蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

「論理」の吊り橋が架からぬ場所へ:T・Sストリブリング『カリブ諸島の手がかり』

われわれが理性と称しているものは、ふつう思われているように絶対確かできっかりとした働き方をするもんじゃないんです。理性が働くところを調べてみたら、それが実にあいまいで、いくつかの仮説のなかからあてずっぽうに解答に飛びつくようなものだとわかるでしょう。理性がやっと正しい仮説にたどり着くと、やおらそこから目的の地点へと論理の橋を架けはじめます。おかげで理性は橋を渡ったも同然だと思うわけですが、実はそうじゃない。いざ渡りはじめると、橋はぐらぐらゆれだすんです。

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

 

 

 私はストリブリングの名探偵ポジオリ教授シリーズを偏愛しているのですが、そのミステリの特異性というか、自己言及性やその先駆性についてものすごいものを持っていると常々思っていて、そのことを今回は書いていこうかな、と。そのために全部で三冊出ている翻訳の感想を書いていくつもりです(あくまでつもりですが)。まずはその第一弾である『カリブ諸島のてがかり』について。

 ポジオリ教授――彼はT・S・ストリブリングの創造した名探偵なのですが、クイーンやカーが活躍し、探偵小説の黄金期と呼ばれる20年代後半からの時期にあって、なんだか妙な位置にいる探偵です。名探偵とは事件を解決するヒーローであるという役割が、ホームズから脈々と受け継がれており、まだそれが大方の認識であった時代。そんな探偵小説黄金時代のただなかで、名探偵がほとんど無力な存在であるように描かれ、アッサリ敗北してしまう姿が描かれてしまう。そんな『カリブ諸島の手掛かり』を筆頭にして、ストリブリングは数々の短編で、名探偵とは、推理とは、という問いかけを含んだ事件を、かのクイーンに先立つ形で、ポジオリ教授に遭遇させていきます。それは、英国人らしい茶々で名探偵に取り組むバークリーとはまた違った、異様ともいえる事件を作り上げていきます。バークリーは茶化しつつも、ミステリの大枠を信頼している前提はあったように思います。一方でストリブリングにあったのはミステリに対する純粋な疑いの視線です。

 そういう意味でもやはり、クイーンの先駆けというか、おそらくクイーンの後期作はストリブリングの影響を少なからず受けているように思います。まあ、『カリブ諸島の手掛かり』以来、探偵小説から遠ざかっていたストリブリングにポジオリ教授ものを依頼し、自身の編集するEQMMエラリー・クイーンミステリー・マガジン)に新作発表の場を与えたぐらいですしね。

  さて、ポジオリ教授が活躍するシリーズについてですが、そもそもこのシリーズには本格ミステリとして期待されるような意外な犯人、驚天動地のトリックや緻密な論理、さらには鮮やかな構図の反転や伏線の妙といった、「採点」しやすく分かりやすい要素はことごとく「弱い」と言っていいでしょう(そういった美点がないわけではありませんが)。まあ、ストリブリングと言えば、とやたら挙げられる「ベナレスへの道」には分かりやすいラストの衝撃がありますが、そこばかり見ていると、ポジオリ物の短編が持つ本当の特異性を取りこぼしてしまいかねません。 そもそも、「ベナレスへの道」はそれ単体――特にラストの実は……という部分で評価するよりも、『カリブ諸島の手がかり』という連作の流れの中で評価されるべきだと思っています。 まずはポジオリ教授が初登場する「亡命者たち」からして、当時としては特異な名探偵の在り方をストリブリングは描きます。当時のほとんどの作家は作品に探偵を登場させる以上、ホームズにせよクイーンにせよまたはポワロだろうがH・Mだろうが、初登場時から絶対の名探偵として、いわばヒーローとして出てくるのですが、ポジオリ教授はそれらの名探偵と違って、初めからゆるぎない名探偵としての地位を与えられていません。「亡命者たち」にて、犯罪学者として事件解決に自ら名乗りを上げるようにして初登場する教授ですが、結果的には事件を快刀乱麻と解決することなく、事件自体がひとりでに終わるような形で幕を閉じます。その後も、ポジオリ教授は事件に介入しては苦い結末を味わっていくのですが、何故か世間では彼を名探偵として認識していってしまう、という皮肉な展開のすえ、有栖川有栖氏が言う所の"探偵小説の底が抜ける”結末が教授を連れ去ってしまいます。

 『カリブ諸島の手がかり』におけるポジオリ教授は結局最後まで名探偵らしいことはあまりしないのにもかかわらず、名探偵として地位だけは確立していきます。ここでストリブリングは、名探偵や真実が、ただそれだけで成り立っているのではないことを暴き立てていきます。探偵小説の中で、絶対のものとして扱われる名探偵や彼らが推理する真実は、はたしてそれ自体で成り立つのか? ストリブリングは名探偵やその推理が帯びていた絶対性に揺さぶりをかけていきます。探偵の推理やそれが描き出す「真実」は、それを聞くもの――第三者やそれらが形成するコミュニティという「名探偵」の外側にあるのでは無いのか? つまり名探偵はかれがいる場所の法や社会の慣習といったシステムとは無縁の存在ではいられない。彼が存在することを許しているシステムによって、またその範囲においてのみ、名探偵は名探偵でいられるのではないのか。そんな疑念を突き付けてくるのです。

 そして、問題作「ベナレスへの道」をもっていったんポジオリ物は途絶えるのですが、前述したように彼の作品に惚れ込んだエラリークイーンによって、再度ポジオリ物を乞われ、クイーンの編集するエラリークイーンズ・ミステリマガジンにて、再スタートを切ります。そして、教授は活躍の場をカリブ諸島からアメリカの東海岸へと移すのですが、そこでもまた教授はシステムが作り出す犯罪に向き合うことになります。

 

 とまあ、えらい長い前置きになりましたが、ここからはその第一弾である『カリブ諸島の手がかり』について、収録作ごとに語ってゆきましょう。ネタバレ前提で語るので、そこは注意をお願いします。

 

 まずは、「亡命者たち」

 舞台はオランダ領西インド諸島キュラソー。そこにあるホテル、サラゴサホテルはかつてベネズエラから亡命してきた男とその娘が経営している。そこへ、ベネズエラの独裁者、“偉大なる”ポンパローネがその秘書とともに国を追われ、サラゴサホテルに逗留していた。そしてその元独裁者と食事を共にしたホテルの主人が毒殺される事件が起こる。嫌疑をかけられたポンパローネは己の潔白を晴らすために警察以外の真相の探究者を募り、そこへ名乗りを上げたのがオハイオ州立大学の心理学者ポジオリであった。

 元独裁者によって見つけ出される探偵という、その誕生からしてなかなかです。名探偵といえば法や秩序、そしてそれが円滑に機能する(と思われている)民主主義という観点から語られる場合が多いわけですが、元独裁者によって生み出されるポジオリ教授は、その出自からして著者の皮肉な視線が込められているように思います。そして、そんな教授が理性について一席ぶつシーンが、この記事の冒頭に引用したものです。

 一見、橋が架かったかに見えても、いざ渡り出すと揺れる。それはある意味、名探偵の論理が机上のものでしかないのでは、という疑いの視線です。そして、“名探偵”はその橋を恐る恐る渡る。そして、自分が架けたその橋に翻弄されることになるのです。

 この事件のワインと埃のロジックは筋が通っているように見えてどこかあやふやです。毒入りの埃のついたワインを持ってきたのは毒殺された主人自身であり、目印のそれが、きれいにされたのならば彼が気がつかないのはおかしい。そして、最後に娘の豹変も変です。彼女はポジオリの話を聞く機会はなかったはずだし、秘書を殺す理由もよく分からない。事件のラストは、それも含めどこか薄気味悪さが漂っています。そしてラストの一文の、どことなく湧いてくる狂気を押し込めるような文章が、それに拍車をかけているのです。

「カパイシアンの長官」

 次の舞台はハイチ。そして、その北部の都市、カパイシアンの長官であるボワロンに反乱軍を統べるまじない師との対決を依頼されます。彼の“魔術”の真相を探ってほしいというわけです。反乱軍の中へ足を踏み入れ、まじない師のもとへ行かなくてはならず、正直なところ尻込みするポジオリ。あげく逃げ出そうとするも、なんだかんだで退路をふさがれる形でまじない師のもとへと送り出される姿は、名探偵というにはいささか情けなくて笑いを誘います。

 この作品で、ストリブリングは早くも定型的なミステリを逸脱します。名探偵とまじない師が対決し、名探偵がまじない師の胡散臭い“魔術”のトリックを見破る、というのが通常の名探偵物語として期待される展開でしょう。しかし、はっきり言ってここではその魔術や対決などはどうでもいいのです。名探偵と未開世界のまじない師との対決、そのミステリ的な展開の外側に、もっと大きな枠がある。ポジオリは、名探偵は、カパイシアンの長官が仕掛けた思惑の道具でしかない。実のところポジオリが魔術の謎を解くことなどどうでもよく、彼が反乱軍のところへ送り込まれることそのものに意味があったというその真相は、そういえばメタルギア・ソリッドみたいなテイストです。

 「名探偵」という存在自体を利用するという、この先進的な試みはやはりクイーンに影響を与えたことは想像に難くありません。そして、名探偵というちっぽけな存在はその“魔術”についての説明をしたものの、政治や文化の大きな流れに押し流されてゆく。

 この作品、分量がかなりあり、事件について以外の厚み――文化論や宗教観があって、そこもまた読みどころですね。アメリカ文化の帝国主義的な影響――文化の均一性に対する警戒感みたいなものが「芸術的なモチーフをなくすことで、その民族の世界全体がだめになってしまうんです。モチーフを生み出す民族だけが、それをあらゆるかたちで響き合わせながら、芸術を発展させることができるのです」というある人物のセリフに現れているように思います。

 この芸術論が独裁論と響き合い、芸術のために独裁者を作ろうとする奇妙な理論も展開されたりします。以下の抜粋する部分がその根幹となるのですが。

民主主義の自由なんてどれほどのものです? たちの悪い政治の仕組みのおかげで、人類の指導者にふさわしい人物が自分についてくるよう人々を説得することに力の大半を費やすはめになっているじゃないですか。それにひきかえ独裁政治は、指導者が一民族を挑発し、民族はその全精力を壮大な事業に捧げるんです。 

  要するに、一個人の巨大な権力が、民族を総動員して巨大な芸術をなす。よって芸術を解する専制君主を待望する。それがまじない師を騙る男の求める反乱の果ての「天国」であり、それが、ポジオリと犬の鼻で崩壊するのは皮肉なのか何なのか。

 最後にポジオリの、文化がとてつもなく進んで、どんな異質な人種や文化も歓迎する日が来るかもしれないという希望を語りつつも、このような言葉で締めくくられます。

でも、その日は遠いよ、オステルワスキー。ひょっとしたら来ないかもしれない。そんな遠い時代が訪れる前に 、全世界の人々の心がすっかり白人化してしまう、このほうが充分ありうる話だよ。そうなったら、だれもが毎日毎秒、食料品を作るのに専念する。どう始末するのか、だれも知らない。たずねる者もいない。世界中にこんな主義が広まるんだ。食料は生産するものであって、消費するものではない。衣類は作るもので、着るものではない……

「アントゥンの指紋」 

 次のポジオリが訪れたのはフランス領、マルティニーク島。そこで今度は国立銀行の金庫破りに遭遇する。前二作でのあつかいに反して、名探偵としての名声が高まってしまっているポジオリは、ここでも名探偵としてこの事件に出馬を要請されます。犯人は手袋をしていたという状況証拠がありながら、指紋を残しているという奇妙な謎にポジオリは突き当り、さらにその指紋の主――アントゥンを追うも、彼は三日前に死んでいたという事実。その真相は、ちょっとギョッとさせられるものがあります。死人の指紋、そして探偵がその埋葬された場所を暴けば、まあ、手首を切り取られた死体が……みたいな話を予想しますが、ストリブリングはそこを少しひねった形にして、謎の解答とともに妙なおぞましさを出しています。そして常に目の前にいた犯人に気がつくも、逮捕することは叶わず、またしてもポジオリは名探偵として不完全な形で事件と、そして最後に犯人が遺した言葉を見送ることになります。

クリケット

 イギリス領バルナバトス島。そこでもまた、ポジオリは事件に遭遇する。この作品は、これまでのポジオリの虚名が確固としたものとなる話であり、またその「名探偵」の虚名の構造こそがメインの話ともいえます。この事件においてもポジオリは再び煮え湯を飲まされる結果となるのです。というか、犯人を間違えるという失態を犯すのです。真犯人は別の刑事に無事逮捕されるのですが、ポジオリがそれまで取っていた行動を目撃していたそれぞれの人々の証言が、回想という形を経て新聞というメディアに統合されることで、あの時のアレは犯人逮捕のための行動だったのか、という風に「解釈」され、さすが名探偵、とポジオリは人々から祭り上げられるのです。メディアを通して、人々のポジオリは名探偵という思い込みが、より強固なものとなる。

 真相への個々のアプローチは間違ってはいなかったが、真相を外す「名探偵」。このあたりの読み味はバークリーに近いかもしれないですね。ここで、ストリブリングは名探偵とはその推理によるよりも、人々がそう思うから「名探偵」であるという視点を導入しています。本当のことを見通すから「名探偵」になるのではない。「名探偵」とは、人々が生み出すものなのです。「カパイシアンの長官」にて、元独裁者によって誕生した「名探偵」は、民衆によってその地位を確固たるものとする――それはなんとなく、皮肉な視線に思えますね。

「ベナレスへの道」

 そしてついにこの作品です。

 トリニダート島でポジオリ教授は不思議な感覚にとらわれます。ヒンドゥー教徒の結婚行列を眺めていた時のこと、寺院にのみこまれたその行列が、目の前から消えたのではなく存在自体が消えたのではないか、というぎょっとするような印象をポジオリは覚える。そしてポジオリ教授は同時にその寺院に解脱(ニルヴァーナ)の教えを感じ――寺の建築そのものが自己滅却の教義を思い起こさせたのです。以前より、建築物が人の心にどういった影響を与えるのかというテーマに心を奪われていたポジオリは、その寺院に興味を持ちます。そしてその寺院に泊まることを試みる。白人が泊まれるわけがない、と知り合いには一蹴されたポジオリですが、彼は好奇心を抑えられず、ひそかに寺に入り込み、一夜を明かします。それが、恐ろしい運命の始まりであった。

 その後、寺院でポジオリが目撃した花嫁行列の花嫁が首を切られた死体で発見されるというおぞましい事件が発覚。寺院にいた五人の乞食、花婿、と次々に容疑が向く中、ついに寺院にいた白人――ポジオリに嫌疑がかかり、彼は逮捕されてしまう。

 ちょっとした気まぐれがやがて真綿で首を絞めてゆくように、悪い方へ悪い方へとポジオリを追いつめてゆく展開は、それだけでもエキゾチックな怪奇小説として面白みがあります。そして、この事件の背景には読者やポジオリのいる世界とは全く異なった論理があることが分かります。一方でポジオリに嫌疑をかける理由などは「こちら側」の理論で動いている。犯人であるヒーラ・ダースはそういう、二つの場所で引き裂かれた人間なのです。彼は言います「そんなわけで、外国へ出て異郷の地に住み着いたわれわれヒンドゥー教徒は、世襲的階級(カースト)を失うんですよ。まさに社会的面目(カースト)を失った存在になりますから。われわれはインド人でもイギリス人でもない。引き裂かれた存在なのです。だから、再び同胞にまみえるような人間になるには、西洋に染まった身も心も、ここトリニダートに置いていかねばならないんですよ」

 西洋の理論に則ってドルやポンドを集めてきたこの富豪は、そのよるべなき自身の老いた姿を埋め合わせるために、インド人の部分ーーヒンドゥー教の理論を用いた。そして、ベナレス(聖地)への道を開こうとしたのです。そしてそれがポジオリを連れてゆくことになってしまう。ヒーラ・ダースの自身の西洋への禊によって、西洋の側であるポジオリは今度は彼の側へと足を踏み入れてしまう。

 『ポジオリ教授の事件簿』で山口雅也氏が言うところの《向こう側》へ足を踏み入れたポジオリ。そこで彼は、この『カリブ諸島のてがかり』の中で一番といっていいほどの見事な論理の橋を「名探偵」らしく作り上げます。しかし、その「橋」はもう、ポジオリを元いた世界へ返す、いかなる場所にも架かることはないのです。

 ポジオリ教授がカリブ諸島をめぐるうちに、浮き上がってくるのは、その「名探偵」という存在の頼りなさ、そしてその根拠のなさです。「名探偵」も、彼の「推理」も、その場の状況に翻弄され、押し流され、ついには彼岸へと流されてしまう。そんな名探偵の姿は、エラリー・クイーンを通して、現代日本本格ミステリーの「名探偵」という概念に大きな影響を与えたのではないか――それは贔屓、欲目なのかもしれませんが、そう思わずにはいられないのです。