゃないの? みたいな気分の方が強い。というか、この国において、原爆被害の具体性について、自分たちで積極的に見ないようにしてきているんじゃないのか? また、そういう政治家たちの台頭に何も感じないのか?

 まあ、そんなことはともかく、この映画は、タイトル通り一人の男の物語だ。“原爆の父”という栄光と十字架を背負うことになった男。この映画はその男を、世紀の実験を成し遂げた偉人というよりは、常にどこか気が弱く、自身が成し遂げた原爆という存在によってしだいに押しつぶされ、小さくなっていくように描いていく。

 そして、原爆そのものがどうこうというよりは、原爆をつくった人間たちが、ただの人間でしかない、ということをこの映画は淡々と描く。プロジェクトを立ち上げ、それが成立するように人間たちは奔走し、その立場ごとの仕事を全うする。科学者たちは好奇心とその能力を発揮する場を求めて。軍人たちは戦争勝利のため。政治家たちは戦後のパワーゲームの切り札のため。そしてその先に、二十万以上の死と抑止という名の核軍拡競争が広がっている。彼らは最後まで原爆で消した人命に注意を払うことは特になく、映画の後半はオッペンハイマー個人に嫉妬と恨みを持つ男による、ソ連スパイ疑惑を仕掛ける復讐劇の色が強くなる。結局、原爆も水爆も彼らにとっては名誉や政争の中心でしかない。そういうふうに彼らを描くところから、この映画の人物たちへの批判的なスタンスをくみ取ることもできるだろう。

 オッペンハイマー自身は、自分が生み出した原爆とその結果について、あからさまなセリフなどで心情を吐露することはない。ただ、プロジェクトの成功に熱狂する同僚やその「戦果」に沸き立つ群衆の中にあって、彼は強烈な眩暈を感じるように描写される。この辺は音響もやたらと不快感を出すように演出されており、当時の原爆に対するアメリカ人の熱気に観客をアテさせる目的としては成功している。また、原爆投下の被害者を幻視するシーンや、やたらと時系列が前後する映画内であっても明らかなくらいに老け込んでいく様子などでも、彼の苦悩や後悔は演出されてはいる。

 この映画について、白人エリート男性の視点ではなく、もっと多様な視点で物語を描くこともできたのではという疑問や、オッペンハイマーがその後、水爆開発に反対はしたとしても、原爆自体を廃絶しようと動いたりはしなかったことに触れるべきだという声もある。まあ、それはそうなのかもしれないが、個人的にはあとはいくらか本でも読めばいいんじゃないの、という気分だ。というか、そもそもこんな長くて妙に込み入った構成の映画観るくらいだったら、本を読んだほうがいいような気がしなくもない。

 そんなことより、私はこの映画そのものでどうこうというよりは、最近、再読している安吾の「不良少年とキリスト」の一節が強烈に浮かび上がってきていた。これは太宰の情死から、安吾によるいつものシリメツレツで破れかぶれな文章が展開される論考の一つなのだが、そこで最後に「限度」という言葉が出てくる。それはこう続く。

学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。

原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。

 彼らには限度がない。彼らには夢想しかない。映画はやがて際限なく広がる核の炎が地球を覆いつくそうとするオッペンハイマーの夢想で終わる。それ自体は核が拡散していく“これから”の暗示的な演出ではあるのだが、妙に安吾の文章とシンクロしてしまう。「核」なるものが持つ夢想は、いまも加害者被害者をとわず広がり続ける。核によって戦争が終わったという夢想だけではない。私にとって本当のところ、アメリカの一部が持つ夢想なんかよりも、この期に及んで「核のシェア」だの政治家が言い出して"核保有国”になってやろうとする「被害者」の夢想の方が身近な脅威に他ならない。

 なんだかよく分からない方向に文章が流れているような気がするが、この映画自体というよりも、安吾の言葉の方が、より強く刻まれる奇妙な結果となったのだ。なんだそれは、といえば、そうかもしれない。まあでも、そういうこともあるんだよ。

 

学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う