蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

カーター・ディクスン『五つの箱の死』

五つの箱の死 (奇想天外の本棚) (奇想天外の本棚 9)

 

 本作については、カーの作品の中で正直なところ、あまり顧みられていない作品というのが通説というか、江戸川乱歩のカー問答に始まり、カーを語る文章のなかで特にほめている記述は見当たらない。そんな状況を「奇想の本棚」の製作総指揮者は嘆き、さらにこの作品の根幹に付きまとっていた「アンフェアではないか?」という声にそれは旧約の製本上のミスであると異を唱え、本作はカーというミステリの名匠による“離れ業”であると説く。はたしてその宣言は新しい訳で送り出される本作の凱歌となるか――。

 とりあえず、カーの新訳は助かります。『五つの箱の死』については、自分にカーを意識させた二階堂黎人の『名探偵の肖像』収録のカー作品全解説のなかで、すごいあっさり目に紹介された上に、ある趣向を狙ったが空振りに終わったという記述にとどまり、なんか微妙な作品なんだろうなということで後回しになっていたのでした。さらに、『夜明けの睡魔』における瀬戸川評ではその狙いの根幹部分が明かされていて、二階堂評と同じようにそれが失敗に終わったという認識のようでした(はっきり凡作と言っている)。そんなわけで、私自身の期待もそう高くはなく、すでにネタを知っていることもあってどんどん後回しになっていったのでした。

 そんな中で、「奇想の本棚」という叢書での新訳と、それは違う、というこれまでの「五つの箱」評への異議に興味を惹かれて読んでみたわけです。カー、というかミステリの古典は新訳で印象が変わることが多々あるので、カー新訳の流れでこの作品が来たのもなかなか自分が読むタイミングとしてはよかったかな、と。

 で、読んでみてどうだったかというと、まず序盤の死体出現シーンがカー屈指のインパクトのあるものに仕上がっていて、本書冒頭に設けられている「炉辺談話」で述べられた通りの「奇想天外なクライム・シーン」は必見、というか読む者を惹きつける謎の魅力があふれていました。がっつりあらすじとか帯に書かれちゃってるんですけど偶々気分的にガン無視して読み始めたので、これから始めて読むという人にもそれを推奨したいですね。また、探偵役を務めるのはおなじみヘンリー・メリヴェール卿なわけですが、彼といえばのドタバタ登場シーンもなかなかすごいことになってて、映画かよ! みたいな登場シーンもインパクト大な本作。

 それでは、ミステリとしてはどうかというと、序盤の死体発見シーンで読者を一気に引き込みつつ、少しづつ小出しにされていく事件前後の不可解な状況、どうやって殺したのか、という問題以上に、その夜何が起こっていたのかという興味で引っ張っていきます。後半、若干息切れするようなところを感じはしましたが、事件が解きほぐされ、犯人を指摘する段になると、あ~なるほど、言われてたことはそういうことだったのか、という気分を味わえました。たぶん旧約では不備だった部分がきちんと改善されていることもあり、「反則」といった印象は特になく、けっこうギリギリを狙った巨匠の技巧を労無く鑑賞することができたのではと思います。

 不可解な状況を生み出すために、人物の動きが煩雑になっていたり、もしかしたら、真相が明かされても、何それ感があったりするかもですが、個人的には身構えていた分、そっちだったのか、という背負い投げ感を得ることができました。カーの最良作の一群に入るかどうかは正直微妙な気はしますが、発表の同年(38年)に『ユダの窓』『曲がった蝶番』前年には『火刑法廷』『第三の銃弾』など、脂の乗りきっていた時期の作品だけはあると思います。

 

※以下、ネタバレ込みの感想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意外な犯人として、瀬戸川猛資やその他の旧訳を読んだらしいファンからの「登場人物以外を犯人にする」という「反則」は、今回の本ではちゃんと登場人物表に犯人は書かれているし、読者の前にも登場する描写は少ないながらもちゃんとある。

 テクニックとしては被害者の物語上所属するグループの濃淡というか、奇妙な状況で発見される被害者たちのグループの中で延々話を展開し、そのグループ内の事件であるという風に読者を誘導しているわけですが、真相は被害者の株式仲買人が所属するもう一つのグループ(会社関係)に犯人が所属している。その会社関係のグループへ注意を読者に向けないために、飛び切りの奇妙な死体登場シーンとそれに関係する人々を配置していて、それは巧い。ただ、そのテクニック自体は割とスタンダードなものといえばもので、「普通」な感じがしたのですが、では何が「離れ業」なのか。

 困ったときには、カーといえばの「黄金の羊毛亭」。かのカーマニアサイトのネタバレ解説を読むに限る。そこに本作の犯人は探偵であるヘンリー卿や語り手の前に直接登場せず、彼らにとっては完全に事件関係者外の人間であるという指摘を見て、そういえば……という風にようやく、カーの本当の狙いに合点が言った次第。しかし、読み込んでいる人は良く読み込んでいるなぁ。まあ、でもあんまりにもマニアックな狙いどころで、それはちょっと一般的にはヘンなところにこだわってるな、になってしまいそうではありますが。

 まあ、とはいえカーの意外な犯人に賭ける情熱を実感できる作品であることは間違いないでしょう。