蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 先日(といっても結構前だが)、麻耶雄高の『夏と冬の奏鳴曲』が装いも新たに完全改訂版として復刊された。この作品、本格としては異色または異様な作品ひしめく麻耶作品のなかでも、ひときわ異彩を放つ作品であり、一部本格ファンの中には、魅せられたように語る人々も多く、ミステリが何故か特権的に占有している「奇書」という領域の『匣の中の失楽』に次ぐ第五の奇書として挙げる人もいる。まあとにかく、「麻耶雄高」という作家の独自性、そのエッセンスが極まった形で味わえる作品ということだ。

 私がこの作品を初めて読んだのは10年以上昔になる。当時の記憶はあいまいになりつつあるので、この機に自分の『夏と冬の奏鳴曲』――以下「夏冬」および麻耶雄高という作家に遭遇した覚書を、一本格ファンとして書き留めておきたい。

 私は「夏冬」や麻耶雄高にリアルタイムで遭遇したわけではなく、時間としてはデビュー後しばらく経ってから触れることになった。新本格を追い始め、雑誌や評論家やムック、立ち読みした解説などから、断片的に、いわゆる端正な本格というよりも、それに対するアンチを企てるもの、という認識が形成され、少し敬遠していた面もある。とりあえず、問題作といわれていたデビュー作、『翼ある闇』から手に取ったのだった。

 当時の自分としては、雰囲気をそれなりに楽しんだとは思うが、見立てを含む内輪感で包まれた中、いかにもな本格要素の名探偵やその推理や密室などについて妙に関節を外してくる感覚に戸惑うというか、端的に言って、なんかヘンな感じ……という感想だったと思う。そういうわけで、麻耶作品について個人的にはどこか変な作品を書く人というイメージで固まった。そして、そのままなんだかわからないうちに「夏冬」や『鴉』『痾』『あいにくの雨で』『木製の王子』などを読んでいくことになる。

 さて、『翼ある闇』の後に『夏と冬の奏鳴曲』に何となく取り掛かったのだが、前作と打って変わって、どこか静かな展開で少し戸惑った。孤島に足跡のない殺人と、今作もいかにもな本格ミステリ要素を看板にしてはいるが、あくまで一人の一般人を視点に、なにか奇妙な事態が進行しているような気配がしつつも、展開は淡々としている。だが、どこか、なにかがおかしいという雰囲気のなか、最後の最後で前作以上のカタストロフが訪れる。とはいえ、初読時は映画のところから衝撃を受けたものの、事件の真相解明を追っていたため、最後のメルカトル鮎の言葉を含め、すかされた感じでぼんやり感に包まれたことも事実だった。基本的に私は本格ミステリのトリックや真相の面白さを中心に本格ミステリを読んでいた人間だったので、この作品の衝撃を衝撃と受け取ったのは二回目以降になる。再読することで、この作品は『虚無への供物』同様、事件そのものではなく、事件を取り巻く世界が登場人物個人や読者に襲い掛かってくる作品であることに気がついたからだ。

 この作品は事件に遭遇した人間がそれに立ち向かおうとするところで、重大な選択にさらされ、そこで人間性を試されることになる。ミステリ的な要素の集積が描く事件――それが個人のよりどころを圧壊する瞬間。『虚無への供物』は社会性によってより広範囲に広げられた人間性が読者を見つめていたが、夏冬はよりミニマムな個人的人間性が読者を見返してくる。『虚無への供物』が「告発」なら、この作品は「内省」のようにして、主人公の選択が読者にカタストロフの穴を開ける。文字通り、それは選択したものに見つめられことによって。私は、再読時は特にそれが恐ろしかった。彼女に見つめられる――その瞳の裏側を、烏有の決断を幻視して恐ろしかったのだ。自分にとって「夏冬」というのはそういう作品なのだ。

 まあ、だから、私は麻耶雄高のその後次第に見せつけてくるようなミステリ的な技術面にというより、そういうところに魅せられたといっていい。

 「夏冬」以降、麻耶の長編――個人的には『痾』『鴉』『あいにくの雨で』あたりが好みだったりする。それはやはり本格ミステリ的な事件に遭遇した個人が、その事件の解決によって、決定的な瞬間を刻まれ、事件とそれを取り巻く世界そのものが、その個人と読者を置いて遠ざかっていくような感覚があるからだろう。登場人物たちがもがきながら振り回すロジックもまた、世界を律することはできず、むしろそれを起点に世界の歪みを目の当たりにしてしまう。論理を足掛かりに異界の扉が開き、立ち尽くすしかないその感覚が、私が麻耶雄高に求めたものだったような気がする。

 一方で麻耶は短編などでは長編以上に精緻かつ実験的なアプローチを繰り返し、その精緻なロジックを『蛍』『隻眼の少女』や『神様ゲーム』などの長編にも持ち込むことになる。短編でもそうだがそこでは、厳密なゲーム空間でありながら、だからこそ異様な、ある意味厳密なロジックですべてが明らかになるという不自然性に合わせて世界が変質する関係性を描き続けてもいる。

 

 ところで、個人的な思い入れというか、読んでいた時の状況を強く覚えているのは、『蛍』が一番だった。あれは夏の日だった。予備校の近くの公園で読んでいたのだが、オカルトマニアの大学生サークルが殺人に遭遇するいたってオーソドックスなクローズドサークルだなと思っていたら、あの衝撃なトリック。そして謎が解けた直後になだれ込む後味の悪いラスト。じりじり照り付ける光とセミの鳴き声が響く中、蚊にかまれた足の痒さを意識しつつ、あのタカタカタンという響きが頭の中にこだましていたことをよく覚えている。

 まあ、そんな感じ。今回久しぶりに自分の前に現れた夏冬は、完全改訂版ということで、旧版にかなり細かく手を入れているようである。十年以上ぶりに訪れる和音島ははたしてまたどんな感慨を自分にもたらすのか、再読が今から楽しみである。

 最後に、麻耶のミステリは本格の要素に満ちていながらも、どこか冷え冷えとした手触りがつきまとう。本格ミステリのガジェットを積み上げることで、本格への祝祭的な喝采を叫ぶのとはなにか違う。祝祭でありながらどこか葬列のような気がしてしまうのは、この作品の冒頭、延々と続く鯨幕のイメージが、麻耶作品のイメージとして自分に刻印されてしまったからなのかもしれない。