蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

模倣するけもの:『けもーたりぜーしょん』

 同人――同じ趣味を持つ人の集まり、というのはかつての辞書的な意味であり、現在における同人の大雑把なつかみ(というか、あまり知らない人間が大雑把にイメージするもの)としては、好きな作品のキャラクターをもちいて自分なりにその作品世界を模倣してみる表現の一形態、という感じだろうか。二次創作、といった言葉の方がしっくりくるかもしれない。

 けものフレンズというアニメもまた、言ってしまえば二次創作的な作品であった。アプリをオリジナルとしながら、キャラクターデザインはおろか、キャラクターの性格も違い、おまけにアプリでは存在していた人間たちのいなくなった、ポスト・アポカリプス的世界観。アニメ化とはオリジナルに忠実にすべし、という「常識」が蔓延する現代において、それはあまりの“暴挙”――であるはずだった。しかし、微妙に違うオリジナルのキャラクターを使いながら、新しいキャラクターを導入し、しかもそれを主人公の一人としてすら扱いながら、たつき監督は彼なりの模倣によって新しいけものフレンズのアニメ作品を創り上げた。

 アニメけものフレンズというコンテンツは、そういう意味でリメイクとも違う、「オリジナル」がすでに二次創作でもあるという奇妙な作品であったといっていい。(オリジンそのものというべき、アプリけものフレンズのキャラクターデザインを手掛けた吉崎観音が参加していたとはいえ)

 そしてアニメけものフレンズは「オリジナル」のアプリ以上に大量の同人――二次創作を生んだ。これから紹介する作品――『けもーたりぜーしょん』もその中の一つだ。そして、この作品の面白さが、“模倣すること”そのものにある、という意味においてアニメの精神を受け次ぐ傑作となっている、ということを初めに言ってその紹介を始めたい。

 

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 先に述べた通り『けもーたりぜーしょん』はアニメ版けものフレンズの二次創作である。漫画家のタイリクオオカミを語り手とし、スランプに陥った彼女が漫画からの逃避と創作意欲を取り戻そうとするために、あるものを作ったビーバーとプレーリードッグに聞き取り取材を行う所から物語は始まる。そして物語はタイリクオオカミが二匹の証言を元に当時の状況を書き留めていく形態をとる。

 ビーバーとプレーリーが創ったあるモノ――自走車両――はパークに変革をもたらした。その制作と変革をもたらすきっかけになったラリーへの参加――その顛末をタイリクオオカミはルポタージュとして書き留めていく。

 そのようにして本作はフレンズによる車両の発明、というか彼女ら自身による再現が克明に描かれていく。まずその過程がすこぶる面白い。自分が発明したと思ったものがすでにあったり、試行錯誤の過程で無数にある選択肢と、その中のどれを選ぶべきかという葛藤と不安。それは創作の不安そのものでもある。ビーバーたちの苦闘はタイリクオオカミの苦闘でもあり、それはこの作品の作者の、そして創作を行うものたちの苦闘でもあるのだ。

 このような相似形の入れ子構造が、本作品の創作というテーマをよりダイレクトに読者に届けることに成功している。少しでも何かをつくろうとしたものなら、引っかかるところが沢山あるはずだ。そして苦闘するビーバーたちを固唾を飲んで見守ることになるだろう。

 そして、本作はそういった創作者たちの挑戦を描いたルポという側面のほかに、優れたSFの側面を持つ。人類のいなくなった世界で、人間でないものがかつての文明、文化を再現してゆく、というテーマをアニメから引き継ぎ、本作は車輪がパークにもたらした影響を、フレンズたちがカバンとサーバルがたどった足跡をたどるラリーを通して描いてゆく。

 フレンズたちがラリーを通してカバンとサーバルの旅を追体験――模倣する。ビーバーとプレーリーは車両によってそれに参加することでより精度の高い模倣を試みる。そしてビーバーらによって車輪の概念がほかのフレンズに伝播していく。なかでも車輪の存在が、空を飛ぶフレンズと地上のフレンズをより接近させるという解釈はとても面白い。テクノロジーによって、差異を小さくさせていく、それによって新しい関係性が生まれていく。一方、どんなに精度を高めようが模倣は完全なものではなく、小さな差異を生ずる。人間とフレンズの差異がより差異を大きくし、いずれもとの人間の文化とは違う独自の文化を形成してゆくのだろう。

 ここの模倣とはつまりミームである。遺伝子というものがなく、すべてが一代限りの変異種であるフレンズの社会というものは完全なるミームの社会だ。タイリクオオカミは漫画から逃避し、ルポを、他者の姿や言葉を記述していったことで、図書館に眠るこれまでのフレンズが書き残した言葉――情報に興味を抱く。そして彼女は彼女なりの方法で、記憶をミームとして次代に受け渡すべく自身の言葉を綴る。いつか消えてしまう思いや記憶が少しでも伝わることを祈って。

 書くことは祈りに似ている――と書くとなんかうわっというアレな感じがするが、書く(描く)こと――創作することは、自分の感じたこと、その記憶が伝わることを祈っている側面がある。この作品の著者もまた、『けものフレンズ』という作品から受け取った情熱や自身の思いが創作を通して伝播していくのを祈っている、そんな感じがした。

 最後に個人的『けものフレンズ』のSF萌えポイントっていうのはポストアポカリプス設定云々ではなく、アリツさんの部屋紹介――「見晴らし」とテラスを部屋として紹介するシーンなんですね。人類文化を模倣するパターンの中で、フレンズであることが本来部屋ではないそこを部屋として認識する。カバンちゃんを介していないミームの伝播であり、そしてその伝播における差異が生まれた瞬間に立ち会ったという意味において、一番のSFしてた部分だと思うのですがどうでしょう。