蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

退屈な少年が見る家族の肖像:鈴木悦夫『幸せな家族 そして その頃はやった唄』

 かつて読んだ人間に衝撃を与え、そのぬぐいがたい経験が一部で地下水脈のごとく語り継がれていたという児童書。それがこんど、めちゃくちゃ本を読みこんでいるフォロワーさんが解説を書いて中公文庫で復刊するということで、なんかいてもたってもいられなくなり、図書館で借りてきて読んだのでした(もちろん、復刊するやつも予約したよ)。

 本作を書いた鈴木悦夫は絵本・児童書を中心に活躍した作家で、そのなかでも本書は異質な部類に入る作品のようだ。もともと、同人誌「鬼ヶ島通信」の創刊号から十二号まで、六年にわたって連載されたもので、それを書いた動機として、著者は一つの歌をあげる。

 作中に重要なアイテム、というか骨格として埋め込まれている歌、「その頃はやった唄」は、山本太郎の詩集「覇王記」に収められている詩の一つなんだそう。

 著者はこの詩を知る前に、俳優・朗読詩人・CM演出家の西村正平が山本太郎の許可を得て作曲家越部信義に作曲を依頼して歌にしたものに強い衝撃を受け、この歌の世界を現代の物語にしたかったとその執筆理由をあとがきで語っている。

 たしかにその山本太郎による詩はかなり強烈だ。マザーグース的というか、マザーグースよりも直截的な殺人と死に彩られた詩で、それが六番まである。作品内では、五番までの詩の通りに、語り手の少年の周囲の人間が死んでいく。

 ミステリでいう、「童謡殺人」的なテイストで、すべての事件がその歌詞通りに展開され、最初の殺人では密室状況、第二の事件では不可解な事故、第四の事件では奇妙な毒殺とミステリ好きなら舌をなめずりするような展開で構成されている。

 しかし、著者は連載終了後のインタビューで、書きたかったことは謎解きではなく、もう少し別なところにあったと述べている。

 では、ミステリとしてはそこまでなのかというと、そうではなく、私のようなミステリ第一的な偏った人間でもなかなか良くできたミステリとして読める。特に第一の事件と第四の事件はなかなか作りこんであるし、第二の事件もシンプルながらも人物の性質をうまく使った仕掛けが光る。著者の本意ではないだろうが、不気味な詩に彩られた連続殺人ミステリとして読んでも楽しめると思う。

 それ以上に、この歌と本作の語り手が醸し出す異様な雰囲気は、凄惨な殺人事件を扱っている以上に、児童書らしからぬ昏い空気で読者を包む。事件の結末を含め、幼い読者たちに忘れがたい傷をつけたというのも頷ける。読み終えてから、本を閉じて表紙を見ると、それがまた何とも言えない気分にさせるだろう。この表紙もなかなか良くできていて、復刊版も多分変えないんじゃなかな、という気がする(似たような別のものになる可能性もあるだろうけど)。

 嫌な気分にさせるミステリ系児童書といえば、麻耶雄嵩の『神様ゲーム』を思い浮かべる人が多いかもしれない。後発のそれほど露悪的だったり、突き放したりするようなタイプではないが、この作品にちりばめられた歌と真相そして結末は、じわじわと読むものに染み込んでいく。幼い読者ならそこに描かれた「幸せな家族」とその崩壊に慄然とするかもしれない。もちろん、もう児童とは言えない読者だとしても、この作品に展開されている「家族の肖像」に、異様な読後感をおぼえるだろう。一読の価値はある作品であり、埋もれそうになっている本作に今一度光が当たることは、とても喜ばしいことだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ここからは、ネタバレを交えた形となるのでそのつもりで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この作品は実のところ、犯人自体を特に隠そうというそぶりは見せていない。語り手である少年の、事件を面白がる様子や繰り返される「たいくつ病」という記述から、この語り手の少年が事件を起こしていることはすぐに見当がつく。半ば倒叙のような形で物語は進んでいくが、その少年が事件に直接手を下しているディテール自体は伏せられているし、最後の告白までは彼が犯人であることは明言されない。読んでいる子供たちは、自分と同じぐらいの語り手に嫌なものを感じつつも、その最悪の予感を引き延ばされたままの緊張感に包まれていたかもしれない。

 そして、児童書としては語り手のインモラル性のほかに、その姉との微妙にインセストな雰囲気が、また幼い読者にまとわりつく闇の一つとなったことは想像に難くない。さらに、第一の父殺しであらわになる父の異様な姉へのこだわりも加わり、歪な家族の形とその亀裂に、ぞわぞわさせられっぱなしだったのではないだろうか。

 著者はあとがきで語っているように山本太郎による「家族殺しの歌」に衝撃を受け、その世界を現代に描き出すことを主な目的としているようだなのだが、その目的とは“現代”の家族が持つ病理なのかなんなのか。戦後の高度成長期を覆った「豊かさ」がもたらした「幸せな家族」云々というとなんか陳腐な感じもするし、むしろ元々あったが覆い隠されていた、そんなことはないとされていた、家族というものの不安定さというか根拠のなさを描こうとしているように思える。

 まあとにかく、だいたいの幼い子供にとっての小宇宙で基盤的な「家族」というものを、なにか異様なものとして描き出したこの作品は、読者が幼ければ幼いほど、べっとりとしたインパクトを与えただろうし、一部で衝撃の一作として語られているのも納得な作品だろう。それから、事件後の家族の周りの人たちの思惑もメディアの持つ邪悪な側面を描いていて、心配するようなそぶりをしていた「おじさんたち」の「撮影」というひっくり返しもまたイヤな要素だったろうなと思う。この辺の著者の「丁寧さ」みたいなのは、ほとんど悪意に近いんじゃないかと少し勘ぐったりしなくもない。

 最後に、作品自体とはあまり関係ないが、退屈を持て余し、家族の死をどこか娯楽的に見ている語り手の少年の姿は、どこか江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」における郷田三郎の流れを個人的には汲んでいるように思えて、時代を経たその犯人像の共通点なんかも少し興味深いところもあった。

 また父を嫌いながらも、父の妄執の操り人形になってしまう少年の図などもエラリー・クイーンの某作とかを連想して、作者が特に意識してはいないとは思うのだが、勝手にそういったミステリの歴史を意識してしまうところもあった(ただ単にミステリ者の偏った見方というか、すぐ古典と結びつける悪癖だろうが)。そういう意味でも楽しめる作品だった。

 あと、作者としては不本意なのかもしれないが、やはり個人的にミステリとして面白く読んだのは確かで、特に父が自分の事故死を殺人として息子に偽装させることで、彼の「殺人スイッチ」を入れることになって始まる殺人劇の構図とか、その過程で偶然生まれてしまった密室なんかも良かったし、なかなか凝った毒殺トリックとかも悪くなかった。ラストで歌の最後の歌詞を出して主人公の死を暗示するとともに、それによって本を閉じて見返した表紙が禍々しく見えるギミックなども、ミステリ好きとして楽しんだのでした。

 

 追:9/25

 不気味なシティポップのジャケットのイメージで依頼したらしい新しい表紙もいい感じに作品の不穏さを包んでいる。