蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

G.K.チェスタトン『ブラウン神父の童心』

いくら自分の聖書を読んだところで、あらゆる他人の聖書を読んでみないかぎり、なんの役にも立たぬ―― 

                           「折れた剣」より

 

 ブラウン神父って、なんか読みにくいなあーというのも少しあり、旧訳で第三集の不信ぐらいまでしか読んでなくて、せっかく新訳出てるし、もう一度シリーズ制覇に挑戦してみようかな、と。それでまずは、この童心から(全作読めるようガンバロウ)。

 チェスタトンといえば、批判精神に基づく逆説的な推理でアクロバットを決めるドイルなんかと並ぶミステリ界における重鎮中の重鎮。そして、逆説的な推理の面白さもだが、何よりトリックの宝庫、そしてそのトリックやロジックが後世に与えた影響は計り知れない。アレも元ネタなの、みたいなものがバンバンでてくる。

 トリック第一主義的な時期に読んだので個人的にはめちゃ最高!――とはあんまりならず、そのころはより作りこんだトリックらしいトリック大好き人間だったので、ブラウン神父ものは、素うどんみたいな物足りなさと、またなんかもってまわった読みにくさを感じて有名作を中心に「勉強」的な感じで齧って通り過ぎた感がある。

 今回改めて読んで、その原点たる簡潔さと一編ごとの完結さ、そのあまりにも偉大な影響の大きさを以前より感じることができた。読むたびごとに、あらゆる本格ミステリの原点のような作品を内包しており、初読みの時よりも、それなりに他の作品を読んでから還ってきたことで、その偉大性をいやというほど実感することができた。

 

ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)

 

「青い十字架」

 怪盗とフランスきっての名探偵、そして奇妙な神父。まあ、表題とか、本の裏のあらすじとかでブラウン神父シリーズと銘打っている以上、ブラウン神父が探偵役というのはあらかじめわかっているが、ぼんやりした神父が実は鋭い名探偵――という趣向を盛り込んでいて、ある意味意外な名探偵物と言えなくもない。

 ミステリとしては、刑事ヴァランタンが追う怪盗フラウボウと、その中で浮上する奇妙な神父二人組のあちこちでの、奇妙なふるまいが軸となる。散りばめられた“なぜ”が次々に意味を持ち、意外な探偵対犯人の光景が浮かび上がるのは、第一作にふさわしい出来。

 また、この作品は、のちの日本の傑作短編に影響を与えている(というかネタ元)になっていることがうかがえ、その点でも要注目な一編と言っていいだろう。

「秘密の庭」

 被害者がいかにして庭に出入りしたのかという、一種の密室的な犯罪が描かれる。ブラウン神父の逆説的な言葉とともに、首切り事件に潜む”なぜ首を切ったか”という謎の解答とトリックの結びつきが見事な古典。犯人の造形も含め、この作品もまた、後世にかなり影響を与えた作品で、様々なヴァリエーションが生まれた原点的なものとしても見逃せない一作。

「奇妙な足音」

 ブラウン神父がホテルで遭遇した二つの奇妙な足音と、そのホテルで開かれていた金持ちたちの銀器盗難事件。それらには、どのような結びつきがあったのか。

 この作品も後世のトリックに影響を与えた作品だ。この作品が特徴的なのは、この作品においてさえ古典的なトリックに、ひとつのロジックを与えたことだろう。トリックの観方が、社会の観方にもなるというその方法論はかなり画期的だったと思われる。

「飛ぶ星」

 これまでの三話に登場した怪盗フラウボウが、その最後の事件として語るところから始まる事件。持ち主を次々と変える運命にあるダイヤモンドのことを「飛ぶ星」というネーミングセンスがいい。また、この話はミステリそのものというよりはブラウン神父におるフラウボウへの説法が印象に残る話だろう。アンチ・ルパンなところもあるのかもしれないが、神父による真摯な説得の弁が読む者の胸を打つ。

「見えない人」

 キター! もう後世の作家にどれだけ影響を与え、またどれだけ擦られたネタか。「見えない人テーマ」というジャンルまで作り上げたその原点も原点は、やはり、シンプルにして切れ味鋭い一編に仕上がっている。不可解な事件の魅力もだが、それを支えるのが、あれこれ仕掛けを弄すのではなく、ある意味私たちの日常に潜んでいる認識によって成り立っているというのが画期的だった。また、さりげない伏線というか、特に被害者が囲っていた機械仕掛けの執事や給仕といったギミックが、本作のトリックが支配する世界を暗示しているようでとてもよい。

 もちろん、そんなわけないだろ、突っ込む人はたくさんいる。実際にああいう証言をするかというのもだし、そもそも殺人が起こった時点であれが怪しいという風にならない方が変と言えば変なのだ。しかし、小説は言葉の世界であり、その言葉によって不可能を可能にすることができる。この作品はその典型ともいえる。言葉がロジックを作り、そのロジックが不可能を可能にする。その光景が自分の世界とリンクする瞬間があるからこそ、この作品は衝撃であり、また私がミステリを読み続ける理由でもあるのだ。

「イズレイル・ガウの誉れ」

 悪名高い名門貴族の最後の一人が失踪し、彼を埋葬したのではないかというただ一人の召使、イズレイル・ガウ。彼は主人を殺したのか、そして貴族の居城に残された不可解なものごと――蠟燭はあるのに燭台はない・飾りから外されむき出しになった宝石類・容れ物に入れられず積み上げられた嗅ぎ煙草・何かを分解したような金属片の跡――といったものは何を意味するのか。

 これもまた、チェスタトンの短編の中でも人気がある一作だろう。一つのルールに基づく行動は、その規則正しさゆえに、どこか歪んだ(ように見える)ものを生み出す。日本とかでは「狂人の論理」とか言われたりして「動機による何故」をミステリのメインにする一つの領域の源流と言っていいかもしれない。

 また、この短編は、古城や何か得体のしれない雰囲気、嵐の予感のような風景描写など、あのディクスン・カーも大好きそうな(まあ、カーにとってチェスタトンは師の一人だが)ゴシックホラー感満載で、そこもまた見事な一作。

「狂った形」

 この作品も奇妙な館、怪しいインド人に奇矯な主人、雷鳴轟き、雨が降り注ぐ中での死体発見とゴシックミステリな雰囲気が横溢している。雷鳴によって死者が書いたらしい文章が浮かび上がる場面など、カーおじさん歓喜な場面だ。

 この殺人に関するトリック自体は先例があるのだが、もうひとつの事件に関する「狂った形」の成立させ方と、その周辺の演出が見事。ちょっと思わせぶりな書き方をし過ぎて、説明不足感が出ているところが傷かもしれないが、雰囲気はばっちりである。

サラディン公の罪」

 この短編もまた素晴らしい。この作品に込められた犯罪テーマもまた、後世に続くもので、特にクイーンやその影響を受けた作品たちの源流に近いのではないか。

 ほとんど完全犯罪みたいにして終わり、犯人に対してブラウン神父は何もできず、ほとんど逃げ出すようにして現場を後にするしかない。

 序盤に言及された何気ないエピソードを犯人がひな型にして悪魔のような計略をめぐらしたという構成もなかなかいい。

「神の鉄槌」

 この作品も、カーとかの作品をはじめとしてトリックの傾向の源流と言っていいかもしれないが、注目したいのはトリックよりも上から見下ろすことで犯人の心に忍び込む悪魔――その心理と言っていいかもしれない。それは後の『第三の男』における観覧車のシーンや、『ラピュタ』のムスカのセリフとかにも見ることができる。

 ちょっと神父の言動が異教徒に対してその発言どうなのとか、犯人がある属性の人間に罪をかぶせようとすることを情け心みたいに言ったりするのは……という部分が目立つが、それも含めて人間に忍び込む他者への傲慢さが描かれている作品かもしれない。

「アポロの眼」

 太陽を信仰する新興宗教のもとで起きた殺人。この時代に犯罪の全体像が単線的なものではなく、複線的なものになっているのがさすが。シチュエーションと真相の結びつきも上手くできている。犯罪が起きた瞬間に犯人はもう分かっていた、というこれまたよくある名探偵ムーブをキメるブラウン神父と盛りだくさんである。

「折れた剣」

 これまた超超有名作。ミステリの歴史に影響与えまくりの一作。冒頭の問答からして完璧。それから、なぜ今まで慎重だったものが無謀を選び、寛大な理想主義者が残酷な報復に出たか、という逆説的ななぞかけもいい。

 この作品は散りばめられた神父のなぞかけから引き出される真相――そのとんでもない自己中心的な悪意もすごいが、この作品の真のすごさは、犯人のたくらみは実質的には失敗している点にある。自分の聖書しか見なかった犯人――他者を見落としていた犯人は、それゆえに粛清される。しかし、計画通りの目的を伴って生きることができなかったにもかかわらず、その目的が亡霊のようにして生き残り、真相を覆い隠している。ここが個人的には、今回読んでみてすごいと思ったところだ(たぶんチェスタトン好きにはいまさらな話かもしれないが)。擦られまくるトリックを模倣するだけならともかく、このトリックや状況によって図らずも生き残り続ける偽りの構造は、なかなかまねできないだろう。

 あと、「折れた剣」というものの手がかりかつ象徴的な使い方も好い(両義的で世界が反転する象徴)。これしかないタイトルだし、改めて読んで、本当に原点にして頂点みたいな作品なのだ。

「三つの凶器」

 事件現場にあった凶器がどれも被害者に使用されていないという、これまたクイーンやカーをはじめ後進の作家が挑戦しまくった魅力的な謎を生み出していて、ほんとにあなたは後世に影響及ぼしまくりだなチェスタトン

 ブラウン神父も事件冒頭から、見つかった死体が墜落死だとして、大きすぎて見えな凶器――それは大地、とこれまたミステリマニアが擦りまくるセリフを決めてきてエンジン全開である。

 真相も原点らしい一発転換で状況をひっくり返し、凶器の意味もひっくり返す手並みがあざやか。また、ある人物が真相を伏せてしまうことにより、事件が成立するという状況づくりも上手い。

 

 今回読み返してみて、どの短編もすごかったが、あえてベスト3を上げるとすると、「折れた剣」「サラディン公の罪」「三つの凶器」、次点で「秘密の庭」を挙げたい。

 

 

第二集の感想

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