蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

小川洋子『沈黙博物館』

沈黙博物館 (ちくま文庫)

 

 「映画は語られることで映画になる」これは、押井守がよく言う言葉だ。ものごとは、それそのものというよりは、誰かによって語られることで姿が見えるようになる。そういえば、『同志少女よ、敵を撃て』でも押井の言葉を思い出すような読書体験をした。「同志少女」では「語る」ということが、作品の根幹をなしていて、主人公によって死んだ人間が語られることで、その死者は戦争における無数の死者という中から、主人公の語る人間として掬い上げられる。語ること、語られることで死者はその人という形を登場人物の中で浮かび上がらせる。もちろん、読者の中にも。

 だが、語られ得るもの、それは実際のところ非常に限られたものである。語られる者の裏側には、語られなかった者たちがひしめいている。

 この作品は、死者を語る作品だ。しかし、あくまでその死者を語る者たちに焦点を当て、語られる死者たちは、あくまでその形見でしか描かれることはない。彼らは沈黙したままだ。

 登場人物たちは博物館を作ろうとする老婆、その養女、そして老婆に雇われることになる技師の三人が主な人物として物語は進んでいく。

 技師は博物館を作るために、まずは町の死者の形見を集めることを老婆から命じられる。時に不法侵入まがいのことをし、窃盗するようにして形見を持ち出すことさえある。そして技師が集めてきた形見を前に老婆はイタコのようにして技師に語る。しかし、この語りのディテールは読者に開示されることはない。

 そもそも、形見の持ち主をはじめ、登場人物たちは名前というディテールすら開示されない。技師、老婆、少女、庭師、といった固有名詞を与えられているだけだ。

 内側を語られることなく、ラベリングをするようにした形見を博物品として淡々と陳列していくなかで、町では広場で爆弾が炸裂したり、連続殺人犯が徘徊したりとなかなかのっぴきならない事態が続発していくわけだが、それらの出来事もまた、動機などの「内側」のディテールは最後まで空白のままだ。

 現れているモノに対して、この世は、言葉にならないこと、語りえないことで満ちている、この小説はその“沈黙”を描こうとしているのかもしれない。

 解説では、作中に登場する“技師”が所持する『アンネの日記』から、ホロコースト的なものが込められているのではないかという指摘もされている。名前や遺品だけになった死者たち。いや、それすらもなく、忘れ去られた人々の群れ。語られたものはわずかであり、膨大な沈黙が歴史という地層の中にうずもれていく。

 語られたものも、聞くものがいなければやがて“沈黙”へと還る。技師に訪れる最後に暗示されるものが象徴するように、語ろうとする者もいずれは沈黙の側へと渡る。

 やがて誰かが語ることもない残されたカタチだけのもの――その沈黙を、じっと見つめる。これは、そんな著者の思いが込められた小説なのかもしれない。

 

 ……なんかうまく感想にならない。なかなか言葉にするのが難しい。