蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

シリーズの終り方:『007 no time to die』

 ダニエル・クレイグによる007の最終作。シリーズの終わりは、第一作のカジノロワイヤルから続いた物語、そしてヒーローとしてのジェームズ・ボンドに決着を見せた作品となっていました。なかなか良かったですね。

 ※ネタバレ前提で語っていきますので、そのつもりで。ついでにノーランバットマンのラストについても示唆してますので注意。

 

 

 2006年の『カジノロワイヤル』から始まった新生ボンドは、リアル路線でのリブートとして印象的だが、同時期に2005年のノーランによる『バットマンビギンズ』から始まる、いわゆるノーランバットマン三部作があり、この二作品はなかなか近似的な部分があるのだが、その終わり方については、ほとんど正反対のような結末になっているのも印象深いところがある。

 ところで、007シリーズというのは、スーパーマンバットマン、その他のヒーローのように二つの名前を持っている。007=ジェームズ・ボンド。しかし、一般的なヒーローと違うのは、ヒーローとしての名前と本名がほとんど同列であり、下手をすれば“本名”の「ジェーム・ズボンド」という名前の方が前に出るきらいがあるほどだったりする。実際、『no time to die』では、別の007が出てくるし、それは番号にすぎないと言われてしまう。すでに、“ジェームズ・ボンド”のほうが、ヒーローの名前なのだ。だからこそ、本シリーズはノーランのバットマンと対照的な結末を迎えた――そう言ってもいいような気が自分はしたのだ。

 バットマンブルース・ウェインの場合、「ブルース・ウェイン」はヒーローの名前ではない。そして、バットマンというヒーローの名前は本名を名乗るブルースの仮面として機能している。

 基本的に、ヒーローは二つの名前を使いこなすものだ。すなわち、ヒーローとしての名前と、日常を生きるための名前と。ピーター・パーカーやクラーク・ケントというのは本名という以上に、スパーダーマンやスーパーマンが日常に還るための名前でもある。もちろん、バットマンにはブルース・ウェインという名前が。そして、ノーラン三部作において、「バットマン」はブルース・ウェインとして日常に帰還する。しかし、007の特異性というか、特異な存在になってしまったのは、ジェームズ・ボンドが日常に還るための名前ではなくなってしまっている点にある、と思う。007もジェームズ・ボンドもスパイというヒーローに彼を括り付ける名前でしかなく、彼はスパイという「ヒーロー」から帰還するべき名前を、つまりは日常を持たないヒーローと化しているのだ。というか、もうほとんど「ジェームズ・ボンド」のほうが劇中で彼の唯一性を与えるヒーローの名前と化している。

 ノーランのブルース・ウェインバットマンを切り離し、バットマンが「死ぬ」ことによってブルース・ウェインとして生きること。それを007=ジェームズ・ボンドは選択できないことが、今作の結末につながっているのではないか。つまり、ジェームズ・ボンドというヒーローのまま死ぬということに。

 「みんなのヒーロー」として殉じるのではなく、個人として生きること、というある種「現代的」な形に落ち着いたバットマン(それが映画として面白いかどうかは別だが)に対し、新生007は従来的なヒーローの死として落ち着いたように見える。まあ、任務や国というより、父としてというのは「現代的」なのかもしれないが、結局役割に殉じたのは同じといえば同じだ。そして、映画の構造自体も007はどこか回帰した感がある。

 ノーランバットマンと並び「リアル志向」で出発した形で人気を博したクレイグ版007だが、『スカイフォール』を頂点にして従来の007的なものにどこか回帰するような姿勢を見せる。それは、『スカイフォール』のラストシーンで制作側もはっきり示しているような気もする。女性だったMは男性になり、ともに戦ってきたイヴはマネーペニーという歴代の秘書となり、そしてボンドはこれまでのボンドたちがやってきたように帽子を帽子掛けに投げる。そこから「原点回帰しますよ」という宣言通り、それまで陰に潜んでいた悪の組織「スペクター」が現れ、ボンドはアストンマーチンを遠慮なく乗り回し、派手なアクションをエスカレートさせていく。

 さらに、今作はいろいろ(主にフェミニズム的な観点だが)指摘されているように、作劇自体が古臭い。かつて逢瀬を楽しんだ女性が身ごもっていて、彼女は自分を裏切り者とボンドに誤解されながらも彼を思いつつ、ボンドの子供を産み、ひそかに育てている。そんな彼女の真意と子供を目の当たりにして「父性」に目覚めたボンドが、彼女たちを救うために敵のアジトに突入し、彼女たちを守るために死を選ぶ。とても古典的といえば古典的かつ男性視点的なヒーローの殉死、みたいな構造ではある。

 まあ、それはともかく、今回のボンドはノーランのブルースみたくヒーローの名前を捨てて日常に回帰し、ぬけぬけと家族を持ち、父として生きることは許されなかった。というか、実のところ、ひどい言い方だがヒーローものとして、そんなことをされたらガッカリしないだろうか。ノーランバットマンもそういうヒーローを捨て、個人として生きるみたいなのが「現代的」として評価された面もあるが、私は誠に勝手ながら「バットマン」というヒーローとしてはガッカリしたのだ。そういうわけで、かなり身勝な男性視点的な物語ながらも、ヒーローとして死んだ――死なざるを得なかった今回のボンド、そしてダニエル版ボンドの結末としては、ノーランほどのガッカリ感はない(作劇の古臭さはあるにせよ)。

 ここからは私の勝手なヒーロー観になるが、ヒーローを日常に還してどうするのだ、という感覚が私には強い。ヒーローもあなたたちと同じ日常人でもあるんですよ、みたいな妙なすり寄りみたいなの、正直言っていらないのだ。日常人がヒーローの仮面をかぶっているんじゃない、ヒーローが日常人の仮面をかぶっているのが「ヒーロー」というやつなんじゃないのか。苦悩しながらも「ヒーロー」であり続ける姿を見たいんであって、ヒーローやめてみんなと同じ普通の人になる「安寧」など、過激なことを言うなら「ヒーロー」なるものへの冒涜なんじゃないのか。

 少なくとも、ヒーローもみんなと同じだよ、みたいなしみったれた「平等」が蔓延する中にあって、その名前がヒーローの名前そのものと化したがゆえにヒーローとして生き、ヒーローとして死んだジェーム・ズボンド。その名前は、最後まで私にとってヒーローであってくれたと思う。

 まあ、今回はこんな感じにとりあえずヒーローとして死にましたが、ボンドがぬけぬけと生き延びて、娘たちの前に現れ、「ジェームズ!」「ジェームズは死んだ、これからは、ダニエル……ダニエル・クレイグだ」みたいな007の新しい日常として、それまで演じた俳優の名前を言って終わる「卒業」のギミックもそのうち出てくるような気がしなくもない(そうか? てか書いててくだらないな……)

 あと、最後にこの作品、結構メタルギアの影響を感じた。ラストの要塞化された島へ潜入するため、航空機から投入される潜水ポッドとか、敵兵のアラートの後にわらわら出てくるゲノム兵感とか(階段のバトルもそれっぽい)……007に影響を受けたメタルギアが巡り巡って影響を与えている創作の螺旋みたいなのも感じられて、その辺もちょっと面白かった。