蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

羅小黒戦記とプロパガンダ。あとデカダンスとか。

 ※アニメ羅小黒戦記とデカダンスについてネタバレをしつつ語っていくのでそのつもりで。

 

 

 

 中国アニメのヒット作、羅小黒戦記について、そのプロパガンダ性の有無が少し前にちょっとした話題になっていた。要するに中国国内のウイグルをはじめとした少数部族問題と絡めて、作中のフーシンら妖精を少数部族の象徴として、住処を追われた彼らが人間の中で生活する様子を肯定的に描くことが、中国における少数民族の現状を肯定するということになっているのではないか。まあ、そういう政治的なプロパガンダの一部となっているのではないか、という趣旨だった。このアニメは中国の現状を肯定的に飲み込ませやすくしている“楽しいプロパガンダ”(辻田真佐憲)の一部なのか。

 プロパガンダというと、まあ、大雑把な定義としては特定の思想や主張について、政治的な意思をもって宣伝をし、大衆をその思想や主張へと誘導するものだ。ウイグル等の少数民族自治ではなく、「融和」のなかで多数派の中に取り込まれていくこと、ということが、この場合の政治的なメッセージということになるだろう。

 では、はたして羅小黒戦記はそのような政治的なメッセージでもって、少数民族(妖精)は多数派(人間)の中に共存という形で取り込まれるべきであるという主張を観る者に刻み付けるものだろうか。結果から言うと、もしそれを意図したものとするならば、それは失敗しているというように私には思われる。

 確かに、人間との共存を拒み、故郷を取り戻そうとするフーシン一派の戦いは敗北に終わる。だがしかし、彼らは確かに人間への反逆者として描かれつつも、その敗北を肯定的に描いているとは言い難いからだ。観終わって感じるのは故郷を奪われた妖精たちへの“後ろめたさ”ではないだろうか。しかも、フーシンは最後に自身を大樹へと変え、人間たちの街に根を下ろす。その姿を刻み付けるように。確かにそんなことをしても、他の妖精が言うように、切られて木材にされるかして排除されるか、公園として街に取り込まれるだけなのかもしれない。しかし、その樹の姿は最後まで徹底したレジスタンスの姿ではないだろうか。そしてその姿がどこか悲愴であるからこそ、後ろめたさが澱のように残る。

 最後のフーシンの姿を見て、果たして「融和」バンザイ、妖精(少数派)は人間(多数派)の世界で生きていく方が幸せであるという結論に鑑賞者を導くことができるか、というと私自身は疑わしいと思う。そこにはやはり前述した“後ろめたさ”がトゲのように突き刺さってはいまいか。

 プロパガンダとは分かりやすい結論に導くことが第一だ。要するに、プロパガンダの大敵というのは複雑さに他ならない。羅小黒戦記という作品において、人間と妖精の「融和」は声高に唱えられるものではないし、主人公たちもそれについてそうあるべしとは言わない。妖精たちも人間に親しみを感じているものがいる一方で、フーシンたちのような過激派や人間たちに反抗はしないけれど好きにはなれないというものまでグラデーションがある。この映画にはそういう形で、ある種の複雑さが組み込まれていて、観た人間を一つの結論に導くという意味でのプロパガンダ性は弱いというか、むしろ、中国製ということと、そこに描かれる少数派の妖精の姿からウイグル問題とプロパガンダ性を導くことこそに、ある種のバイアスがあるのではないかという気もする。個人的にはこの作品よりも、兵器や軍隊に無条件に親しみを感じさせてしまうような日本製の美少女ミリタリーアニメの方が、どこか無警戒な取り扱いを含めて警戒感を抱くが。

 もちろん、作品の掲げたテーマへの深度や二項対立の描写を含め、まだまだなところはあるが、それはともかく、アクション・エンターテインメントとしては目を見張るものがあるし、むしろテーマ性よりもそういうアクションエンタメの印象がはるかに大きく残る。そういう意味でも、そこまでこの作品に対しては、プロパガンダ云々という印象は薄かったように思う。

 一方で現状肯定感というのも、近い時期に見たアニメの方がよりラディカルだった気もしていた。日本製のアニメ『デカダンス』だ。

 『デカダンス』は、荒廃した未来の地球が舞台のSF作品だ。環境破壊により、人間はほとんどがサイボーグと化し、そのサイボーグを管理する会社が地球の一部を買い取って広大なテーマパーク“デカダンス”を運営している。そこはある種のゲーム空間であり、宇宙にいるサイボーグたちは人間の姿を模したアバターを使い、ガドルという生物を狩る。そして、サイボーグ化せずに奇跡的に生き残っている人間はそのゲーム上のNPCのような存在として、“デカダンス”内に存在している。ガドルや人間を含め、そこを管理するサイボーグたちは会社の所有物であり、会社が作り上げた“デカダンス”というシステムに奉仕する存在となっている。そして、そのシステムを脅かす存在は“バグ”として排除される。

 物語は当然、“バグ”とされた者たちによる対システム、管理者への反逆という方向へと進むわけだが、『マトリックス』でその手の古典的な反逆が脱臼させられたように、システムにとってはバグも織り込み済みであり、バグが管理できなくなるほど増えたとしても、管理者としてはシステムをいったんリセットしてやり直せばいいだけだ。

 管理者への反逆は織り込み済みであり、管理者を倒してシステムそのものを破壊するということができない。それが、マトリックスを経た対管理システムの物語の難題に他ならない。

 アニメ・デカダンスは最終的に、システムそのものを否定するのではなく、“アップデート”というまあ、現代的な価値観に落ち着くことになる。言ってみれば現状を肯定しつつ、より良い形にしていこうというわけだ。ゲーム内でNPCの如く飼われていた人間たちは、新しくアップデートされたゲーム“デカダンス”のなかの従業員として、ゲームを訪れるサイボーグたちをもてなす。なんというか、動物園の動物が従業員になって来園者をもてなすみたいな感じで、動物園自体は依然存在するという形に、ある種のモヤモヤ感があるという人がいるのは、まあ当然と言えば当然だろう。私もそれは否定はしない。

 システムは維持されつつ、アップデートをはかるというのは現代的な価値観ではあるが、アップデートするのは誰なのか、というのを考えると、アニメ・デカダンスの落としどころはどこか危ういものがある。とはいえ、このアニメの現状肯定感は、どこか現実の姿であるような気はする。

 大きなシステム、権力を打破するという感覚が薄れ、“調和”というテーゼの中で批判をせず、みんなで仲良く生きていきましょう。そういう空気。管理者によって新たに用意されたフィールドの中で、自分たちを管理していた側のお客さんたちと仲良く過ごしている主人公たちの姿は、個人的には羅小黒戦記の現状肯定云々よりもよりラディカルというか、悪く言ってしまえばグロテスクに思えた。

 とはいえ、そういう所も含めてアニメ『デカダンス』のラストは興味深いというか面白い物であったことは確かだが。