蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

われわれと同じ「怪獣」へ

 先日21日の二瓶正也氏の訃報を受け、「故郷は地球」を観返したいなあ、という思いが湧きあがり、DVD借りてきて観返してみた。

 ※ネタバレ前提でこの作品について書いていくのでそのつもりでお願いします。

 

 ウルトラマン第23話「故郷は地球」といえば、『ウルトラマン』の中ではもちろん、これまでのウルトラシリーズの中でも恐らく異色作という位置づけに異論はないだろう。

 ストーリーはよく知られていると思うが、ざっくり言ってしまえば、怪獣だと思っていたものが実は宇宙開発競争の中で犠牲になった人間であり、それを科学特捜隊が「怪獣」として秘密裏に始末しろという指令を受ける話である。そして、ウルトラマンが人間を殺す話でもある。


 日本で開かれる国際平和会議が迫るなか起こっていた、謎の要人殺害事件。それが「平和の妨害」から一転して、国に裏切られた個人の復讐劇として、そのグロテスクな相貌を表す――。その真相が明らかになるのが、夜のなか、ライトを背にした科特隊のシルエットが浮かぶ場面という構成や演出もすごい。意気揚々と平和を妨害する宇宙人をやっつける、と不自然なくらいにはしゃいでいた二瓶氏演じるイデが、事実を聞いてジャミラを殺すことをやめると武器を地面にたたきつけるも、結局、科特隊はジャミラを攻撃し、ハヤタはウルトラマンに変身してジャミラを殺す(その前の同じ監督回で、「ウルトラマンは光の国のヒーロー」なのだとナレーションで言わせているのが、なんかよけいヒドイ。毎週見ていた子供たちはどう思ったんだろうか)。


 あまりにも普段のウルトラマンとは違う悲劇的なエピソードであり、特に視聴者たる子供たちに影響を与えたのは、敵だと思っていたものが、実は自分たちと同じ人間だったという要素だろう。これを刻まれた幼き創作者たちが、のちにそのモチーフを繰り返しているのは当然といえば当然のことかもしれない。「敵」が実は自分たちと同じである、という一つのフィクションにおけるパターンを、初めて子供番組でここまで広範囲に膾炙させた作品を、私は他に知らない(たぶん、探せばあるのかもしれないが、ここまではっきりと現在まで生き残っている作品としてはこの作品なのではないかと思う)。

 そして、やはり忘れがたいのが、最後の墓碑――そこに刻まれた欺瞞を糾弾するイデとそのシルエットだろう。黒く塗りつぶされたように、逆光になった彼の表情をうかがうことはできない。「故郷は地球」といえばこのシーンが思い浮かぶ人は多いだろうし、私もその一人だ。

 とはいえ、今回見返してそれ以上印象深かったのは、それとは違うシーンだった。それは、国旗のワンカットだった。そもそもこの「故郷は地球」において、国際平和会議が開かれ、たくさんのポールに国旗が翻る場面は、どことなく変な雰囲気を漂わせている。国旗は極端に下からのアングルで撮られ、かなり仰ぎ見る感じであり、どこか抑圧的な感じがする。それは、国際平和というこれからの国家が目指す前向きで明るい未来という雰囲気ではなく、明らかに国家が持つ権力を誇示しているように見える。そして、この国旗のカットが衝撃的なのは、はるかに巨大なはずの怪獣を見下ろすシーンになっているからだ。人工降雨弾を打たれ、弱点の水でのたうち回る「怪獣」が見上げる先、そこに傲然と「彼」を見下ろす国旗が翻っている。国に踏みつけにされ、「名もなき戦士」として葬り去られる。子供向け特撮の怪獣と国旗のわずか二カットだけで、ここまで見事に国家の残酷さをとらえた場面はあっただろうか。

 だからこそ、国家に踏みにじられるジャミラという存在の本質が気になる。それが象徴するのは私たちと同じ人間であるということだけだろうか。というか、「私たちと同じ人間」とは、どういうことを指しているのだろうか。

 ところで、私はこのエピソードの国家について、大事なところが伝わっていないのではないかという気がしている。それは、ジャミラの「故国」についてだ。ジャミラの故国について、ジャミラという名前とか、インサートされる宇宙飛行士の写真とか、宇宙開発競争というもろもろの要素で、作中の某国というものが、限定的な切り離され方をしているように見受けられる場面をちょくちょく見る。それは、無意識に「大国のエゴ」というそれこそ無責任な言葉に変換されて、ジャミラは「私たち」から巧妙に切り離されてしまう。それは、この作品にとっては悲劇だったように私には思える。
では、「某国」そして「ジャミラ」とは何だったんだろうか。

 

 ジャミラは悲劇の「怪獣」として「かわいそう」と言われる一方で、要人を殺したり村を焼き払っていることを指摘されることがある。ジャミラは加害性を含んでいるという指摘だ。ジャミラは国に見捨てられた被害者の部分を持ちつつも、加害者の部分を持つ。私は、その加害性についてもなにかチラ見えしているような気がしている。

 ところで、また話は少しそれるが、前々から気になっているところがある。それは、ジャミラが農村を襲うシーンなのだが、なんだかいやに人も建物も古臭いのだ。予算の都合とか、放送当時の一九六六年の農村はこんな感じだったのかもしれないが、『ウルトラマン』は基本的に放送当時より未来という雰囲気作りをしていたし、映されるものも高度成長期にふさわしい物や服装の人々が多かった。このエピソードの2つ前のケムラーが出てくる回では、いかにもな戦後の若者たちがハイキングしている姿があるし、ひとつ前の同じ実相寺監督回である「地上破壊工作」は近代的なビルをはじめ未来的な絵作りがなされている。「故郷は地球」の次の話もまた、未来的な海底基地が舞台だ。

 そういうのを見ていると、家財道具一式荷車に乗せたりして運ぶ疎開者然とした避難民(一九五四年の『ゴジラ』で見たみたいな)の描写がなんだか異色というか、そこまで描かれなかった部分のような気がして妙に浮き上がる。この話では、ジャミラの墓標には一九九三年の記述があるため、それを考えるとよけいこの古さは異様な気がする。茅葺のような家から焼きだされ、逃げ惑う人々。その人々は田舎の人というより、いってしまえば、なんだか過去の人という感触がする。

 そこでジャミラの加害性がなんなのか、なんとなく浮きあがらないだろうか。国家によって差し向けられた場所で「怪獣」と化し、「人間らしい心を失った」のは誰であったのか。ああいう家々を焼き払ったのは誰であったのか。そして、泥の中、のたうち回りながら死んでいったのは誰であったのか。ジャミラが内包する、「私たちと同じ人間」とは、そういうことを含んでいるのではないかと、私には思えてならない。

 ジャミラの墓碑の前でたたずむイデ。その頭上には複数の国旗が重く垂れ込めるように翻っている。立ち止まるイデに隊員たちはしつこく彼の名前を呼ぶが、彼は応えない。ただ、ジャミラの悲痛なうめき声が応えるようにして、物語は終わる。

 そのジャミラのうめき声を今まで以上に身近なものとして聞きながら、二瓶氏の去った今年の夏――七六回目のそれが、また、終わろうとしている