蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

G.K.チェスタトン『ブラウン神父の秘密』

 

ブラウン神父の秘密 (創元推理文庫)

 

 シリーズ第四集。ここからは未読なので、そういう意味でも楽しみ。

 これまでの感想はこちら

kamiyamautou.hatenablog.com

kamiyamautou.hatenablog.com

kamiyamautou.hatenablog.com

 

 

「ブラウン神父の秘密

 第三集では姿を消していたブラウン神父の相棒、フランボウが再登場。うれしい(再登場にうれしくなったのも束の間、実のところ登場はこの話と最後の「フランボウの秘密」のみでやはり少し寂しいが)。

 彼はもう結婚していて、スペインの城で隠遁生活を送っている。フランボウというのが仮の名で、デュロックという本名も明かされる。

 ブラウン神父の探偵法とは、そんな神父の秘密に迫ろうとするアメリカ人に、ブラウン神父はまず、その他の探偵たちが得意とする科学的な探偵法について、外から光を当てるものだとする。対して、神父の探偵法は、犯人そのものになり切るところから始まる。神父は言う、私は人間を外側から見ようとはしません、わたしは内側を見ようとする、と。いや、それ以上、自分は殺人者とまで言う神父。

 この話自体は次の話というか、これから語られる神父の事件のプロローグというか、この短編集自体のプロローグみたいな位置づけになっている。

 また、神父が赤ワインを透けて見る、炎の色から連想していく物事の描写は、かなり幻想的で、これから始まる神父の冒険譚へ誘う文章として出色のものといっていい。

「大法律家の鏡」

 プロの探偵たる警部とアマチュア探偵の組み合わせ。その二人が、ホームズとレストレイドについて論じているという冒頭からなんかイイ。ミステリファンならワクワクするシチュエーションだ。そして、そんな二人が法律家の家の前で銃声を聞き、塀を乗り越えてみると、その法律家が庭で死んでいるのを発見する。現場には神父も居合わせていて……。

 登場する者たちがみな塀を乗り越えて法律家の家を出入りするのに対して、神父だけが“普通に”玄関から出入りしたという逆説的なシチュエーションがまた面白い。チェスタトンを読んでいる、という感じがする。

 事件は犯行当時、屋敷をうろついていた詩人が容疑者として裁判にかけられるのだが、彼の空白の二時間の謎の処理も面白いし、神父による鬘の挿話、玄関で割れていた大きな姿見が意味するものから犯人を浮かび上がらせる推理もキマっていてなかなかの一品に仕上がっている。鏡の使い方がトリックというよりは犯人を推定するものとして使われているのが、個人的には好みだった。そしてそこを補強する鬘という道具立てが上手い。

「顎髭の二つある男」※ちょっとネタバレ要素があるので、未読の人は注意

 犯罪の動機の類型を分析している犯罪学者に対して、そういった類例に当てはまらない殺人について神父が語る話。その事件において加害者と被害者には何の怨恨もなく、そもそも何の関係もなかった。被害者はただ、顎髭が二つある男だった……。

 資産家一家のバンクス家からネックレスが盗み出され、バンクス家の長男が追いかけた先で撃ち殺した犯人、それは近くに住む養蜂家のスミス――またの名を稀代の怪盗と言われたムーンシャインだった。スミスは変装用の顎髭をつけたまま死んでいたのだが、不思議なことに彼の家からもう一つの変装用顎髭が発見される。

 犯罪学者の動機の類型に対する話としては、それに当てはまらない奇怪な動機が語られるのかと思いきや、普通に無関係な怪盗を犯人として利用したというだけで、あまり意外性はない。どちらかというと、タイトル通り、「二つの顎髭」から犯人を導き出す推理主体のオーソドックスな探偵小説という感じだった。

 あと、覗き込む男の怪奇性というか、ホラーな解決は後々色々な作品でより凄惨なギミック付きで見られるようになる。

「飛び魚の歌」

 ペリグリン・スマート氏自慢の金製の金魚が盗まれる事件が起きた。スマート氏不在の夜、秘書はバルコニーの外から異国の装束をまとった怪しい人影を目撃する。「わしの金魚じゃ、戻ってこい!」その人物は叫び、異様な楽器をかき鳴らすと、金魚のしまっている部屋から金魚を収めた金魚鉢が割れる音がし、まるでその怪人物の呼び声に応えるように金魚は消えてしまったのだ。

 前振りとして事件の神秘性の装飾とともに真実を暗示するインド人の哲学的な話が効いている。事件自体はかなりシンプルで、最初読んだ時は、ただ単にアレをアレと見間違えただけの話かと思って、何が何だか分からなかったが、二度三度読み返して、すごくシンプルな逆転によって形成された謎とそれが一瞬で氷解する簡潔さを実感することができた。かなり綱渡り的なものもあるが、単純な構造によって神秘的で不可能興味のある謎を演出している手腕も巧み。

「俳優とアリバイ」

 劇団の座長が殺されるが、犯行時関係者全員にアリバイがあるという事件。

 シリーズでアリバイがメインになるのは結構珍しい。トリックはなかなか逆説的なもので面白い。また、人物に関する逆転劇もチェスタトン節がキマっている。

 ただ、最後の神父による哲学批判は唐突で下手なアジテーションという風に感じてあんま好きではないというか、急に何なの? みたいな気分だった。

「ヴォードリーの失踪」

 アーサー・ヴォ―ドリー卿が、自分が地主である村の中で失踪してしまう事件が起きる。彼にはシビルという小さいころに引き取った女性と結婚しようとしていたが、卿の前科を理由にシビルは断っていた。それは事件に何か関係しているのだろうか。

 神父がアーサー卿のエジプト人官吏への前科を語る場面があるのだが、神父は何十年ものあいだ甘んじて恐喝を受けるような大それた前科じゃないというが、豚小屋に放り込まれて手足が折れたうえ、朝まで出してもらえなかったとか大したことじゃないのだろうか……これって手の込んだ英国ギャグ?……ワカラナイ。

 それはともかく、そのエピソードを土台にして、犯人の奇怪な心理による計画が明らかになる神父の推理は、驚嘆というか、一見そんなバカなという逆転したロジックだが、周到に配置されたエピソードや、神父の繰り出す逆説的な言葉によって成立させている手腕は相変わらず見事。

「画家は絵を正しい姿で見たいときは逆さにして見ます」という逆説がまた、効果的に物語を彩っている。

「世の中で一番重い罪」

 神父の親戚が出てくる珍しい一編。

 神父の姪と縁談が持ち上がったマスグレーヴ家の城へ向かう神父。そこに現れた縁談相手の父の言動に、どこか不可解なものを感じた神父は、姪が洩らしていた縁談相手の不可解な笑みを基に、隠された犯罪をあぶりだす。

 タイトルの割には、それについてミステリ的な衝撃とか気の利いたギミックがあるわけではないのだが、甲冑の手がかりと使い方がなかなか印象的で上手い。

「メルーの赤い月」

 メルーの赤い月という大きなルビーを主有する貴族。彼は東洋かぶれで、インドから山岳尊師なるものを屋敷に招いていた。そこへブラウン神父と二人の青年が訪れるのだが、貴族のコレクションを鑑賞の最中、テーブルに置きっぱなしになっていたメルーの赤い月に赤い手が伸ばされるのを一同は目撃する。その「赤い手」により、山岳尊師が疑われるのだが、彼は宝石を所持していなかった。しかし、彼は周囲の疑惑の目を否定せず、さらには自分が盗んだとまで言うのだが……。

 なんというか怪しいエキゾチズムを恣意的に利用している側面があるが、ある種の普遍的な欲望を基にしてミステリを成立させてはいる。その心理的欲望がミステリに直結する構造は今日でも有効な手法で、人間の認識の違い――その異なる世界の接地面にミステリが現れるという感覚は、やはりとてもワクワクする瞬間なのだ。

「マーン城の喪主」

 弟のように愛していた従弟の死により、隠遁生活を送っているというマーン侯爵。そのどこか不可解な隠棲にはある秘密が隠されていた……。

 ミステリ的な逆転もあるが、なにより最後の『虚無への供物』ばりの告発が読者に突き刺さる。現代の大衆に向けた言葉でありながら、ミステリ読者にも向けたような凄味のある言葉は、まさに「虚無」のそれであると言っていいだろう。

「フランボウの秘密」

 これまでの事件を振り返る形で、犯人の内側から見るとはどういうことか、ということをブラウン神父が詳細に説明していく。

 フラウボウの告白に対する神父の最後の言葉をどう解釈するべきなのか。彼は一見して気のいい人物だからまあいいじゃないか、みたいな振る舞いは、「マーン城」における告発の対象であることを考えると、神父はそれを拒否せざるを得ない。「外」から見ることに何の意味もないからだ。だからこそ、密告できるかどうか、どんな下劣な人間でもそれほどのユダになれるかどうか――神父は厳然とこたえる。

「わたしなら、なれるかどうかやってみます」

 

※かなりどうでもいいが、「わたしには、神父さんが本物の立派な犯罪者になれるかどうかはわかりません。しかし、小説をお書きになったら、すばらしい作家におなりでしょうな」という一節があり、よくある(?)探偵に対する犯人のリアクション「作家になった方がよろしい」みたいなやつの源流味があるような気がした(神父に言ってる人は別に犯人とかではないが)。

「わたしが扱うのは虚構ではなく実際の事件だけです」という神父の返しがまたそれっぽくていい。

 

 高山宏は、本書の解説で一九二〇年代を見る〈対〉見ないではなく、外を見る〈対〉内を見るというペアとして現れていた時代だとする。

 この作品集で、チュエスタトンはブラウン神父の探偵法を、犯人に、殺人者になることだと述べさせている。犯人の犯罪を外から見るのではなく、内面に入り込み、犯人に成り切ることによって犯罪を暴く。そして、そこにはトリックがどうだとか、犯人が誰だとかいうより、当時としては異質な、罪とはなにか、犯人とは何か、という方面に光を当て始めている。後のミステリが直面するその萌芽がこの作品群にはある。

 また、探偵が犯人になり切る――そこにはかつて葬り去ったはずのヴァランタンの亡霊が現れる。探偵=犯人という図式。ただ、単純なそれではなく、恐らくそこには作者の思想性も重なる。作者=探偵=犯人。その三位一体は、探偵が犯人の内側を見るようにして事件を見るように、作者が自分の内側を覗き込むことで、社会の内面を見ることを促す。そのような探偵小説への道程を、この作品の中に見ることができるのではないだろうか。

 

 あと、神父の逆説がどこか、人間本性みたいなものへの焦点から、より社会的な方向へ向かい、社会批判・大衆批判的な言葉が色濃くなっているように思う。以下、そのようなセリフをいくつか引用する。これらは今でも通用するというか、時を経て突き刺さる言葉だと思う。

 同じ異端でも、世界を転覆させようとしている過激派のそれではなく、すでにできあがっている世界に頼り切っている因循姑息のお偉方の異端です。この連中は、人工光線でまばゆく照らしだされた上流社会だけが世界で、その向こうやまわりは、真の暗闇で何もないと思いこんでいる。

 

 あなたがたが犯罪を恐ろしいと思うのは、自分にはとてもそんなことはできないと思うからでしょう。わたしが犯罪を恐ろしいと思うのは、自分もそれをやりかねないと思うからなのです。

 

 現代の政治の半分は金持ちが庶民を恐喝するということから成り立っています。

 

 あなた方は、ご自分の趣味に合った悪徳を許したり、体裁のいい犯罪を大目に見たりしながら、桜草の咲きこぼれる歓楽の道をずんずんお歩きになるがよい。

 

 本作でベスト3を選ぶとすると「大法律家の鏡」「ヴォードリーの失踪」「マーン城の喪主」あたりだろうか。