蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

天使と悪魔:アガサ・クリスティー『カーテン』

カーテン (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 なんかイマイチ更新できないので、旧ブログに書いてたやつの転載でお茶を濁す(じゃっかん改稿してある)。『カーテン』は今のところクリスティのベストというか、自分の中の本格ミステリベストにも入れたい作品。あと、自分のこの感想文章もけっこう気に入っている。

 というか、パスワードも忘れ、そもそものメールアドレスがもう使ってない(hotmail)ので管理画面に入れなくなってしまった……秘密の質問の(飼ってない)ペットの名前も憶えてるわけない。どうしよ。

 

あらすじ
 ヘイスティングスは、ポアロの招待で彼との出会いの場所、あのスタイルズ荘に再び招かれる。久々にポアロと対面するヘイスティングスだったが、かの名探偵は今は老い、足は萎え、その体は病床にあった。過去を思い、やり切れなさが去来するヘイスティングスに、ポワロは過去に起きたそれぞれ何の繋がりも無さそうな五つの事件を示す。実はそこには共通の犯人が潜んでいて、何と今その犯人が当のスタイルズ荘にいるという。犯人の見当がついているというポワロにヘイスティングスは、犯人を聞き出そうとするが、何故かポワロは言を左右にして詳しいことを話そうとしない。今は宿となっているスタイルズ荘に過ごす宿泊客たちの、一見のどかな日常に、やがて不穏な空気が流れ始め、ついに事件の予兆めいた事態が発生するのだが……。

 

感想 ※ネタバレ前提ですので、そのつもりで。


 カーテン。アガサクリスティが創造した、ミステリ史に残る名探偵エルキュール・ポワロ最後の事件として、その衝撃的な内容とともにあまりにも有名な作品です。1975年に出版された作品ですが、実際の執筆は第二次世界大戦のまっただなかである1943年に行われました。実質的にはアガサ・クリスティの中期にあたる作品ですが、彼女のそれまでに行ってきたテクニック、それに付随していたテーマの総決算的な趣のある作品です。

 読む前に一応ポワロの死と、彼が罪を犯す、ということは知っていました。なのでこの作品の衝撃とは、名探偵による殺人、という今となっては手垢のついたギミックに支えられたものだと思っていたのでした。しかし、実際読んでみてそんなものではないことが分かります。正直びっくりしました。というか地味に衝撃を受けました。クリスティを尖ったところのない安打製造機みたいな感じで侮っていた所を大いに覆されたのです。この作品の裏側に仕込まれていた構成についてもそうですが、まずこの作品の見るべき場所は、なんといってもその犯人像です。

 この犯人は、今までのアガサの犯人像とは異質な所が有ります。クリスティの犯人は、だいたいが金や復讐という分かりやすいというか、世俗的な動機が多いのです。あいつを殺して浮気相手と一緒になりたい、とかですね。しかしここで出てくる犯人は、ただ殺したいから殺しているのです。しかも、自分で手を下さずに相手を操ることで。

 なので、犯人は殺意の芽を見つけると、手当たり次第、その人間たちをあおり、殺人をしてしまうような状況をセッティングし、殺人へと誘導していきます。この小説は、特に殺人が連発するわけでもなく、序盤から中盤まで不穏な展開がひたすら続きます。メンバーの中に、これまでそうやって手を汚さずに殺人を他人にさせてきた犯人がいて、ポワロはそれを探っている――そう思い込んでいた読者は最後になって気が付きます。これまでずっと犯人は登場人物たちに殺人を犯させようとし、その都度ポワロが阻止してきたのだということを。読んできた物語の裏側で実は名探偵と犯人の暗闘が繰り広げられていたのです。

 人に罪を犯させようと暗躍する意味で、この犯人は悪魔と言えます。実際、この人物についての描写はどこか茫洋としたもので、平凡な人間、影の薄い人間として描かれています。人物たちの中の影のような存在として、犯人は人々にそれとなく、罪を犯すように仕向けていくのです。実際的な利益と関係なく、ただ人に殺人をさせる。こういう悪魔としてのヴィラン、という存在は、今でいうノーランの『ダークナイト』におけるジョーカーなどといった、いわゆる観念型悪というものの先駆けと言えるのではないでしょうか。

 この特異な犯人の造形について執筆された時代背景を考えると、やはり戦争という要素が影を落としていた、ということは想像に難くありません。戦争によって、誰もが殺人者たり得る。何の恨みもない見ず知らずの人間を公然と殺し、そして殺される。その事実に突き当たった時、人の心に囁きかけ、普通の善良な人々に殺人を起こさせる戦争の似姿として、この犯人は生まれたのではないしょうか。そして、その悪魔と戦う天使としてのポワロはヘイスティングスにこう言い残します。より善く生きることだ、と。

 人間らしく生きようとすること、それがこの魔を晴らすことだ。見ず知らずの他者を殺すことが蔓延する世界にあって、それを二度も体験したクリスティがポワロに託した、儚いともいえる願い。それは、あくまで暗闇の中の小さな光でしかないのかもしれませんが、今なお、世界という暗がりの中で瞬いています。

 これはある意味、戦争に大きく覆われた世界そのものとの戦いであって、これほど名探偵ポワロに相応しい最後の事件もないでしょう。個人的には、探偵史上に残る特異な傑作であると思います。