蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 この文章は、結構前に書いて、どうしようかな、と悩んで結局飲み込んだ文章だったのだけれど、それからずっとどこかで引っかかったまんまな気分で迷っていた。それで、やっぱり外に吐き出したい思いもあって、今さらな感じで表に出すことにしたのだった。

 こういう問題に不用意に触れることは、しないに越したことがないのかもしれないが、まあ、ふと目にしたその糾弾の居丈高な調子にどうしても何か言いたくなってしまったのだ。愚かにも。

 とはいってもそんなに大した話じゃない。とあるフィクションにおける「あるべき未来」についての話だ。

 

 あるべき未来――フィクションの未来というものに対して、未来なのだから、よりよい「進んだ」描写がされてしかるべきだ、というような感想を見た。まあ、はっきり言えば攻殻の新しいシリーズについてだ。

 25年後の2045年は、もっと今から見てジェンダー的に配慮されているべき未来であるはずだ、というのは、それが望ましいことではあるとして、配慮が甘い25年後の未来は、果たして想像力の貧困なのか。それは未来を「べき」ととるか、「だろう」ととるかという考え方にもよると思う。

 たしかに「だろう」にせよ、理想的に変化している「だろう」という予測に基づく未来を描くことはありうる。だが、変わらない「だろう」ということもまた未来予測のひとつではないか。この国は25年後に現在の私たちが理想とするべき社会状況を成し遂げているだろうか。

 25年前といえば1995年だ。あの時代だってジェンダーフリーなものを理想とはしていたはずだし、2020年の医大が入試で意図的に男女に点数の差をもうけるなんて「未来」を描いたら、それは現在だろという突っ込みは受けるにせよ、未来の描写らしいという人はいなかったんじゃないだろうか。

 もちろん、ただ単に作り手のセンスの問題というのは常につきまとうにせよ、未来だから理想的なジェンダー描写するべきだ、というのを高圧的に是として作品の細かい描写をチェックしていくのは、個人的には、何か違和感がつきまとう。

 未来というのは、イデオロギー的な理想ではなく、現在の延長としてなんとかのぞき込もうとするものではあるまいか。レイシズム女性差別にまみれている現在の国のトップが25年で理想的に変化するだろうか。もちろん、前進はする可能性はあるだろうが、理想的な姿での描写は、過去のSF的風景、動く歩道とか、チューブ状の道路とかの現在とは地続きとはいえない未来の風景のような気がする。完全理想的なファンタジー世界のSFならともかく、未来とは今の延長だと考えるなら、未来だからそうなるべきだ、と言って作品を批判するのはどこか独善さを感じてしまう。

 そもそもの感覚として、草薙素子ジェンダーフリーの開放的アイコンみたいに扱う個人の思い入れというのにも、あまり入り込めないものがある。個人的にネットの彼岸へと渡る前の(主に漫画&TVシリーズの)草薙素子いけ好かない権力側のプロフェッショナル以上でも以下でもないが、まあ、そこは人それぞれか。

 まあ、それはともかく、新シリーズが面白いかと言われると自分も何とも言えないが……。「未来」の面白さには欠けてる気はするのが悲しい所だ。