蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

円弧の閉じる一瞬が永遠となる:映画『Arc アーク』

Impression

 ケンリュウの短編「円弧」の映画化ということですが、読んだことあるはずなのに全く忘れていました。なので、かなり新鮮に楽しめたと思う。すごくいい映画でした。久しぶりに実写の邦画を観たし、ここまでいい映画を観たのも久しぶりな気がしましたよ。

 本作は一応、不老というテーマを扱ったSF映画なのですが、SFらしいガジェットや未来的な風景などの視覚効果はほとんどなかったりします。しかし、それでも私たちのいる今とは違う世界を描き出しているのです。現実の風景をそのまま使いながら、SFを描く――なんというか、ゴダールの『アルファヴィル』みたいな映画の末裔、そんな感触のする映画でした。

 全体的になんとなく前衛的な雰囲気はある作品ですが、とはいえ後半の仕掛けや展開なども含め、実は結構分かりやすい映画だと思いましたね。とっつきやすくもある。

 演者については、主演の芳根京子寺島しのぶも素晴らしいのですが、自分は何故か最後の最後にちょっと出てくる倍賞千恵子に目を奪われました。彼女のあの瞬間のためにこの映画を観たんじゃないのか、そんな感覚すら自分は受けたのでした。

 まあ、それはともかく、原作を読んでいてもいなくても、観て欲しい映画です。


 あらすじ

 女が赤ん坊を見ている。自分が生んだ赤ん坊を。そして、これから彼女が捨てることになる赤ん坊を。

 17歳の時、リナは自分の赤子を捨て、その子供から逃げるようにしてあてどなく彷徨い始める。

 19歳の時、彼女は師となる女性と彼女がたずさわる技術、プラスティネーションと出会う。それは、死を固定する技術。死者を残された者たちのために生きていたままの姿で留めおく仕事の日々のなかで、リナは師であるエマの弟、天音と出会う。天音はボディ・ワークス社のプラスティネーション技術の延長で人類は老いを克服できると説くき、自分は近くそれを成し遂げたいと告げる。リナはそれを本気にはしなかったが、彼に惹かれるものを感じていた。

 そして30の時、ボディ・ワークス社の顔として、エマの技術を引き継ぎ、死者に生の形を与え続けていたリナは、人類で最初の不老者となる。天音はついに不老の技術の完成をさせ、リナにはその最初の被験者になったのだ。天音とともに、“不老”という船に乗り、彼と永遠の旅に出る。

 そのはずだった。

 

感想   ネタバレ前提でいくのでそのつもりで

 

 生、そして死。寄せては返す波のようなその狭間の中で、人は生きている。主人公のリナは、赤子の生のまばゆさから逃れるようにして、死者たちの時を止める場所にたどり着く。やがて、彼女は死者たちに施していたその技術により、時を止める。ある意味、彼女は生から死へと渡る。そして、彼女は最終的に再び老いることを選ぶことで生の場へと還ってくる。

 全編通して死、そして老いが彼女の周りに配置されている。そういえば、プラスティネーションされた遺体が当たり前のように配置され、リナだけではなく、この世界の人間たちはそれに特に怖れを抱かない。それが、プラスティネーションというものがごく当たり前にある世界であり、見ている観客たちとは違う世界を印象付けている。そういう、説明しないけど、人や状況で映画の世界を見せてくるやり方はとても好きだ。

 時を止めるまで、若い時は死が隣にあり、時を止めてからは死に加え老いが、彼女の隣にある。夫が残した老人たちの島――不老処置を様々な理由で受けられなかった人々に囲まれながら、彼女は娘を育てる。しかし、彼女の時間は止まったままだ。それは、その島のパートの画面を白黒にすることで、よりくっきりと示される。夫が死んでから、恐らく彼女は生きる意味を見失っている。

 そこで、彼女が出会うのは捨てたはずの彼女の息子だ。彼女は老いた息子とその妻を通し、死、老、そして生に向かい合うことになる。このモノクロの島のシーンは、彼女の息子との再会を除いてほとんどオリジナルだ。しかし、このモノクロの島にあふれる老いが、そして老いた自分の似姿としての息子の妻という存在が、彼女に大きな影響を与える。ある意味、息子の妻はエマに次ぐ第二の師だ。彼女の満たされた死によって、このモノクロのパートは終わる。

 そして、かつてリナの息子が島で撮った写真が現像され、暗室から外に持ち出されると同時に画面の色彩が復活する。そのシームレスな演出はなかなか出色の演出だ。浜辺では老いることを決めたリナ、そして彼女の娘と孫がいる。

 子供から逃げ出した17歳のリナは浜辺で太陽に向かって手を伸ばす。何かをつかみ取ろうとするかのように。そして、132歳の彼女も再び、浜辺で手を伸ばし、今度は力づよく握りしめる。つかみ取った何かを飲み干すように彼女はこぶしを口元に、喉に這わせる。そして、この映画はその円環を閉じる。前述したとおり、個人的にはこのシーンの倍賞千恵子が強く印象に残っていて、その老いながらも強く光り輝くような瞬間を焼き付けるために、この映画は撮られたんじゃないか、そう思えるほど私のなかにその姿が今なおとどまっている。それこそ永遠のように。

 はじまりと終わり。それがあって円が、一つの個が閉じる。これは、そういう映画だ。

 メタな話になるが、いま現在我々は老いて死ぬ。そうれはもうどうあがいても恐らくそうなる。私はフィクションにありがちな、不老不死は歪んだ願望であり、死があるから生があるというような定型に与しはしないし、この映画も特にそういう定型めいた、死を額縁とした生の輝きをことさら訴えたりはしない。ただ、原作やこの映画は、永遠の命を生きる人間ではなく、そうではない人間たち――私たちに寄り添い、生とは何かを問うものとなっている。

 リナたちの子や孫はリナたちがプラスティネーションを当たり前のようにしていたように、不老を当たり前のものとして、それを前提とした生を形作っていくのだろう。ただ、リナや私たちはそれができないだけだ。この映画は、物語は、そういう神話の中に生きざるを得ない人々――人類の過渡期を描いたものでもある。 死が生に意味を与える――それは、作中でいわれるように神話であり、そして、人間が不死の側へと渡ろうとする過渡期の中で必要とされる神話なのだろう。

 今はまだ、円弧が閉じる、その一瞬の永遠が私たちには必要なのだ。

 

原作との違いについて

 この映画は、後半部に出てくるモノクロパートにおける、リナの夫が残した天音の島が重要な舞台となるが、これは映画オリジナルの部分だ。原作は片田舎の島(夫が残したとかではない)で第二の夫となる人物と出会ったり、捨てた息子との和解も太陽の下でどこか光を感じさせる場面で行われる。なんというか、原作にあった光のような男性性が映画では削られている。そして、原作には出てこない息子の妻が、映画ではフューチャーされる。そういえば、彼女の師匠であるエマが彼女のパートナーであった女性をプラスティネーションしていて、それとどこか心中を予感するような場面をオリジナルでいれていたり、また原作の息子は満たされた死をリナの前に見せるが、映画でそれは雪降る中で生を終える彼の妻になり、映画で息子は海に還るように行方不明になる。

 この映画はなんとなくだが、女性たちの物語として組み直されているのも一つの特徴のように感じた。

 

 あと、似たようなテーマを扱った施川ユウキ『銀河の死なない子供たちへ』も面白いと思うので、未読ならぜひ読んで欲しい。

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