蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 読書に飽きた時とか、なに読もうか迷ってる時、そして、何より何をどういうふうに書いたらいいのか迷った時、僕は大抵、伊藤計劃の映画時評集や伊藤計劃記録を読み返す。なので、彼の書いた小説よりも読み返している。

 なんというか、すごく好きなのだ。たぶん、その語り口というやつが。そして、豊富な知識とそれを操って、映画をはじめとするフィクションから引き出される視点の面白さ。自分もそういう文章を書きたい、という不遜な思いが、自分がこういう感想文を書きつらねている一つの原動力であることは間違いない。もちろん、それは似ても似つかないものだが。ただ、こういうふうに文章を書いていきたいと思った大きなきっかけだったのは確かだ。

 伊藤計劃の名前を知ったのはたぶんtwitterのTLからだと思う。そしてその名をはっきりと意識したのは『虐殺器官』の文庫が出るころだった。なんで憶えているかというと、バイトに行く前に本屋に寄って、発売日に平積みされていたのを確認し、バイトが終わって自分がレジに持って行くころには、ほとんどそれが消えていたのを憶えているからだ。漫画はともかく、自分のいく本屋で平積みの本が一日で崩れたのを見ることはそうそうなかったのでよく覚えている。

 『虐殺器官』の文庫が出たのは2010年、つまり、自分がその名と作品を意識した時、著者はもう亡くなっていた。残された数少ないその著作を辿り、そして、僕は著者のブログの文章にたどり着く。

 彼のブログをはじめとする文章群、そこは言ってみれば、サブカルチャーのオモチャ箱のようなものだった。それも他人のオモチャ箱にもかかわらずめっぽう面白いという奇跡みたいな場所だったのだ。それまでミステリ一辺倒で、自分の知らないSFの世界や映画の世界。特に映画は自分が観てきたはずのものに、こんなにも豊かなものがあったのか、自分がいかに、ただただ見て通りすぎていたのかを思い知らされることの連続だった。僕は、彼の文章で、フィクションの語り方というものを意識し出したように思う。それまで、あれが良かったこれが気に入らないということをノートに書き連ねるくらいだった。そこから、なんとかして、自分が何を受け取ったのか、フィクションを通過することによって、なにが自分の中で生じたのか、というのを書き留めたくなったのだ。それが上手く行ってるかどうかはともかく。いやまあ、結局のところ失敗の連続だなのだが。

 そして、まだ一応のところ、こんな益体のない文章を書き続けている。

 初めて著作に触れた2010年からもう2021年。彼が亡くなってから十年以上が経過しているが、彼の作品がその存在を色濃くするような現実がいよいよ強まっていることが続いている。この世界を見ながら、果たして彼はどんな言葉を紡いだのだろう、どんなフィクションを書き続けたのだろう。もう読むこともできない彼の言葉を思いながら、彼が見ることができなかった世界の中で、自分は何を書き留めていられるだろう、そんなことを思い、またその“言葉”を求めて、ふたたび、それらの本を手に取っている。

 

伊藤計劃記録 Ⅰ (ハヤカワ文庫JA)

伊藤計劃記録 Ⅰ (ハヤカワ文庫JA)