蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

今年の"ことよろ作文”になるはずだったやつ

 これは、新年最初のいわゆる“ことよろ記事”として書いてたやつなのだが、最近の例にもれず、なんだかだんだん何を書いたらいいのか分からなくなって、そのまま下書きの層に埋もれていたやつである。とりあえず、リハビリ的に引っ張り出してきて、無理やり書いているので、なんか色々シリメツレツなことにはなるだろうが、まあそれはいつものこと。そう思いつつとりあえず続ける。

 

 新年早々、自然災害の脅威が牙をむき、何とも言えない2024年の幕開けということになってしまった。今年も良くない出来事や社会状況が、低質な方向に変化を加速させていく予感がする一方で、自分はこの一年も相変わらず、なにか作品を創りたいみたいな気分をアップダウンさせるだけで、結局なにも成せないような予感しかしていない。

 去年は新しい小説を書こうと思いながら結局なんも書けず、短編すらも形にならなかったことに割と愕然としている。今年は何とか作品ってやつを形にできればいいなあと思いつつも、実のところ、ここまで小説というものを形にすることが難しいとは思わなかった。最初に書いたやつはそれなりに大まかなストーリーがパーツパーツでポコポコ出てきて、曲がりなりにも形になったのだが、その次をしようとしたときに、何も出てこない。「誰でも一作は書ける」という誰が言ったのかよく分からない言葉があるが、それっきりで終わりみたいな、そういう凡庸なよくある一例で終わりそうな気もしている。

 それから、そもそもとりあえず書いて、それを外部にさらしてみたわけだが、結局のところ、自分が面白いつもりで表に出してみたお話が、自分以外の大多数にとっては大して面白くないということが分かった。それは一つの事実であり、収穫ではある。ただ、じゃあ、外部にとって面白いと思えるものを創出できない、というスタートから、どういう風にして「面白い」を形作るのか、という問題に途方に暮れている。「自分が面白いと思ったもの追求すれば外部にそれが波及する」というものが「嘘っぱち」だった場合の対処法……まあ、とりあえず量というか、いわゆる「ゴミ」を量産するというスキルを身に着けることが今年の目標なのかもしれない。今のところ「量」もないわけだし、量をこなすのは初歩的なステップだろう。書いてみるうちになんだかんだで目標が出てきた――まあ、そんな感じで、とりあえず書いてみることはやはり大切なことなのかもしれない。(もちろん、評価してくれた人もいるわけで、それには感謝してもしきれないものがある。それに、その人たちのおかげで"次”を意識できているのだから)

 

 そんなこんなでの自分の創作自意識問題は、とりあえずどうでもいいが、最近、気分を上げるために安吾の「不良少年とキリスト」を読み返している。安吾の評論というかエッセイの中で、探偵小説論は正直しょーもなくてつまんない(だが、そのテンプレなつまんなさがある種のクセになっていて、時々読み返してしまう)けど、それ以外の、特に「不良少年とキリスト」みたいな、だんだん本筋以上に本人の気分が上がってきて唾を飛ばしてるようなテンションの高さに上り詰めていく文章はホント好きで、その文章からほとばしる言葉のエネルギーはマジで元気をくれるようなものが満ち満ちている。特に、語るうちに語るべきものが見えてきて、勝手に自己完結的に結論を見いだして啖呵を切る感じが最高。世の中もいよいよゲロゲロしてきて、こういう先人の言葉に頼らざるを得ないというか、そこに希望を見ようとする機会はたぶんどんどん増えていくだろう。

 それにしても、先人の言葉というやつはなかなか良い。何がいいって、使っても消えたりしない永遠の財産だからだ。この国が過去の資本的栄光をあっという間に食いつぶそうが、自分に刻まれた偉大な文人たちの言葉はそうそう消えやしない。国家の凋落に、これからいよいよ巻き込まれるであろうとも、それだけはなんだか爽快な思いがする。

 

 まあしかし、自分たちの足場がいよいよ崩れ始めているなかで、「好きなモノ」に囲まれていればいい、または、ただそれに没頭していきたいんです、という態度をいまだに続けよう、続けられると思っている人たちがSNSにはそれなりにいて、なんというか、その人々の中にある現状への抗議や主に「争い」(特に政治的な)への忌避感は、正直、彼らが思っている「繊細」さではなく、どっちかというと鈍感さなのでは、と思わないではないが、それがはたしていつまで続けられるのか。

 好きなことだけしていたい、好きなことについてだけ話していたい、それが可能な時代が終わりつつある。いやもう、とっくに終わっているんだ。それはもう、待ってるだけでは帰ってこない。それをしたいなら、戦わないといけない。過去の人たちが、そうしたように。

 そもそも「好きなモノ」って「それを好きな私」を本当の意味では救ってはくれないよ。安寧や救いを求めてそれにのめり込んだとして、それそのものが救ってくれはしない。好きなモノを好きでいられるという状況そのものが、その確固とした現実の足場が、たぶん人を救う。その土台の一番下にはきっと自由や平等という権利がある。だからこそ、それを突き崩そうとするあらゆるもの(いわゆる権力なるものと)と戦わなくちゃならないんじゃないのか。また一つ、年を経るごとに、私は、そんな風に思うことが強くなっている。

 

 ――なんか、よく分からない感じになってきたので、このあたりでそろそろやめようかなと思う。なんだかんだでどうも最近、文章にならないことが多い……感想もかけないし、小説もダメダメだ。なにやらエラソーなことを書いているが、そこに内実があるかというと、はなはだ疑わしいものがある。形作ろうとした「書きたいこと」というやつは、ぐずぐずに崩れて、ようするにこれは無残な落書きだ。

 とにかく、これが、新年早々に書きたかった何ものかの残骸ということになる。というか、そもそも何を書くはずだったのか。今となっては何も分からない。五か月近く過ぎて、その間に感じたことなんかも色濃く反映されているだろうし。そう、もう、始まって五か月になろうとしているのだ。とはいえ、今さら過ぎるにせよ、とりあえずこう言っておかなくてはならないだろう。

 今年もよろしく。