蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

なんでこんなに“夢”がないんだ:『ウマ娘 プリティーダービー Season3』感想

 一応、楽しみにしてたわけだし、三期の総評を書いておこうとは思うけど、自分にとってこの作品、一言で言うと、

 夢がねえ、ということに尽きる。

 絵は良いし、声優さんたちの演技も良い。途中途中では良いシーンや話だってある。特にサトノダイヤモンドがらみの6、7、9あたりはよく出来てると思う。

 ただ、話全体をなんであんな風に持って行ったの? てか、ピークアウトという要素を持ち込むことの危険性にどうしてこんなに無頓着なんだ? 結局、「史実」というものに気を使いすぎたり、忠実であればよしとした結果、「ウマ娘」というわざわざフィクションにした意味が死んでるし、そのフィクションに込められたものを土台から破壊しようとしていることに気づいてないのか?

 現実をそのままなぞったってしょうがないじゃん。それを追体験して、「現実」だよね、あー哀しい、じゃないでしょ。それと戦うために、たとえ勝てなくても抗うことができるのがフィクションだし、これまで一期、二期とそうしてきたはずじゃなかったのか。そして、世代を超えて、輝いていた名馬の魂が集い、覇を競う、そういう夢の世界が「ウマ娘」の世界じゃなかったのか。夢の第11レースはどこいった、おい。

 衰えたから引退するとか、じゃあ、テイオーとかが走ってるドリームリーグって何なんだよ。それもなんだ? 「史実」とやらに遠慮して、実際のレースの上に立ちませんみたいな「配慮」なのか? なんでそんなに現実におもねろうとする。

 この設定もあり、チームスピカをはじめとした前作主人公&登場人物たちが並走すらせず、それどころか全く走るシーンがないということが余計、現実と同じようにこのキャラクター走れなくなってますよ、みたいなものを突きつけているようでつらい。ピークアウト設定のせいで、一期のEXTRAの感動もだいぶ色あせて見えるし、過去作どころかこれからの作品についても、これからも走っていくんだろうな、みたいな「夢」のノイズにしかならない。三期の作劇がイマイチだけだったらどうでもよかったんだけど、他のシリーズどころか自分が見ていた「ウマ娘」のコンセプトにすらひびが入ったようで、もうほんと嫌でした。

 「漢の引き際だー」とかいう、たかだか現実の解説の言葉に引きずられて、そこに持っていこう持っていこうとするだけでキタサンそのものもなんか変だし。

 そもそも彼女は二期からいて、テイオーの姿を見てるはずじゃん。どんなに運命に邪魔されても、立ち上がって奇跡のために有馬を走る姿を。しかも、走って欲しいと言ってる側の一人だったはずじゃん。なんでそんなに周りも含めてスッて諦めてるのさ。スズカやテイオーにも諦めが肝心だとか言ったか? 特に終盤のトレーナー、お前なんかおかしいよ。ドゥラメンテに有終の美みたいなこと言わせるのも、じゃあ実際は先に引退した君がだらだらリハビリしてるのはなんなんだよ、という気にしかさせないし、あれほんと嫌なセリフだ。

 あと、全体的な問題として「スターの引き際」以前にキタサンが特にスターに見えない。始終、湿ってて辛気臭いし、慕われてる描写が商店街に限られているように見えて、ローカルアイドルみたい。サインをねだる人も特にいないし、テイオーの時みたいに知らない人からファンです、応援してます、みたいな描写もない。てか、そのためのちょうどいいライブという要素があるのに、あんま生かしていない。別に毎回ぐりぐり動かすライブをやれとかそういうんじゃなくて、ライブをたくさんの人が家庭で観てたり、ちびっこたちが見てるとか、走るまねをしてるとかでもいいし、後輩たちから歓声浴びせられてたりするのでもいいじゃん。それ以外にもキタサンのキャラクターグッズをたくさんの人が持ってるとかさあ。トプロの時も思ったけど、なんで商店街の人々で外部をまとめようとするんだ? その他の人々はなんかレース見てるだけだし。

 G1七勝もしてるスターの輝きを真正面から描いて、これがスターの輝きなんだって、それをトゥインクルシリーズに刻んで、次の強敵たちが待つドリームトロフィーリーグに行くキタサンの背中をライバルたちが追う、私はそういう「夢」の方が断然いいと思うんだよ。てか、それが「ウマ娘」だったんじゃないんかいな。

 そもそもスピカがちょろちょろ一緒にいるだけで、なんのドラマ的な役割がないし、小手先のサービスやSNSを意識した仕掛けばかり目立つし……単話で見るといい所はあるにせよ、個人的には拒否したい感じの作品でした。作ってる側が悪意とかじゃなくて一生懸命作ってるんだろうなということは分かるけど、そうであっても自分が信じていた核の部分がへし折られることがあるんだなあ……となんか虚無感が湧いてくる感じで正月がつぶれました。どうしてくれよう、この気持ちを。

 そもそも個人的にウマ娘の一番の魅力って、「最強」をかけて世代を超えた名馬たちが走り続ける夢を実現できる世界もそうだけど、それが包んでいる実際の作品物語の核として、ウマ娘という存在だからの出会いだったり交流だったりで、「史実」とかいう運命に立ち向かっていくことだったんじゃないのかなあと思うのです。一期のスペシャルウィークやスズカもそうだし、二期のテイオー、マックイーン、ツインターボとか。そんなウマ娘になったらからこその交流や出会いが、「現実」にはなかった奇跡を起こす物語――それが好きだったからここまでついてきたんだけどなあ……。「史実に忠実だから良い」とかいう外野の変な声を真に受け過ぎたのか何なのか。「史実に忠実」にしたって面白くもなんともないよ、だってそれじゃあ「現実」を超えられないじゃん。「現実」ともっと戦えよ、それができるのはフィクションだけじゃんよ。

 

 どうでもいいけど、私はこの作品を拒否したいくらい好きではないが、駄作とかゴミ脚本とか言うつもりはない微塵もない。この作品が、良いものをつくりたいという願いのもとに生まれたということ自体は否定しようがないからだ。

 こういうことわざわざ書いたのは、批判の名のもとに、ゴミだとか産廃だとか、とにかく作り手に最低限の敬意もない言葉を平気で書きつける人間たちに怒っているからだ。

 

 

 

 

 ※ここからは、より勝手な妄想話になっていくのでまあ、あんま読まなくていいです。

 

 あとさ、そんなにネイチャ使いたいなら、ちゃんとつかえばよかったのにと思うんですよ。「先生」とか言わせるだけじゃなくてちゃんと「先生」にしちゃえばよかった。要するに、どうせチーム二つなんて持て余すんだからスピカじゃなくてカノープスに入れちゃえばいい。一期みたいにリギルに入りたかったけどレースに負けたスペシャルウィークみたいに、スピカの選抜レースをドゥラとかに負けてトボトボしてたところをG1未勝利チームのせいで、なかなか新人入ってこないネイチャに泣きつかれてカノープスに入るとか。キタサンは菊花賞とか有馬とかでのネイチャの姿に興味を惹かれたとか、持ち前のお助け気質とかで入っちゃう、みたいな。

 カノープスはG1未勝利チームと見られてて、なかなか新人が入りたがらなくなってたりして、南坂トレーナーもG1未勝利トレーナーとか言われてる。ネイチャたちは悔しくて、後輩に絶対G1取らせるみたいな感じで、全員一丸になってキタサンを先輩として指導していく。走ったレースについてアドバイスしたり、並走したりとか、メガネキャラ二人もいるんだし、絵的に映えるアプリのビデオトレーニングとかコース分析とかやってさ。走ってばっかりのをもうちょい工夫できるじゃん。皐月、ダービーとスピカのデュラに連敗して落ち込んでも、自分はキラキラウマ娘を見てきたから分かる、あんたにはG1ウマ娘の輝きがある、とかネイチャに言わせたり、自身の菊花賞に絡めた本編的なアドバイスさせてどんどん使えばよかったのに。せっかくチーム設定あるんだからもっとうまく使うというか、成り上がりな部分をチームに担わせても良かったんじゃないのかなあ。

 そうすることで、なによりキタサンに先輩たちのためにG1取りたいとか目的が生まれるじゃん。「みんなを笑顔にする」ってふわっとしすぎというか、最終的にはそれでもいいんだけど、最初は身近な人たち――チームメイトを笑顔にして広げていく段階を踏む構成にした方が芯が通るよ。ゴルシのルービックキューブとか、単発のアイディアでしかなくてドラマになんないから、一緒に走ったときになんかおもしれ―やつだからやるよ、みたいな挑発程度でよかったんじゃないのかなあ。チームメイトとトレーナーを合わせ(もうアース出さなくて七人目はキタサン自身でもいいし)て自分のために協力してくれた人たちに捧げるようにしてG1七つ取る。その過程で、どんどんチーム以外を照らすスターになっていく……みたいな。

 あとドリームトロフィーもちゃんと使おうぜ。なんていうか、一期二期続いてるわけだし、やはりあの後もスズカが、テイオーが、マックイーンが、ブルボンが走ってるところを見たいじゃん。そのためにドリームトロフィーは使えるし、何よりネイチャとテイオーの再戦とかもできる。ていうか、思い切ってネイチャのレースをもう一つの軸に持ってくるとかでもいい。別にがっつり入れるんじゃなくてちょこちょこ結果とかレース前の場面を映すだけでもいいし。

 同時に、キタサンを湿らせるんじゃなくて、彼女の輝きにあてられて影になる部分を別に作るというか、それをシュヴァル以外にネイチャにも担わせて、自分はドリーム・トロフィーに上がりはしたけど、やっぱりなかなか勝ちきれなくて、そばにいる後輩はどんどん勝っていく。その過程でもう限界なのかな……というところで何度目かのテイオーとの再戦がめぐってくる。いままで通り勝てるわけないし、これで最後にしようかな、というネイチャに対してキタサンの、自分はあきらめず勝とうとするネイチャの姿もテイオーと同じように小さいときから見てきたし、なにより私の「先生」なんだって言葉に奮起して立ち向かう、みたいな。僅差で勝ったネイチャをわっしょいわっしょい胴上げするキタサンとカノープスメンバーとかそういうのでチームの絆を見せようぜ。

 それから、先輩たちによるドリーム・トロフィーを見て、キタサンは自分もそこに行きたい、今度は先輩たちに勝ちたいという目標を持つ、とかさ。一方で、キタサンの目がだんだん先輩たちにしか行ってないことを踏まえて同期のシュヴァルの「君が嫌いだ」を持ってきても良いし。衰え云々じゃなくても自分を置いてかないでよ、みたいなことだってできるんじゃないんかなあ。てか、12話のやつは確かに話としては悪くなかったけど、それまでキタサンが見てる側としてキラキラしてる感じしないので、なんか「好きだぁー」の部分がぼんやりしてしまった感がある。なんかシュバルと視聴者とでキタサン像違くない? みたいな。

 あと、どうしてもピークアウトを持ってきたいんだったら、やはり希望が持てるようにしてほしいというか、それはウマ娘の“魂”的な問題に落とし込むとかでよかったんじゃないかなあ。てか、最初のナレーションの意味をもう一度考えて欲しいんだよ。なんか悪乗りするだけのネタ扱いするんじゃなくてさ。

「ときに数奇で、ときに輝かしい歴史をもつ別世界の名前とともに生まれ、その魂を受け継いで走る」「彼女たちは走り続ける、瞳の先にあるゴールだけを目指して」「この世界に生きるウマ娘の未来のレース結果は、まだ誰にも分からない」この意味を。ウマ娘はモデル馬そのものではないはずじゃないのか。なんか最近、その辺があいまいというか、美少女の姿した競走馬でしかない感じになりそうでなんかモヤモヤしている。

 RTTTのアドマイヤベガとか、アプリのスズカとか、そういう不思議な何かの存在路線があるわけだし、ピークアウト云々を魂の問題に繋げるとかできたんじゃないの。シュバルとの戦い後にネイチャとかターボとの並走で、急に思うように走れない、「何かが遠ざかっていく感じ」というのをそれこそゴールドシップみたいな、なんか「わかってそうな」キャラに言わせればいい。G1ウマ娘に特に多いとかそういう感じで、それを克服できずに終わるやつもいるし、克服できるやつもいる。克服の仕方はそれぞれだ、みたいな。実際のやつだと、ピークアウトという概念が存在するくせに、スピカのメンバーもトレーナーもそういうことにすぐ気がつかないのか? みたいな疑問が湧いてしょうがなかったし、G1ウマ娘に多いとか理由付けちゃえば、カノープスメンバーや南坂トレーナーが気づくの遅れても違和感あんまないんじゃないの。

 意気消沈するキタサンにネイチャとかが、あんたが私を信じてくれたから私は走れた、だから私もあんたを信じるよ、今度は誰かのためじゃなく、自分のために走れ、みたいな感じでこれまでずっと誰かのために走ってたキタサンが自分の夢のために走る、そういう展開を見たかったんだが。

 そして、有馬のレースで走っているうちに、キタサンがその魂の存在に気付く演出にもっていって、自分をここまで導き、見守っていた存在、その“魂”に対して、自分はこの世界で出会えた同世代をはじめ、先輩たち、そしてこれからやってくる後輩たちと走りたい、彼らに勝ちたい。今度は、私がその先をあなたに見せてあげたい、それが私の――ウマ娘キタサンブラックの夢なんだって告げる。そして、「史実通り」に圧倒的なレース運びで、その輝きを刻みつける。それを見て、ドゥラをはじめ、シュヴァルもクラウンも凱旋で意気消沈していたダイヤも彼女の背中を追いたいと思う。彼女はやっぱりみんなの中心で、お祭り娘なんだって。そして、またみんなで走る「夢」を視聴者に見せて終わればいいじゃん。だいたい、またみんなで走るという希望すら観終えた者に持たせられない「ウマ娘」に何の意味があるんだ? その前提は、それは私の勘違いなのか?

 うまぴょいだって、それはこれまで明るい展望を見せて終わったから、まあいいかみたいなところはあったし、湿ってて消化不良な終わりの後に流れても逆にイラっとするだけだ。てか、そういう内輪向け様式美はいいかげんそろそろやめて、GIRLS' LEGEND Uとかにしようよ。

 

 ……いろいろと勢いに任せてシリメツレツな願望文を書き連ねてしまったが、まあ別にたいして読まれはせんだろうし、書きたいように書いた。これが、season3より面白いとかも思わんし、自分のための儀式みたいなものだ。憑きもの落としだ。

 

 でもさ、やっぱり、改めて言いたいのは、私にとって「ウマ娘」はかつてあったこと、という「運命」とギリギリまで戦って希望を、なにより夢を勝ち取る、そういう作り手の意志を見せて欲しい作品なんだよ。