蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

夢の続き:大樹連司『GODZILLA 怪獣黙示録』『GODZILLA プロジェクト・メカゴジラ』感想

 

  伊藤計劃のブログにある文章がつづられている。『ゴジラ・ファイナルウォーズ』――それに関する視聴前の予想、というか彼一流のディテールにあふれた妄想文だ。これは一種の小説のダイジェストのようになっていてすこぶる面白い。これを読んだものはきっと、彼の妄想したファイナルウォーズが観たくなる。そんな文章だった。

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 この小説は、そんな彼のブログ文章の延長線上にある。この小説の著者もきっと思ったのだ、あの文章の、あの絶望的な世界観で彩られたゴジラの――彼の見た夢の続きを見たい。そして書かれたのがこの小説だ。伊藤計劃の描いたファイナルウォーズ、そこに至るまでの人類が怪獣と遭遇し、やがて追い詰められていく過程が、各時代の怪獣と遭遇した様々な人々へのインタビュー形式として綴られている。かの作家が夢想したあの怪獣による黙示録的世界を見事に小説として結実させた作品として、本作は彼のブログの文章に親しんだものにはこたえようもない喜悦に満ちた作品である。

 まずはそのディテールというか、出てくる怪獣のチョイスやインタビュー人物のネーミング、エピソードを含めた小ネタの数々。初代ゴジラからシン・ゴジラまで網羅し(もちろんエメリッヒ・ゴジラ、ギャレス・ゴジラも)、果てはその他の東宝特撮――『海底軍艦』や『地球防衛軍』、『妖星ゴラス』といったものまで総棚ざらえといった趣きである。やるからには徹底的にやりつくす。そんな著者の覚悟と勢いがほとばしる。

 そして、著者は描く。伊藤計劃が描いたゴジラによる終焉を。半世紀をかけその版図は焦土と化し、追いつめられた人類が撤退した先の最後の砦、日本での最終決戦と敗北。絶望の中におけるフェイクの希望としてのオキシジェンデストロイヤー伊藤計劃リスペクトともいえるアニメネタも、本家ほどあからさまではないがそれとなく忍ばせてある。おまけに著者が好きなガメラ2(のレギオンと思われる)までぶち込み、俺の読みたかった伊藤計劃ゴジラが炸裂している。そしてそれは正にあの文章に魅せられた人間にとっての夢の続きなのだ。伊藤計劃の文章が人類のファイナルとした1999年から本作が始まるのはそういうことだ。そして、信奉者には嫌われているので別の言い方で言うのなら、これもまた「計劃」であるということに他ならない。そして、あの言葉を振り回すことへの物言わぬプロテストと言えるのかもしれない。

 前述したように、この作品は「怪獣黙示録」、「プロジェクト・メカゴジラ」どちらもインタビュー形式に則って綴られていく。1999年に怪獣が人類の前に姿を現してから、やがてその“王”が現れ、人類は確実に滅亡の道を歩んでゆく。その過程が、その時その場所にいた人々の口によって語られてゆく。口述による人類滅亡のディテール。それは主に恐怖と絶望を、そしてわずかな希望と勝利の喜びを挟みつつ、避けられぬ人類の衰退と滅亡への行進として描かれる。

 伊藤計劃の夢想したゴジラが画期的だったのはそれはつまり、ゴジラによる人類の滅亡をはっきりと打ち出したことにある。54年に誕生し、これまで幾度となく襲来してきたゴジラは常に警告であり続けてきた。しかし、それは何時もあくまで警告にとどまっていた。それは長く続くことである意味人類とのなれ合いのようなものと化していたといっていい。伊藤計劃はそこを踏み越えた。彼のその認識は同ブログの後に書かれた「日常としてのジェノサイド」という核とフィクションに関する考察が説明している(と私は思う)。核がもはや爆発させたらアウトという“抑止という役割”のラインを超え、爆発することが当たり前となる日常。核は日常化する。では、遅かれ早かれ核の似姿とも言われたゴジラが日常化するのは道理ではないか。

 ゴジラが日常化する世界。それは終りの世界が日常化するということ。怪獣が風景としてあるとか、私たちの隣にあるとかそういう日和ったものなどでは断じてない。それは徹底的に滅びとしてある。それを正確に汲んだ「怪獣黙示録」と「プロジェクト・メカゴジラ」はゴジラが、そして怪獣が日常化してゆく世界を執拗に描く。核がフィクションの中で炸裂することを躊躇しなくなったように、怪獣は、ゴジラは人類を滅ぼすことを躊躇しない。僕らはこの作品を通して、ようやくゴジラが人類を滅ぼす姿を仰ぎ見る。60年余りの時を経て。

 この物語は特撮好きをくすぐるネタを拾いつつ、歴代ゴジラの映画たちをその滅びの風景の中へと括りつけ、人類が寂しくなってゆく姿を見事にエンタメへと昇華した。ここまで読んでこの作品がカタルシスがないなどと嘆くのならば、もう私は何も言うまい。ただ、言うとするならば、滅亡の風景、ゴジラによってそれを描くこと、それが彼の夢の続きなのだ。そして、私は、そしておそらく著者もまた、その夢の住人なのだ。