蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

映画という鉤爪:映画『マッドボンバー』

 

 

 決してものすごく細部まで作りこまれた作品ではないのだけど、強烈で忘れがたいものとなる、そんな映画がある。この作品もまた、そういった映画のうちの一つだ。

 1972年制作、監督、脚本をバード・I・ゴードンが務めたこの映画は、70年代らしいざらつくようなバイオレンスとエロスに満ち満ちている。そして、登場人物たちはことごとくヤバイ人間たちだ。

 まずは冒頭に出てくる爆弾魔ウィリアム。彼はポイ捨てをする男を見つけると恫喝するようにしてごみを拾わせ、ポケットに入れるように命じた後に、心が晴れやかになるだろう? と迫る見るからにヤベーやつ。道徳心に篤いというよりは、自分の中のルールに他人を従わせる神経質な人間であり、スーパーやレストランでの態度はほとんどクレーマーのそれ。序盤は動機などが語られないまま連続して爆破事件を起こしていくので、ヤバさが際立っている。

 次に出てくるのが、そのウィリアムと、彼が爆破した病院で鉢合わせしたレイプ常習犯のフロムリー。欲望のままに次々と女性を強姦していく獣、というかザ・クズ。

 そんな感じの爆弾魔とレイプ魔がニアミスして、逮捕されたレイプ魔の目撃情報を基に爆弾魔に迫るというそれだけでも強烈なプロットがまず印象的。

 そして、最後のメイン人物が爆弾魔ウィリアムを追う刑事ジェロニモ。彼はポパイやハリーに連なる男。つまり、捜査のためなら暴力もいとわない、そういう刑事なのだ。犯罪者を逮捕というよりは処刑する感じで追う、かなり危うい雰囲気が漂っていて、こちらもきな臭い人物。

 それら人物たちにはもちろん共感できるとかそんなものはない。爆弾魔ウィリアムは、その動機がだんだん明らかになるのだが、娘がヘロイン中毒で死んだということ以上のものはなく、それが無理やりだったのか、誘われたのかすら分からないため、彼の他人に対する異様な神経質さも相まって、理不尽さが際立つ。ただただ街の人間に罪を背負わせ、無差別に爆殺していこうとするまさに爆弾魔でしかない。また、演じるチャック・コナーズの巨躯とその無表情な魁偉もひたすら強烈。

 爆弾による爆発シーンはスローを使った映像がとても印象的で、CGではない爆発は、絵的にかっこいいわけではないのだが、それゆえに生々しい感じがしてとてもいい。特に大学での爆破シーンは必見。

 そして、レイプ魔の強姦シーンも人によってはかなり強烈になっているかもしれない。ストリップ劇場での聞き込みとか、レイプ魔フロムリーの妻を撮ったストリップビデオとか、エロスが満載なので、その辺も含めてエロス&バイオレンス満載の映画。しかしそのどれもが、B級などというには生々しく、ボンクラがどうとかニヤニヤ観るなんてことはとてもできるものではない。

 とはいえ、細部はどこか行き当たりばったり感はあるものの、次々と物事が起き、息つく間もない緊張感があり、画面から目を離せない力がある。そういう意味では「面白い」映画であると言える。とはいえ、人物たちは全員理解しがたい人物たちだし、決して気持ちのいい映画ではない。しかし、多分観た者の中にいつまでも残る。それは鉤爪で引っ掻かれた傷のようななにかだ。映し出されているものは決して“良い”ものではない――涙に替えられる感動や世界を理解したような気分になれる言葉とか、「価値」があるとうっかり自覚するような(それはそれで悪いものではないけれど)そんないいものではないのだ。

 この映画は傷をつける。観る者にその無造作で荒々しい作品そのままに爪を立て、遠慮も呵責もなく引き裂く。それもまた、間違いなく、映画が持つ力であり、その映画という鉤爪が、観る者に何を残すのか。その、曰く言い難い傷跡から何が流れ出し、何を見たのか、そんなふうに反芻して半ば呆然としつつ、その爪痕を見続けることになるだろう。

 あと、この映画はどこか注意深く「物語」を避けているように思われる。レイプ犯と爆弾魔の交差も、普通だったら爆弾魔の娘が強姦魔の被害者であり、彼女の死は被害の後遺症からくる薬物の過剰摂取、という設定で、そのニアミスからの復讐譚、みたいなプロットの絡み合いにして「物語」を産もうとするのではないかと思う。レイプ被害にあった聾唖の女性の自殺も、刑事の「物語」とすることだってできたかもしれない。しかし、そうしないことが、誰かのための「物語」なんかどこにもありはしないとばかりに、ただそうでしかないという人物たちを映し出す。それこそが、この映画の鉤爪をより鋭くしている、そんな風に思うのだ。