蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

G.K.チェスタトン『ブラウン神父の知恵』

ブラウン神父の知恵 (創元推理文庫)

 ブラウン神父シリーズの第二集。

 第一集『ブラウン神父の童心』の感想はこちら

 

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「グラス氏の失踪」

 若い女性から付き合っている青年の様子がおかしいと依頼を受ける神父。彼の部屋へ向かうとロープでグルグル巻きのうえ、あたりには砕けたグラスやトランプが散らばり、青年のそばに落ちていたナイフには血がついていた。女性は、青年がグラス氏なる人物と言い合いをしていたというが……

 科学者VSブラウン神父。というか、フッド博士はホームズのパロディなのだろう。現場に残された手がかりから、ホームズ流な演繹推理を行う博士は、消えたグラス氏について殺されたと結論するが、ブラウン神父はフッド博士と同じ手がかりからまた別の結論を導き出す。中心になるトリックもホームズ譚ではよくあるやつだが、チェスタトンは少し関節を外したような使い方をして、とぼけた味わいを演出している。最後の幕切れもしゃれた感じだ。

「泥棒天国」

 イタリアの峠を銀行一家を乗せた馬車が越えようとしていた。そこに山賊が現れ、早速銀行家らをアジトに引っ張り込むと現金を奪い、更なる金を奪うため、ポスターを作り始める。ここは泥棒天国だとうそぶく山賊たち。しかし、何かがおかしい。それを馬車に乗り合わせていたブラウン神父が指摘していくのだが……。

 これもまた、逆説的な形で事件そのものをひっくり返す作品。泥棒天国という言葉が意味するものが、正直自分にはよく分からなかったが、それを語る人物の造形はなかなか面白いものがあった。

「イルシュ博士の決闘」:旧訳では「ヒルシュ博士の決闘」

 トリックというものが、何かを欺く手段の一つではなく、作中のテーマそのものにすることができるというのは、ブラウン神父の童心でもたびたび出てきたが、この作品もその一つにあるだろう。トリック自体が使い古されていることもあり、真相はおおむね予想がつくだろうが、トリックをどのようなテーマに結び付けるかで、違った作品に出来るというのは、やはり、この時代としてはかなりの画期性だったのではないだろうか。

 ただ、この事件は、ドレフュス事件を下敷きにしている。架空の事件よりも実際の事件を扱うことで、テーマとしてよりアクチュアルなものを狙ったのかもしれないが、実際の事件に対するチェスタトンの解釈なのか? という疑問がわく。そしてそれは、このブラウン神父の物語と重ねることで、あまりにも単純な物語に浸食されているような危うさがただよう。その点でどこか「逆説」の危険な側面が垣間見える作品。

「通路の人影」

 言い寄られていた有名女優が楽屋前の通路で刺されていた。死体発見の際、ブラウン神父を含めた三人が通路に人影を見たのだが、その姿は三者三様であった……

 ディクスン・カーの某作品に影響を与えた作品とも言われていたりするが、この作品自体はポーの「モルグ街の殺人」における証言の食い違いの流れにあるような気がする。

 トリックによって、食い違いが生じ、その根幹部分にはどこか可笑しみがただようというか、最後の神父のセリフも含めて「心理的」な部分にトリックが不可分な形で取り込まれているのはやはり見事(というか、あのトリックの性質がこのような「心理的」な要素を導き出しているのだろうが)。

「機械のあやまち」

 神父が語る過去の「機械のあやまち」の物語。それはかつて神父が働いていたシカゴの刑務所の副所長による失敗談であった。畑を横切るボロをまとった男を新聞で見た脱獄囚だと判断した副所長は彼を捕らえ、自慢の心理測定機にかけ、犯人であると断定するが……

 「その信頼にたる機械を動かすのは、いつも信頼できぬ機械だ――」この神父の言葉から始まる逆説劇は、冒頭の題名もある種のミスリードというか、ひっくり返す形で、人間というものの思い込みを皮肉ってみせる。単なる科学批判ではなく、それを用いる人間への疑問という視線は、第一次世界大戦一年前の一九一三年という発表年を見ると、なかなか暗示的な視線に見えてくる。

「シーザーの頭」

 古銭収集家の妹が、奇妙な男につきまとわれる話。つきまとう男の蝋めいた鼻というアクセントが怪談風の話に独特の不気味さを与えている。

 逆説的な話は古銭収集家というか、コレクターにとっては説教じみた余計なお世話、かもしれない。まあ、じゃっかん逆説のための逆説という感も無きにしも非ず。

 あと、事件に直接関係はないが、マザーグースの「まがった男」の引用があり、ミステリとマザーグースの関係性の萌芽がうかがわれる。

「紫の鬘」

 ある侯爵家にまつわる耳の形の伝説と、現当主がかぶる紫色の鬘。それを軸に展開される事件は、貴族制度に対する皮肉に終わる。

 なんかいまいち読み取れなかったのだが、権威におののいてみせることで、権威を手に入れる、そういう話だろうか。その部分はともかく、全体的にはそこまで面白い話とは思えなかった。 

「ペンドラゴン一族の滅亡」

 過労から回復した神父をフランボウが小型ヨットで洋上散策に連れ出す。その最中、ヨットから見えた高い塔。それを主有するペンドラゴン一族は、かつての出来事から、呪いを受けたと噂される一族だった。

 海賊の呪いと、海難事故による死が相次ぐ一族というこれまたディクスン・カーが好きそうな取り合わせ。そして燃える塔という道具立てとトリックが混然一体となった物語が楽しい。これはなかなか好きな話だった。

「銅鑼の神」

 犯罪を発見した神父が次なる犯罪を未然に防ぐ、みたいな話。音楽堂、ホテル、そしてボクシングの会場と場面が次々と移り、ある秘密教団まで出てくるファンタジックな作品になっている。作中の逆説もちょっと無理やりな気もするし、アナログな「邪教」の使い方も気になる……正直、あまりいい出来の作品とは言いがたい。

 どうでもいいけど、二千人の観客がいる興行を殺人予告もないのに止められるもんなのかどうなのか。まあ、怪しげな神父の話だけで止めた興行主は偉い。

「クレイ大佐のサラダ」

 クレイ大佐は、従軍先の猿神の神殿で僧侶に呪いをかけられる。そして、その後呪いのような現象を大佐は三度経験する。そして帰国してから、悪魔に狙われたとして発砲したところにブラウン神父は居合わせるのだが……。

 この話もまた怪奇色強めな話で、その怪奇をブラウン神父がミステリらしく理に落としていく。犯人が判明するのにくしゃみが用いられたりして、どこかユーモラスな要素もある。この部分のユーモラス性は泡坂妻夫の愛一郎シリーズに通じるものがある。

ジョン・ブルノワの珍犯罪」

 ある意味、究極の独り相撲が生み出す事件の形というのだろうか。ブルノワ氏の珍犯罪が何か、というのがミソでもあり、最後のブラウン神父のセリフがキマっている。

「ブラウン神父のお伽噺」

 とあるドイツの小国で起きた事件があった。ドイツ帝国が派遣し、帝国の利益になるような統治をおこなっていたオットー公が奇妙な死を遂げたのだ。晩年、独裁者と化した公は城の周りに昼夜を問わず配置した衛兵を何倍にも増やし、怪しい人物とみれば情け容赦なく打ち殺す有様。自身も奥の部屋に囲まれた小さな密室に閉じこもっていた。しかし、ある夜、城から消えた公は外の森の中で射殺されていたのだ。この謎を、神父はまるで見てきたように謎を解く。

 本当に、「見てきたように」真実を語るブラウン神父。黄金に執着したものの末路は、自分の行いによって始末をつけられるというのが、まさにお伽噺めいている。被害者が作り上げた状況が不可能犯罪的な様相を呈するというのが面白い構造。

 三兄弟がどうとか、少し『三つの棺』めいたにおいもする。

 

 以上、好きなベスト3だと「グラス氏の失踪」「ペンドラゴン一族の滅亡」「ブラウン神父のお伽噺」になるだろうか。

 最後に控えた解説は巽 昌章の秀逸なチェスタトンのミステリ評で、こちらも必読。

 この「知恵」に収められた作品は、逆説の暴発というような、逆説によって世界に秩序がもたらされるというよりは、逆説によって人間が操られているような印象を帯び始めていて、どこかおさまりが悪いような雰囲気も漂う。そこがまた特徴的な第二集かもしれない。

 

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