蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

All You Need Is Love……/and the others:映画『インディージョーンズと運命のダイヤル』

 タイトルの英語が意味の通るものなのかは、わからない……

introduction

 伝説の考古学者にして冒険者、その第五作目にしておそらく最終作。

 このインディ・ジョーンズというシリーズは、自分にとって少し特別な思い入れがある。映画を観始めた最初期の頃の記憶と結びついているからだ。物心ついてテレビのロードショーを観始めた時、『E.T』や『ジョーズ』『ターミネータ2』と並んで「最後の聖戦」が記憶にあるわけだが、中でもインディのそれが特別なのは、おそらくもっと以前にそれを観たという記憶の彼方での出会いがある。

 それは現地で公開された「最後の聖戦」を親が観に行っていて、自分もつれていかれていたということを聞かされていた。大して英語は分からないにもかかわらず、現地の人たちが笑うところで笑い、映画を楽しむことができたと語る彼らの横に僕もいたらしい。おそらく、覚えていない最初の映画体験、それが僕にとってのインディー・ジョーンズなのだ。

 また、このシリーズによって考古学や歴史というものに興味を持つようになったことも自分にとって特別な部分だ。もちろん、この映画に描かれている「考古学」が実際のそれとはだいぶかけ離れたものであるということを知ることにはなるのだが、だからと言ってこの映画の輝きが失われるわけではなかった。それは僕にとっての大いなる扉だった。

 そして、時間は、時代はいつの間にかずいぶん流れ去ってしまった。降板したルーカスやスピルバーグをはじめとしたかつての製作者たちは老境に域に入り、インディ演じるハリソンフォードもなんともう80だ。僕も「最後の聖戦」を観た時の両親たちとあまり変わらない年齢になってしまった。

 「最後の聖戦」どころか「クリスタルスカル」から15年もたっていることに愕然とする。そして、幼いころのヒーローは残酷なまでに時の洗礼を受け、しかしなおスクリーンの中に立つ。僕は、その姿を見届けに映画館に行く。これは、自分にとってそういう映画になっていたのだ。

 

感想

 なんか書いてて泣けてきちゃうね。まあ、映画の出来は関係ないんだけどさ。

 冒頭の「レイダース」~「最後の聖戦」時代あたりのインディもといハリソンの姿、その再現は本当にすごくて、ある意味この映画の一番の奇跡というか、映画だからできる奇跡であり、それは聖櫃や聖杯なんかをしのぐものがある。だから、この映画の一番の部分はこの冒頭なんだとは思う。かつてのインディが画面を駆け回る、昔なら観れなかったはずのモノを観ている、それは映画という技術がもたらした一つの奇跡だ。それで十分なはずなのだ。

 もちろん、この冒頭を見せつけられたからこそ、やるせない思いを強くする人たちが出てくるのも当然だとは思う。冒頭列車アクションは「聖戦」と被るし、「聖戦」のサーカスの列車というチョイスやそれによって組み立てられた演出の数々と比べるとやはり物足りないものがある。まあ、それはともかく、一番はこの映画が、かつてのヒーローの老いを容赦なく見せつけてくるという点だろう。そういう意味ではヒーローの晩年を描いた傑作、『ローガン』のジェームズマンゴールドを監督にするというのは正しいのかもしれない。

 ただ、『ローガン』との違いは、ヒーローを受け継ぐべき次世代が、インディにはもはや存在しないということだ。この映画は、ある意味どん詰まりみたいな行き場のなさで満たされている。

 父も友人の多くもすでに亡く、さらに多くの知人や大切な人を失い、彼にはいよいよ過去しかなくなっていく。

 もともと、インディジョーンズというシリーズは、製作者のルーカスやスピルバーグが親しんだハガードの『ソロモン王の洞窟』を代表する秘境ものへのオマージュが盛り込まれた過去へのロマンから始まっている(ただ、魔宮の伝説の冒頭のシーンは007のオマージュだったり過去一辺倒というわけではない)。

 当時の人間が過去への郷愁として再現されたものではあったが、そこで力強いヒーローが生き生きと活躍する姿には、当時の製作者や観客が重ねられていた。

 だが、当時の人々もみな老いた。作品そのものも主要人物を入れ替えることもなく、老いていくという形を取らざるを得なくなっていた。同時代の『スターウォーズ』『ロッキー』『ターミネーター』といった作品も同じような問題を抱えつつも、主演を入れ替えたり、『ロッキー』→『クリード』のような“継承”を行い、シリーズの根幹を延命していった。

 しかし、インディジョーンズはそれができなかった。「クリスタルスカル」ではそれを試みようとしつつも至れなかった。主演俳優と主人公の名前が、分かちがたく強烈に刻印されすぎているのだからまあ、しょうがないといえばしょうがないのかもしれない。『ローガン』ではきっちり老いたるヒーローとその未来への継承を描き切ったジェームズ・マンゴールドだったが、今作ではただ、継承する者を失った老人として、彼は描かれてしまう。そして映画は、彼に残ったものはなにか? という方向にひたすら進んでいく。その残ったものにしがみつくインディーの姿は、ある意味「老い」がもたらすものとして誠実に描いているのかもしれないが、映画としてはひたすらいたたまれないものを感じてしまう。そして、しがみつこうとするものからも、引っぺがされて帰還させられてしまう彼。

 そして、最後に残ったもの、残してきた者と再会し、彼に残された最後の「愛」で映画は幕を閉じる。マジカル・ミステリー・ツアーで始まったこの映画は、All You Need is Loveで幕を閉じる、みたいな(後者は流れはしないけど、ほぼ同時代の音楽だ)。

 それはそれで、なかなか感じ入りはするし、年老いたヒーローにお疲れ様を言いたくはなる。ただ、インディに残っているものってそれだけなんだろうか。

 序盤、インディが退官前の授業をしている場面がある。かつて女生徒をはじめとした教え子たちにキラキラした目で見られていたのは昔、なんか古臭くなった講堂で生徒たちはひたすらだるそうにインディの講義を聞き流している。それはまあ、かつての作品との時の流れを印象付ける演出なんだろうけど、彼にはこれまでもたくさんの教え子たちがいたんじゃないのか。彼にあこがれ、彼と同じ考古学を志した者たちが。そして、それは画面のこちら側にもたくさんいるはずなのだ。

 ヘンリー・ウォルトンインディアナ・ジョーンズ・ジュニア、あなたにあこがれて考古学を志した人間がどれほどいたか、その恰好を真似て発掘に参加しちゃったりした学生や、たとえ考古学の道に進むことはなくても考古学に興味を持った多くの人間たちがいるじゃないか、と、そう僕は叫びたかったのだ。

 ところで、僕は『ロッキー・ザ・ファイナル』のストップモーションシーンがめちゃクソ好きなのだが、それは、ロッキーの手を握る誰とも知れない観客のその手が、これまでシリーズを観てきた自分自身と重なるからだ、あの観客は自分だ、そう重ね合わせることで鑑賞者のこれまでもまた、映画に重ね合わせる。そんな長寿シリーズだからこその構造。

 最後の最後で、かつての教え子たちが、彼にあこがれた多くの人が、あなたの後を追ってここにいる、そう言わせてくれる場面を作ってくれたって良かったんじゃないのか、なあ、ジェームズ・マンゴールド監督。

 彼は「ヒーロー」だけど、「先生」でもあるんだ。「失い続けるヒーロー」なんかじゃない――その側面をくみ取ってくれたら、世間的には傑作じゃなかろうが、僕としては最高の映画になった、そんな気がするのだ。