蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

王と神:浅倉秋成『教室が、ひとりになるまで』

教室が、ひとりになるまで

 

私が目指したのは、教室を一つにすることではなく、教室をひとりにすること。 

 

 素晴らしい作品であり、青春物語だった。

 帯に書いてある通り、“最高”のクラスを巡る物語だ。主人公のいるA組と隣のB組、二つの教室は合同で様々なレクレーション企画を催し、そしてそれは全員参加で盛り上げるものだった。もうそれだけでゲーっとくる人も多いだろう。分かる、分かるよ。そんなのは一部の人間が盛り上がるだけで、いわばクラスの上位連中のイケてる俺たちパーティ。それにおけるモブでしかない人間はクッソ面白くなんてねーよ。

 まあ、そうだ。最初からこの“最高”のクラスは胡散臭い。しかし、いちいちそんなことを主人公にダラダラ指摘させて、私みたいな陰キャ読者に寄り添うような野暮いことはしない。その辺はただ、その“最高”のクラスとその中心を淡々と写すだけだ。そして、主人公もまた終始、そんなクラス自体をどこか無関係のように距離を取っている(そのぶん、溜めて溜めて、ラストに決壊はするのだが)。

 そして、この作品は抑圧されるボクらというものよりは、“最高”のクラスの欺瞞性は、上位の人間――いわばジョックス側が一方的に押し付けてくるわけでもない(まあ、ジョックスの一人、八重樫君はかなりヤバイサイコ野郎だと思う読者は多いだろうが)、ということ、そして「抑圧される側」の方にも、ある種の罪というか、欺瞞性があり、一方的な被害者ではないことを明らかにしてゆく。

 連続自殺事件という冒頭から、スクールカーストを軸にしたオーソドックスなミステリっぽく開幕する本作だが、主人公に届く手紙によって、その雰囲気はガラッと変わる。そして、事件の「犯人」は意外にも早く判明する。しかし、そこからが本番というか、犯行方法を巡り、どこか得体のしれない犯人との緊張感のあるやり取りがとてもいい。どこか静かなバトル的展開。主人公と犯人のどこか冷たい戦いは、とても読みごたえがあるし、主人公が犯人の手口を見破る場面は映像的でバシッと決まった好きなシーンだ。そしてそのシーンですらも、どこか冷たいガラスのような雰囲気は崩さない。

 ラストの展開は、犯人の処遇を含めていろいろ意見が分かれるかもしれない。でも、だからこそいいのではないかと思う。加害性や被害性をどんな人間も抱えて生きている。それは一方の側に所属するとか、そういうわけではないのだ。そして、分かり合えない者とは永遠に分かり合えない。しかし、歩み寄ろうとすることはできるのだ、八重樫のように。それが解決になるかはともかく。

 それから、この作品は「一人でいること」を否定する。ただ、孤独ではダメで、みんなと一緒にいましょうという単純なメッセージでもないだろうと思う。一人になりたい、でも一人で居続けることはできない。メルヴィルの『白鯨』じゃないが、ぶつかり合いながらも肩をたたき合って生きていくしかない。一つにまとめ上げられる力ではなく、一人一人が誰かと手をつなぎ合うこと。一つとひとり、その相克を隣にいる“あなた”に託すことでこの物語はほんの少しの風が吹き抜けるようにして終わる。

 それがはたして希望なのか、それは読者の判断にゆだねられるだろう。

 

あらすじ

 垣内友弘のクラスでは、生徒の自殺が相次いで起きた。自殺者はいずれもクラスの中心的人物たちで、クラスのレクレーション企画を牽引していた者たちだった。

 三人目が自殺してから学校に来なくなっていた幼馴染、白瀬美月の様子を見に行ってくれと半ば強制的に担任から頼まれた垣内は、その白瀬から奇妙な話を聞く。A組と隣のB組で定期的に行っているレクレーション、その仮装パーティの時に死神の姿をした人間から、自殺した二人は自分が殺したのだと告白される。そして三人目として「一人目の候補は山霧こずえ、そして二番目の候補者は――あなた」

 唖然としている白瀬に、死神は山霧こずえでいいのね? と言いながら彼女のもとを去っていった。そして、山霧こずえは自殺し、白瀬は学校に行けなくなった。

 自殺者は全員同じ文言を残して自殺している。「私は教室で大きな声を出しすぎました。調律される必要があります。さようなら」すべては、殺人者の仕業なのか。

 同時に垣内は差出人不明の手紙を受け取る。そして、その手紙が、垣内を事件の渦中へと向かわせることになる。はたして、殺人者は存在するのか、そして奇妙な遺言書はなにを意味しているのか。

 

※ここから先はネタを割る形で話すので、そのつもりで読んでください。

  まあ、だらだらした解説もどきですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 主人公の垣内が差出人不明の手紙を受け取るところから、代々学校の間で受け継がれてきた力を巡る、いわゆる能力バトルものの展開になるわけだが、このちょっと意表を突いたプロット展開が面白い。そして、自分以外の能力の受け取り人を探す犯人捜しを経て、メインはその犯人――檀優里の受け取った能力とは何か、という方向へと収束する。彼女の能力については、伏線も丁寧だし、主人公たちが受け取った能力レベルだと考えれば大体は検討はつくかもしれない。とはいえ、終始冷たい死神然とした態度を崩さない檀優里とのやり取りは、とても緊張感がある。

 そして、教室が一人になるまでという題名におけるテーマ性が面白い。檀優里は教室を王をトップとしたカースト制だと説く。そして、別種の動物が閉じ込められている檻だとも。別種の動物とは分かり合うことはできない。だからこそ檀優里は彼らを殺そうとする。相手が自分を脅かそうとするならば、相手にいなくなってもらわなくてはならない。

 そして、彼らの王を頂点としたシステを覆すために、別のシステムを上書きする。檀優里は王の上に神を――教室に神を作ろうとする。それは、大きな声を出すものを粛正する死神だ。そして、教室は全員が平等の“ひとり”の空間となる。

 檀優里は受け取った力によって自分の意志で神が支配するシステムを教室に生み出そうとした。一方、王のシステムは自然発生的だ。それは、カーストのトップにいる人間たちが自らの意志で支配するのではなく、こういうポジションだから、そうしなくてはならない、そういう目に見えない力に動かされることで、王をトップとしたカースト制がシステムとして出来上がる。そして、八重樫が言ったように「下」にいる人間たちが、自分たちが「下」だと思い続けることでシステムは維持される。だからこそ、このシステムは普遍的で、教室だけの話ではなく、これから一生ついて回ると檀優里は説くのだ。

 ひとりがひとりでいていいユートピア。それは無理矢理創り出した一過性のものでしかない。しかし、学校にいられる間だけはひとりでありたい――それが檀優里の王のシステムへの絶望の深さであり、王のシステムに押しつぶされた小早川燈花への弔いでもある。ひとりであれば、役割を強要されなければ小早川は死なずに済んだのではないか、という思いが恐らく檀優里にはある。

 王のもとで一つであろう、という同調圧力にたいして檀優里がとった行動は、死をちらつかせてひとりであろう、という同調圧力となる。それは、一つのルールを順守させるということでは、同じようなものだ。

 分断されることで得られる安寧、というのは確かにある。垣内もまたそういう人間であるし、スクールカーストという王の制度に憤りを感じる読者もそうかもしれない。しかし、この作品は主人公たちを抑圧される側として一方的に描かない。垣内たちの、ひとりであることの醜さもまた描く。このままみんなが死んでくれたらすっきりする、いっそみんな死ねばいい――神のシステムはそういう思いのもとにあるのだから。

 しかし、垣内は最後の最後までひとりであることに拘る。半身であった檀優里を「殺し」てさえも、ひとりに拘った垣内だが、同じような人間だと思っていた学校外の人々に裏切られるようにして失望の中に落ちる。この辺の構成は幻影が解ける感じで、檀優里の能力を軸としたミステリ部分と重なる感じでとても良い。

 本当のところ、垣内は完全なひとりではなかったのだ。ひとりであろうとしながら、結局は同じようだと思っていた人間に面倒のない程度で寄りかかっていただけだ。最後の最後で、垣内はひとりであることの孤独さを突きつけられる。

この世界、近くに人がいるのは叫び出したくなるほど煩わしくて、でも――一人でいるのは耐えられないくらいさみしい。

  そして、そんな垣内に公園で出会った白瀬は声をかける。大丈夫、生きていけるよ、と。ひとりでありたいけど、ひとりではいられない。その抱えた矛盾によって垣内が奔走したことにより、白瀬は救われた、だから大丈夫だよ、と。

 その言葉を引用して、この長々とした拙文を終えようと思う。

「私は、丘を降りるよ。でもそれは別々に生きるとか、決別するとか、そういうことを意味しているわけじゃない。私たちはそれぞれの人生を生きるけど、時折、都合良く、いつだって肩を貸し合うようにして一緒に生きていける。 辛いときに手を差し伸べてくれてありがとう。 今度は私がお返しをする番だから、垣内が本当に辛いと思ったときは、いつだって声 をかけて」