蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

ディック・フランシス『度胸』

度胸

 

アート・マシューズが、ダンスタブル競馬場の下見所の中央で、一発の銃声とともに、あたりに血を飛び散らせて自殺を遂げた。

 著者の第二作。1965年出版。

 いきなりパドックで騎手が自殺するという衝撃の展開から幕を開け、まずは掴みはバッチリである。そして前回の『本命』でキャラが薄いとか言ってたら、主人公は今回も騎手だが、なんと両親も伯父もいとこも音楽家という音楽家一族のはぐれ者という強烈な設定をお出しされたら降参するしかない(しかもこの設定がただ奇を衒ったものだけではなく、きちんと物語的に意味があるのもいい)。さらに、主人公は恋人が金持ちの伯爵にあっさり流れていったばかり。とはいえ、実のところ本心では年上の従姉に恋心を抱いていて(それを察せられて捨てられた)、しかし彼女からはあしらわれてて、その従姉の男性関係にやきもきしてたりと、前回に比べると主人公の描写が妙に凝っていてそれだけで楽しい。

 全体的に登場人物の精彩がグレードアップしていて、主人公&ヒロインだけでなく、主人公まわりの騎手や調教師たちもくっきりとしているし、なにより犯人の造形が素晴らしい。主人公と対になるような犯人の姿とその対決がこの物語にメインどころとしてしっかりとした芯となっている。

 エンタメ度も前作よりはるかにパワーアップしていて、まず、大手騎手から敬遠された馬をまあまあ、上手く乗りこなして無難な順位につけるくらいの扱いだった主人公がトップ騎手になっていく過程自体が面白いし、さらにそこから急転直下、なんと二十八連続の最下位という不可解な事態に陥ってしまう。そのきっかけは直前に起きた落馬事故なのではないか、彼はそれによって“度胸”がなくなったのではないか、そんな噂も流れ、主人公はやがて騎乗を次々と拒否される憂き目に。

 この急転直下のどん底と、そこから這い上がるための“調査”そして犯人からの急襲、ピンチを脱してからの復讐と、エンタメの教科書的な流れがサスペンスフルに描かれ、魅力的なヒロインとのロマンスもきっちり絡め、すべてが前作を凌駕する勢い。

 ミステリ要素としては、主人公に降りかかる二十八連敗という不可解な現象は、割とあっさり目で結構単純な落ちの付き方なのだが、主人公が聞き込みをする人間たちがみな嬉々として話すことと犯人の設定が上手くかみ合っていて、証言から浮かぶそのくっきり感と意外性がいい感じに演出されている。(以下ちょっとネタバレにより反転: 冒頭の自殺事件もきちんと回収されつつ、犯人によって騎手たちを陥れる恐ろしい蟻地獄のような“場”が形成されていた、という真相もなかなか良く、実のところこの部分がこの作品の優れた部分のように思われる。

 そして、最後の幕切れもいい。犯人を憎みつつも、どこか自分と近しい存在と認めながらそれを見送ってくいく寂寥感流れる、犯人を想うようなラスト。やはりこの作品は犯人の造形がいい。

 正直、『本命』を読んだ時は大丈夫かなあ、と早くも不安に思ってたりもしたが、第二作目にして、ここまで高品質のエンタメサスペンスを繰り出されるとやはり先も読んでいかねばなるまい、そう思わされるのに十分な作品だった。

 

 

 

 

 と は い え、この作品、内容は申し分ない。しかし、だ。私は電書(kindle)で本書を読んだのだが、あまりにも活字の表記ミスが多く、特に濁点・半濁点が頻繁に抜ける。人物名のケンプロアとピーターがしょっちゅうケンフロア、ヒーターになるし、「のどがつまれば」が「のどがっまれば」と「つ」が小さくなったりもあったし、「ロープ」が「ローブ」もあったし……。一番ひどいのは「口に涙がうかんでいた」ってなんだよ、「目」じゃないの?(いいシーンなのに)。おまけに謎の空行もあったりで、さすがにあんまりな感じすぎて、版元に対して電書にしたらしっぱなしでロクに確認してないんじゃないか、といういい加減さを疑う。それともこれは、kindle側の問題なのか? とにかく、Amazon・ハヤカワは、曲がりなりにも売り物なんだからしっかりしてほしい。電子化自体はありがたいが、さすがに酷い。早急に対応してほしいところ。