蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

悪魔のドールハウス&箱庭:映画『ヘレディタリー/継承』&『ミッドサマー』

※軽くネタバレとか踏んでいると思うので、そのつもりで読んでください。

 

 

 

 

 悪魔がドールハウスや箱庭を作っている。そこには一見、影や悪意の気配はしない。だが、普通とはどこか違う匂いが少しする。悪魔はそこに心が傾きそうな人形を入れ、その心を針でつつく。やがて、それらは歪み、変貌してゆく。そして、ついには人形――人間を異様な世界へと連れ去ってしまうのだ。

 悪魔は名を、アリ・アスターという。

 アリ・アスターが監督した『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』、これらにあるのはドールハウスや箱庭のような異界の感覚だ。ヘレディタリーでは冒頭、ドールハウスの中に登場人物たちがいるというショットで直截的に示され、『ミッドサマー』は、ホルガ村という舞台そのものが箱庭的な感覚を常時見せつける。

 というか、彼の作品自体がどこかハコ的な感覚を纏っているといっていい。昼から夜へ、静謐な雪色の森から電話のコールが鳴り響く街の夜景へと唐突にジャンプカットする演出は、背景の円盤を回せば切り替わる仕掛け絵本のような、もしくは一気に紙を引いてしまう紙芝居のような、背後に世界を自由に操作しえる語り手の存在を強く感じさせる。そんなハコのような映画を映画館というハコで観る。だから、彼の映画を映画館で観るというのは、それだけで合わせ鏡のような異様な体験ができてしまうように感じるのだ。

 ヘレディタリーもミッドサマーも登場人物たちは何者かに操られ、もともとが不均衡な心を蝕まれ、ついにその心が破砕されることで、“向こう側”へと足を踏み入れる。アリ・アスターウィリアム・フリードキンと同じく向こう側を希求している監督だと思われる。しかし、両者の決定的な違いは、アリ・アスターは、渡ってしまった、という感覚を祝祭として描く。

 ヘレディタリーもミッドサマーも、登場人物たちは、自らの意志というよりも、外部からの意志に導かれるようにして一線を越える。それは徹底して、作られた世界に据えられている人形のような扱いだ。しかし、その超えた先に彼らを待っているのは祝福なのだ。そしてそれが、観る者のなかに何か見てはならなかったような感覚として映画が終ってもべっとりと残る。

 二つの映画のアウトラインはカルト教団に操られる主人公たち、というシンプルなもので、ホラー映画としてはある種の合理的な枠組みに収まっていると行っていいかもしれない。しかし、アリ・アスターの映画は、その操りの構造が観ている側の背中に張りついているような感覚を覚えさせる。それは先ほど述べたような映画との合わせ鏡のような感覚で、自分の世界の外側をふと意識してしまうような、もしかしたらそんな異界からの呼び声に応えてしまうかのような怖れ。だから、すべてはカルトの仕業だったというオチにミステリ的な解決の安堵のようなものはなく、そのカルトを含めて操っている世界の外側を意識する。そしてそこにあるのは神ではなく、悪魔なのではないか、という恐れ。

 さらにいってしまえば、それは悪魔に祝福されてしまう恐怖、なのかもしれない。

 

 

 

 ……まあ、これは自分の二つを大雑把にまとめた妄想みたいな感想なのでともかく、恐怖のディテールやじわじわと、そしてあっという間に日常が異界に塗り替えられる感覚としてヘレディタリーの方が好みではある。なんでもない暗闇の恐怖とかも。ミッドサマーのまばゆさの中に平然と居座る恐怖とかも悪くはないが、どっちかというとその箱庭的な村のディテールを見ていく楽しさの方が上回っていて、恐怖感というと自分としては一歩譲るのかな、と。まあでも、どちらも不安定な人間の心を針でつついていくようなヒリヒリしたイヤな感じは甲乙つけがたいですが。