蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

実はそうじゃなかった:アガサ・クリスティー『ABC殺人事件』

ABC殺人事件 (クリスティー文庫)

 クリスティーによるミステリ史におけるマイルストーン、そのまた一つ。1936年出版。

 もしかしたらエラリー・クイーンによる「X」「Y」「Z」*1に触発されたのかもしれない作品だが、知名度は断然こちらが上で、ミステリという歴史の中で「ABC殺人」「ミッシンクリンク・テーマ」という一大領域の大きな祖となったという意味でもかなり重要な作品だろう。

 あと、クリスティー作品の三大ネタバレ作品の一角を担っていて、読んでなくても大体ネタを知っている、という人は多い。私自身は、小学校の時に学校の図書室でジュブナイル版を手に取ったものの、最後まで読み切らずに棚に返してしまった。当時はホームズや明智小五郎の流れから、その他の名探偵をということでクリスティーを手に取ったものの、なんかポワロはイマイチカッコよくなく感じ、読むのに身が入らなかった(おじさんキャラはそんな好きじゃなかった)。そして、そのままだいぶクリスティーとは疎遠のまま、ネタバレをどこかで読んだ作品となってしまったのだった。

 そんなわけで、放置してきたこの超有名作をようやく最後まで読むことができた次第。そして感想はやはり面白い。

 まず、この作品には探偵小説としての魅力がぎっしりと詰まっている。なによりも自らをABCと名乗り、名探偵に挑戦してくる犯人の存在が個人的にはうれしい。江戸川乱歩で育ったので、こういうのが大好きなのだ。

 そして、よく知られたABCの地名でそれぞれ名前の頭文字が同じ人々が殺されていくという奇抜なプロット、殺人ごとに名探偵をあざ笑う犯人からの次の殺人の予告を伴った手紙。事件は劇場型犯罪のようなスケール感で推移し、ふとしたポワロの指摘から犯人像が浮かび上がり、警察の捜査によって犯人が逮捕されるのだが……。

 ABCテーマにして探偵への挑戦型の古典でありながら、すでに完成されたようなプロット。言い忘れていたが、本作はサイコサスペンスの祖のような部分もあり、そのような「狂気の犯人」を演出してみせながら、物語ともどもきちんと理の衣で覆わせているところもまた実に見事。

 そして、この作品が後世の様々な物語の文字通りの種になってきた(たぶんこれからも)ことを実感できた。

 

あらすじ

 ABCと名乗る人物からポワロへ手紙が届く、「おりこうさんのポワロ氏、あんたがどこまで利口になれるかみてみようじゃないか」。そして殺人が始まる。最初は警告されたアンドーヴァーでアリス・アッシャーという老婆が。再び手紙。今度はべクスヒル。犯人はABCの順で場所を予告し、そこでまた同じ頭文字の人間を殺していく。性別・職業・年齢――被害者たちには共通点は見当たらず、手がかりとして残されているのはACB鉄道案内のみ……後手に回るポワロとロンドン警察だが、捜査の中でポワロが見出したほんの些細な物証により、犯人像が浮かび上がる。そして、ついに犯人逮捕となるのだが……。

 

 

ここからはネタバレ前提で色々感想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感想

 やはりこの作品、根幹のアイディア以上に話運びが画期的というか、ミステリ的にはチェスタトンの有名作のコンバートみたいなもので、ポワロもブラウン神父みたいなセリフを言うし、意識的に挑戦していることをうかがわせる。もちろん、あの作品の原理を連続殺人的に展開させたのもエポックではあるが、なんといってもこの作品のプロットこそが真の発明と言っていいだろう。

 名探偵のもとに挑戦状が届き、A:アンドーヴァーでアリス・アッシャーが、B:べクスヒルでエリザベス・バーナードが、という風に見ず知らずの人間を強制的に犯人のルールによってつなげていく犯罪。関係性の輪の中で起こる従来的な犯罪ではなく、犯人によって作り出されたそれによって、事件が形成される。事件を装飾する演出型の犯人は、ヴァンダインやクイーン、カーなどの先行作にもいなかったわけではないが、本作のように全く関係のない人間たちをつなげて一つの事件――物語に仕立て上げる犯人というのは、当時としてはかなり異質だったのではないだろうか。

 この犯人像の先に、利害関係なしに状況そのものを作り上げるタイプの悪役――伊藤計劃が言う所の世界精神型の悪役がいるという風に、現在の影響を考えることもできるだろう(実際の影響というのは犯人像よりも本作の犯罪の形だと思うが)。

 それはともかく、実のところこの作品、犯人を当てるのは割と簡単だったりする。私自身、本命を他の殺人でつないで連続殺人に見せかける、みたいなネタを大雑把に知っていたくらいで犯人は知らなかったのだが、ポワロがにおわせる犯人についての言動とこいつだったら犯人にふさわしいな、みたいな感覚で探すとそれっぽいのが見つかった。そして、ポワロ自身もエラリー的な物証推理というよりもどういう人間が犯人にふさわしいか、みたいな読者がするようなやり方で犯人を指摘する。

 この事件は遺産と女性目当ての事件一つを大きな狂人の犯罪に見せかけているのがキモなので、事件を個別に見ていくことで利害関係が発見され、同時に犯人が特定される。クリスティが巧妙なのは、作中で被害者の関係者たちをポワロを中心とした被害者チームとして形成し、犯人を追う側に犯人を組み入れることで読者をミスリードする点にある。

 そして、語りの使い方。本作はヘイスティングスが語り手となる作品だが、時々、彼の記述ではない、という断りが入る章があり、そこでアレクザンダー・ボナパート・カストという人物視点の章が挿入される。現代のサイコスリラーものを先取りしたような犯人のカットバック視点みたいなものを効果的に使い、また、人物名もクイーンが好きそうな言葉遊びめいたものを散りばめた偏執的な要素を漂わせて読者を翻弄する。

 このように被害者の関係者たちが一致団結して事件を追うという展開と怪しい人物のカットバックをABC殺人という事件構造に対置させる、その物語構造そのものがやはり個人的には見事だとおもった。

 あと、ダミーの「犯人」が判明してからも第二の事件に対してアリバイがある、という方向にもっていき、主眼を「アリバイ崩し」に読者を誘導している点も最初期の古典とは思えない誤誘導の巧妙さがあって、そこにも感心させられた。四件目の事件の「間違い殺人」とかも含めて物語展開が本当に良く考えこまれている。

 ただ、ミステリ的にはというか、解決の仕方には個人的には不満がないわけではない。先述したように、この作品のミステリの構造のキモというのは、大きな事件を作り上げることで個々の事件を読者から目をそらすことであり、そのためにクリスティは全力を傾けている。個々に注目されると利害関係が判明し、そこから犯人への疑惑が生じる。謎解きのレベルが読者とポワロで連動していて、作中のポワロもまた犯人が安全なのは、疑われないことにあるので、ひとたび疑惑が生じれば証拠を集めるのは簡単です、というセリフを述べ、証拠に基づく謎解きを行うというよりは、疑惑が生じたので捜査したら証拠がゾロゾロ出てきた、という風に物語をもってきて犯人による探偵への反論を封じている。

 そんなわけで、ロジック的な面白みは正直乏しいと言わざるを得ない。個人的にそこがちょっと不満ではあるものの、ミステリの構造や物語展開の仕方は、今でも楽しめるものであったことは確か。この作品からいろんな物語が生まれてきたんだなあという感慨と、しかしそれらと負けていない作品の持つ強靭さには本当に驚かされたのだった。

実はミッシングリンクではなかったりする

 最後に肝心なことを言うが、実はこれミッシンクリンク物じゃないよね……よくミッシングリンクといえばこれ、みたいに挙げられるし、解説で法月綸太郎ミッシングリンクの決定版って言ってたけど(ネタバレ解説ではミッシングリンク・テーマを逆手に取ったと言ってるので「決定版」というのもそれ込みで言っているとは思うが。本来の意味を越えて代名詞になってしまったとも言ってるし)、いやちげーじゃん! ってなった。まあ、未読の自分がそう思い込んでいた、ということなのだが。

 事件に「失われた環」があり、それを解明するのがミッシングリンクーー実はすべてがつながっていた、ということならば、この作品は全く逆で、つながりがありそうだったけど、全然なかったのだから。一つの本命の事件を隠すために他の関係ない事件を起こして狂人による連続殺人事件に仕立て上げる、というのが本作の全容であって、被害者たちに意外なつながりがあるのではなく、強制的につながりがあると見せかける、どっちかというとアンチ・ミッシングリンク物と言った方が正しい作品ではないだろうか。というか、「バラバラに見えた殺人の繋がり」と本作の「ABC殺人」というガワに過ぎないがインパクト抜群の要素が“リンク”してしまって、本来の根幹部とは逆のジャンルが生まれる――これもミステリの伝言ゲームというやつかと思うとなかなか面白いというか奇妙というか。

 法月綸太郎解説では、その「ABCパターン」についてやサイコ・スリラーへの影響の他に、「操り」を支えるためのABC殺人という分析が行われていて、そこからエラリーの『十日間の不思議』や『九尾の猫』が見えてくるエラリアンな書きっぷりがとても良かった。

 

 ちょっと愚痴※作品とはあんま関係ない話。

 霜月蒼『アガサクリスティー完全攻略』で、本格ミステリのレッテルがどうのこうの言っているが(読み返すごとに、この人の潜在的な対本格への妙な意識は本当にウザったい)、そもそもこの作品、個人的には本格ミステリというのは微妙な気がする。個人的な本格かどうかは、トリックの割り方や犯人特定ロジックの展開の楽しさでなんとなく測っているに過ぎないが、この作品は犯人を特定するロジックが名探偵を起用するには薄すぎると思う(ありていに言えばロジックの面白みが薄い)。とはいえ、それでも名探偵ポワロでなくてはならない事件なので、自分にとってはみごとな名探偵小説って感じだろうか。本格ミステリっぽい“現代的”なサスペンスでも全然いいと思うよ(てか、「本格」レッテルで押し込めてるみたいな書き方してから自分の領域に引っ張り込んでるのがヤなんだよな。「狭い本格」から、自分のところに引っ張り込めば広い、みたいなのが透けて見えるのが一番好きじゃない)。それから、解説の法月綸太郎の方も凡庸なサイコサスペンスをディスるなら普通に言えばいいのに(てか、わざわざ言う必要あるかそこで?)、勝手に巨匠の口を借りたイタコ芸でやるとかダサダサでしょ。

 

 

 

 

ミッシングリンクテーマお勧め

 最後の最後に、一見無関係の被害者に意外な共通点を見出す本来的な(?)ミッシングリンクテーマで、自分が印象的だったものをいくつか。

 

 飛鳥高『細い赤い糸』

 日本のミッシングリンクの古典として挙げられる一作。日本におけるジョン・ロードの『プレード街の殺人』枠みたいな感じ。被害者をつなぐ「細い赤い糸」をたどり、ある「悲劇」へと読者を導いていく。古典なので、多くの類似というか、ミステリ漫画とかでこの動機はよく使われていたりするので、読んでなくても知ってる枠かもしれない。

 

横溝正史悪魔の手毬唄

 この作品は「童謡殺人」というカテゴライズが強すぎて、そっちの代表作みたいに言われたりするが、実のところ童謡殺人は作品世界を強烈に支えてはいるが、ミステリ的には、あるトリックから時を経て運命的にあらわになる動機の部分――そのミッシングリンクこそがキモとなっていて、本作最大の悲劇もそこにある。むしろ国内におけるミッシングリンク物の代表作と言った方が正しいと思われる。

 

 倉知淳『壺中の天国』

 作中に度々登場する電波な怪文書がヤバイ。そして、その電波な文書がちゃんと手掛かりになっている。被害者の共通項については、言われてみればな所もありつつ、意外性というよりは、ア、ハイみたいになる気がしなくもないが、怪文書を中心にした手掛かりから街の中にある犯人の住処を特定していく推理はとてもスリリング。コテコテの本格というより、どことなく宮部みゆきの書くミステリのテイストに近い読み味で展開されていく作品。殺人シーンはシリアルキラーっぽい残虐性があるので、猫丸先輩とかを期待するとちょっと違う感じになるかもしれない。

 

ウィリアム・L・デアンドリア『ホッグ連続殺人』

 ミッシングリンクテーマと言えばこれ、という風に挙げられることも多く、著者の作品の中でも特大ホームランとか言われたりする作品。これはよくできているというか、この手できたか、というミステリ好きなら楽しめること間違いない(というと言い過ぎかもだが)。とにかく、まず一読をお勧めしたい。変にクセとかないし、多くの人が楽しめる作品だと思う。雪で覆われた村に突発した事件、毎回の犯行声明に残される“HOG”とは何を意味しているのか。『ABC殺人事件』と比べて読むのもいいだろう。

 

麻耶雄嵩まほろ市の殺人 秋 闇雲A子と憂鬱刑事』

 真幌市という架空の都市を共通舞台にした「幻想都市の四季」という競作企画で祥伝社文庫から出された中編作品の中の一つ。現在は合本版が出ている。

 真幌市を跳梁する連続殺人鬼「真幌キラー」。その被害者たちは何故か耳を焼かれ、そばには必ず何かが置かれている。犬のぬいぐるみ、闘牛の置物、角材……。ミステリ作家、闇雲A子は刑事の天城憂とともに事件を追うことになるが……。

 麻耶作品としては影が薄いものの、国内ミステリにおけるミッシングリンクテーマの思わぬ収穫物で、なかなかの快作。麻耶らしい奇怪なミッシングリンクインパクト大。何それ、と気を取られていると鋭いロジックで切り付けられ、それで終わらず粘りつくイヤーな場所に連れ出される。中編ながらも濃厚な麻耶雄嵩を体験でき、個人的にはイチ押しの一作。

 

エラリークイーン『九尾の猫』

 偏愛作。クイーンによる精神分析を取り混ぜた都市型探偵小説の決定版。探偵対殺人鬼という話をモダンな形で描き、「ABC」と並んで後のサイコサスペンスに影響を与えたと思われる一作。ミッシングリンクがそもそも強制的に何かをつなぐという、強迫観念的なものから成り立っているということを示して、即物的な利害とは離れた面をくっきりさせた、まさに『ABC殺人事件』とはコインの裏表と言っていい作品だろう。クイーンの中でもベスト級に好きな作品だ。

*1:『Xの悲劇』『Yの悲劇』(ともに1932年)『Zの悲劇』(1933年)