蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

生きづらさの場所:J.Gバラード『殺す』

殺す (創元SF文庫) (創元SF文庫)

あらすじ

 ロンドンの高級住宅街で住人32人が惨殺された。被害者はすべて大人。同時に被害者たちの子ども13人は跡形もなく姿を消していた。メディアを中心に、事件に対し様々な憶測が飛び交う中、内務省から派遣された法学医ドクターグレヴィルは、現場を見ていくうちに、世間の人々が考えるのとは違った真実の可能性に気がついていく。

 

感想 ※内容について言及していますのでそのつもりで

 実は初バラード。一応、映画『ハイライズ』を先に触れてはいるが、小説を読むのは初めてだ。とりあえずSFに分類されてはいるが、いかにもSFです、みたいなガジェットや理論みたいなのは特になく、ハイソサイエティなコミュニティが生み出す“歪み”みたいなものを淡々と描いたものだ(そういえば『ハイライズ』もそんな感じだったな)。

 書かれた当時はこの“真相”に驚き、慄いた読者がメインだったのかどうかは分からないが、今の読者だともうこれもまた一つのパターン的なものとして回収されてしまうだろう。もちろん、それ自体はメインではないだろうが。

 イイものだと社会がおそらく思っているモノ、要するに社会的な正しさで構成されたものがあったとして、そこに構成物として組み込まれた人間は社会が望む“正しい人”となるのだろうか、という視点はこの小説が現代の寓話と言われるゆえんだろう。

 また、本作は管理社会的な要素をもった作品だとも言えるだろう。管理社会的なディストピアオーウェル的なガチの管理社会というものと、その派生型としてユートピア的な管理社会がある。オーウェル的なものが国家という生き物のための構成要素となることを求める管理社会であるのに対し、ユートピア型は望ましいもの、正しいものを体現するものとしての構成員となることを要求する。後者だと、伊藤計劃の『ハーモニー』が、管理社会の核となる“善きもの”を「健康」としていて、なかなか現代的だった。

 本作の場合は「善き家庭」ということになる。そのための望ましいものでがんじがらめにされた子どもたちが大人たちに対して反旗を翻すというのは、物語的な外装としてはまあまあ定型的で古さを感じたりはする。大人と子供という対立軸も含めて。ただ、「正しさ」で権威的に満たされた世界はその「正しさ」で歪むのかもしれない、という視点は今もなお、議論する余地があるものを含んでいる。

 ただ、私個人としては自分が見ている“いま”との齟齬も感じてはいる。90年代的な少年犯罪は今は昔という感じだし、ここ最近で起きた犯罪――解説にある秋葉原の無差別殺人をはじめ、相模原障害者施設殺傷事件、京都アニメーション放火殺人事件、元総理銃殺事件などを見ていると、そういうバラード的な管理社会理論で世界の歪みを見つめることができるかというと、なんか違う気がしてしまうのも正直なところだ。彼らは世間から権威的に振るわれる「正しさ」に反発したのだろうか?

 一応のところ、私たちの属する社会はオーウェル的なものでもなく、ユートピア型でもなく、むしろ管理する主体はあいまいなまま、杜撰な社会道徳や常識と呼ばれるものが権威的に都合よく使用される醜悪な空間でしかない。そんな場所で発生する生きづらさ。むしろそこでは、みな一生懸命そこでの「正しさ」に支配された小さなコミュニティに入ろうと腐心しているのではないか。

 その現実の反映のようにインターネットという空間もまた、人を積極的にコミュニティに入り込むように仕向け「こちら側」であることに「正しさ」を感じさせている。しかし、それはあくまで仮想的なものでしかなく、現実の生きづらさをなんら解消しない。

 管理や権威的な「正しさ」による生きづらさというよりは、生きる上で「正しい」場所に入ることができない――自分が望む場所に本当の意味で入ることができない、排除されていると感じている人間の増大。これがたぶん、いま現在、私たちが直面しているモノの源泉なんじゃないか、そんな気がしている。