蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

悪魔というか、鋏が怖え:映画『エクソシスト3』

エクソシスト3(字幕版)

 

 毎年クリスマスにホラー映画観てるのだが、なんかだるいな~と、気がついたら寝てて、あっさり25日過ぎちゃったのだ。まあいいや。

 そんな感じで、そういえばこれ観てなかったな、と次の日に観たのが『エクソシスト3』。結構前から観たかったのだが、レンタル屋にも見当たらなくて、ネットフリックスで配信されてたのをこれ幸いと視聴。

 『エクソシスト2』は以前感想を書いたが、『エクソシスト』でホラーカッコいい! みたいに意識を変えられた自分としては、かなりアサッテの方に向って行ったトンデモ映画な印象だった。

kamiyamautou.hatenablog.com

 これはこれで、すごい褒めてる人もいて、こんな風に書いてしまったのは心苦しいのではあるが、まあでも自分にとっては、え~!? みたいな感じだったのは確か。そして、『エクソシスト』の原作者でもあるウィリアム・ピーター・ブラッティもまた2の出来に不満を抱いたようで、自ら脚本・制作、そして監督としてメガホンを取ったのが本作となる。原作者の逆襲……なんか『シャイニング』みたいな気がするが、まあ、こっちは第一作から制作・脚本に関わっているし、その一作目の正統続編という形でこの3は原作者から送り出されてるので事情は異なるが。とはいえ、初代とも結構テイストは違う。やはりそれぞれ監督の資質が色濃く出ていて、初代のパラノイアックな焦燥感が画面を覆うような感触は退潮し、いかにも悪魔が出てくるぞ~というよりも、比較的落ち着いたミステリテイストな映画になっていて、これはこれで悪くない映画だった。

 

あらすじ

 黒人少年の惨殺死体がジョージタウンポトマック川付近で発見された。首が切り取られてキリストの像と挿げ替えられた他、左手の中指が切り取られ、右手にはふたご座のシンボルが刻まれるという凄惨な殺人を皮切りに、やがて神父の連続殺人に発展。いずれも現場は遺体をはじめ、異様な装飾が施されていた。事件の捜査にあたったキンダーマン警部は、犯人が被害者に施した中指の切断とふたご座のシンボルを刻むという行為に愕然とする。それは、十五年前に同様の殺人を繰り返し、ふたご座キラーとして世間を震撼させた犯人によるものと酷似していたからだ。しかも、中指を切り落とすという情報はマスコミには流しておらず、犯人しか知らない情報だった。しかし、そんなことはあり得ない、なぜならふたご座キラーは十五年前に逮捕され、死刑にされたのだから。

 捜査を進める警部はやがて被害者三人の共通点を突き止める。それは、同じく十五年前に起こったリーガン・マクニールへの悪魔祓い――その事件に多かれ少なかれ関係していること。そして、その中心には警部の知り合いでもあるあの、カラス神父がいる。

 そして、警部は親友である第三の被害者ダイアー神父が殺された病院の精神病棟で、自分のことをふたご座キラーだと名乗る身元不明の患者がいることを突き止める。十五年前からそこにいる男に面会した警部はわが目を疑った。

 そこにいたのは、カラス神父そっくりの男だった。

感想

 あらすじ書いてたら、あんまホラーっぽくないというか、むしろミステリみたいな感じだが、映画も割とそんな感じというか。まあ、一応、悪魔の仕業前提な雰囲気ではあるが、主人公であるキンダーマン警部はあくまで猟奇殺人事件として捜査していくので、中盤までは捜査物みたいな形で進んでいく。『エクソシスト』にあったような驚かせる怪奇演出とか露悪的な気持ち悪さみたいなのは控えめ。死体の状況は悲惨なのだが、言葉で説明されるだけで、具体的な描写はほぼないし、流血表現も最小限度にとどめている。恒例の悪魔祓いシーンは終盤にちゃんとあるわけだが、わりと超常バトル的な感じ。精神病棟の個室を舞台にした戦いはどことなくジョジョっぽい(体を乗っ取られていたカラス神父とかもそれっぽい)。あと、初代にあった、人間の体を人質に取ってる感は薄い。

 第一作目は「少女の変容」というテーマが恐怖やサスペンス、そしてドラマの大きな核となっていたわけだが、今回は不可解な殺人事件になっていて、そこに殺人犯を名乗る謎の男(悪魔)の存在とかでサスペンスを引っ張る感じだろうか。ブアマンが好き勝手やった2はもちろん、初代よりもかなり渋めな、あからさまな恐怖&超常映像は終盤以外はほぼない。それゆえに途中で登場する看護婦殺しのシーン――この映画でいちばん有名な鋏を持った尼僧のシーンが、かなりインパクトのある恐怖映像に仕上がっている。映像自体はバカでかい鋏を持った尼僧が画面外の看護婦を追いかけて猛スピードで通り過ぎるだけなのだが、これが結構、ギョッとする。死神が観る者の前を通り過ぎる、その観てはいけないものが、ふとよぎる感じは、初代にはないこの映画の監督ならではのセンスだろう。この映画といえば、と言われるだけのことはある場面。てか、これ観たいがためにこの映画を観たのだった。あと、病院で殺害されるダイアー神父の白シーツ掛けられた遺体の横に、抜かれたすべての血液を入れた容器が並んでいる場面も印象に残る。別にその血すらもほぼ見えないのに、なんか怖いという、シチュエーションで見せてくる恐怖感。ブラッディ監督は極力、死体とか血を見せないようにしながら恐怖感を演出しようとしていて、その辺は初代や2と違った見せ方をしていて新鮮。

 ラストのバトルっぽい悪魔祓いのシーンもなかなか悪くない。ただ、それを行う神父がイマイチ物語に絡んでいないのがちょっと惜しい。そして、死んだのに引っ張り出されて、また死んじゃうカラス神父可哀そう……。

 全体的に抑えた渋い作りゆえか中盤は割と退屈だったりはするのだけれど、そのぶん生真面目な映画のトーンは悪くない。まあ、なんだかんだでハチャメチャな2の方が映画的な存在感はあるような気はして、その辺、なんか難しいなあという思いもあったりするが。とはいえ、好き嫌いで言ったら3の方が好みではある。

いつかそれは再生する:映画『ゴジラ-1.0』感想

※ネタバレ前提な感じなので、そのつもりで

 

 

 

 

 文化の日ということで映画に行く。

 というわけで70周年記念作という『ゴジラ-1.0』を観に行った。監督は山崎貴。一部の映画ファン(特にマニア方面)からは結構敵視されてたりするし、自分も「三丁目の夕日」はそんな好きなわけじゃないし、「ヤマト」もまあ、いいんじゃないの? くらいの感じだけど、『ジュブナイル』や『アルキメデスの大戦』あたりはわりと好きだ。

 ゴジラという映画についても、私はそこまで思い入れがあるわけじゃない。むしろガメラとかの方に思い入れがあるくらいだったりする。

 初めて観たゴジラは父親と観た『ゴジラvsキングギドラ』(1991)で、銀色の首を持つメカキングギドラ(厳密にはサイボーグな感じだが)はカッコいいと感じたものの、映画自体はふーん、みたいな感想で、以降そこまでゴジラに関心を持つことはなかった。とはいえ、アニメや特撮というサブカル方面をあさっていると避けることができない存在でもあり、めっちゃファンいるらしいし、それなりに面白いんだろうということで平成の名作と言われているやつをいくつか見てみたが、これが名作だとツラいな……という気分だった。そこで気を取り直して、いちばん最初の『ゴジラ』(1954)を観たら、これは確かにシリーズ化されるのは分かる、とかなり面白かったのが自分のゴジラ体験というか、ゴジラを面白いと感じるきっかけだった。

 そんな自分のゴジラベストは『ゴジラ』(1954)『ゴジラ対ヘドラ』(1971)『メカゴジラの逆襲』(1975)となる。で、今回観た「-0.1」はというと、結果としてかなり良くて、初代の次くらいには良いんじゃないのかな、みたいな気分で映画館を後にした。

 最近だとシン・ゴジラにもハリウッドのモンスターバースにも、なんか入りきれないものを感じたし、今回もどうなんかね、みたいな感じで臨んだわけだったが、映画館出るときにはかなり顔面ボロボロになっていた(半分は年のせいだとは思うが)。まあ、別に泣けるから良い映画ということはないだろうし、この映画のドラマ部分はベタすぎるところはある。とはいえ、戦争にとらわれた人間やもう一度戦争の化身めいたゴジラを仰ぎ見る人々の視点を一貫して描き、徹底してその地べたにいる小さな人間の視点で物語を語るその語り口は、自分にとって好みドンピシャだったのは確かだ。自分の好きだった初代『ゴジラ』のそれに近いものがようやく観れた気がした。

 そしてなにより、ゴジラがめちゃくちゃ怖い。やはり人間視点が多いせいか化物に狙われている感が半端なく、歩くだけで脅威ということが映像に刻み付けられている。大きさは初代と同サイズらしいのだが、なんかめちゃ大きく感じる。ハリウッドゴジラやシンゴジよりもなんか大きい感じがするくらいだった。そして、おなじみの放射熱線だが、これがすごくて、ギャレゴジのギミックの発展バージョンみたいな感じなのだが、背びれが青く発光しながら、撃鉄(おそらく制御棒的なイメージも重ねられている)のように跳ね上がり、そして放たれる熱戦の威力はキノコ雲が発生するヤバさ。地上を爆風が二度薙ぎ、黒い雨が降るそれはまさに核爆発――いささかマイルドではあるが、監督は東京に核の風景を現出させる。この作品のゴジラの青い発光はかなり怖いし、背びれは禍々しい。

 ゴジラは完全に恐怖の対象で、戦争の再来でもある。主人公で元特攻隊員の敷島をはじめ、この映画に出てくる男たちはゴジラを前に、自分たちの戦争を終わらせ切れていないことに気がついていく。そして、それにケリをつけるためのようにしてゴジラへと挑んでいく。

 敷島は特にそうで、もう一つの「戦争」としてのゴジラと対峙する中で、完全にかつての「戦争」に取り込まれていく。それを再び特攻で終わらせようとするところを、かつての国家が付けなかった脱出装置によって、ゴジラとの戦いを、そして彼の戦争を生きて終わらせる構成はなかなかうまいと思った。なんだかんだで「特攻」を許してしまった初代へのカウンターにもなっていると思う。

 また、今回はこれまでと比べてけっこう海戦に気合が入っていて、まあ、予算的なものもあるんだろうけど、それでも対象物とか、壊すものが特にない難しい海戦をかなり良い感じに描けていたと思う。ゴジラへの最終攻勢もフロンガスで海に沈めて引き上げるだけというシンプル極まりない作戦なんだけど、それを手に汗握る形に演出して見せるのはなかなか凄かった。ゴジラにフロンのガスタンクを結び付けるために駆逐艦がギリギリで交差するところとか、応援が来て引き上げるところとか、そのあたりが一番なんか泣いてた気がする。そして、最後の熱戦が放たれようとするところとか。

 あと、作戦に臨む人たちの顔がきっちり描かれるというか、それぞれの役割を持って臨む人たちの姿がきっちり描写されていたのも良かった。銀座の破壊クラスの地上戦もできればもう少し欲しかった気はするけど、そこはまあ、ないものねだりだろう。

 民間人の視点を徹底する本作は明確に反戦や反政府(反大日本帝国)を作品に刻んでいて(反核は薄いけど)、その辺も初代に寄った感じがして個人的な好きなポイントでもある。なんか最近、反戦を叫ぶこと自体に難癖がつくクソみたいな国の空気の中で、ちゃんと反戦・反大日本帝国メッセージを込めることは全然悪くないことだと思うよ。

 怪獣がそこにいるとき、その足元には人がいる。それが踏み出した足の下にも人はいて、尾が跳ね飛ばす建物の落下地点にも人がいる。そして、それに立ち向かう人が乗る船や戦艦、戦闘機にも人がいる。かつて大日本帝国という滑稽なほど大仰な名前をしたこの国は、それを忘れた。戦争に一人ひとりが押しつぶされていくことを忘れ、命を国家の薪にして、最後の最後にはこれだけ薪にくべれば勝てるなどとバカを宣った。想像にお任せするのではなく、きっちり被害に遭う人々を見せること、立ち向かう人々を見せること、それ自体がある意味反戦でもあるのだ。そして、最後のシーンは別に続編的なものとか、初代に繋げるものというよりは、戦争が終わり、名前が変わったこの国にもいつかそれが――戦争が再生するのではないかという危惧であり、監督の強烈なメッセージなのではないか。あれが本当にただ一回限りか――あの動き出す肉片に込められたものは、今のこの国に対するものすごい重たいものがあるのではないかと思ったりした。

 役者の演技がなんかちょっととか、 ところどころキャラくさい大仰なセリフとか、ドラマパートで気になるところはまあまああるけど、「ゴジラシリーズ」というくくりで考えれば断然いい方じゃないかしら。言葉で感情を説明しているというのも(そもそもそれって、そんなに悪いことか? 批評シーンで妙に教条化されていて脳死ワードな感じもしはじめている)、ヘンな英語交えて喋るキャラとか一回じゃわからないようなセリフをまくしたてるとかよりも個人的には全然いいと思うが。

 そんなわけで、ここ最近の怪獣映画だと『トロール』最高、みたいな感じでしたが、それ以上の満足感がある怪獣映画が邦画に現れてくれてうれしい――そんな映画でした。

 一昨日あたりから喉の調子が悪く、腫れあがっているのがわかる。熱がないのは救いだが、喉に意識が行って、微妙に読書がはかどらない気分。

 色々併読してて、全然読み切らない本が増えているせいもあるかもしれない。

 今回は最近見た映画や読んでる本など、ブログ記事にまとまりきらないものの断片みたいな感じで書いている。

 

学問のすすめ』を現代語訳で読んでいるのだが、個人としての独立を促したり、国民の無知無学は「おまかせ政治」を招き、やがて専制政治を招くといった、いわゆるリベラル的な思想と、“祖国防衛の気概”という感じで、国のために命なげうつ覚悟をせよ、みたいな戦前戦中の「動員」を支えるような文章が混交している印象を受ける。

 福沢としては、前者を前提としたうえで外国からの独立を守れと言っているわけだが、色々都合よく切り取られてきたんだろうなということは、想像に難くない。理論的に全体を俯瞰するのは人間は苦手だ。僕も読みかけをちょこちょこ切り出してなんか言っているに過ぎないわけで、こういう読みかけの印象という奴は早々に切り上げて、とりあえずしっかり読了して全体を把握したい。現代語訳なのでかなり読みやすいしね。

 あとはバスターキートンの『大列車追跡』を観た。バスターキートンはそんなに観てないし、まあ、やはりチャップリンの方が好きだったりはするのだが、彼の徹底して無表情のままで繰り出される体を張ったアクションやコメディはなんかクセになるものがある。本作は公開当時はあんまりヒットしなかったらしいのだが、後世の映画人やファンからは評価されている。オーソン・ウェルズなんかべた褒めしているらしい(ウィキ調べ)。最高の映画っていうのは大げさすぎる気はするが、当時の、俳優がとにかく体を張ってる感のアクションはすごいというか、なんか別の意味で手に汗握る感があって今とは違う味わいがある。あと、どうでもいいが、主人公が南軍の兵士を志願してて、南軍視点的な映画って当時としてはどういう感じだったんだろうか。こけた理由ってその辺にあったりしないの? みたいな気がしたりしたが、公開当時で南北戦争から六十年経ってるし特に関係なかったのかもしれない。しかし、誇らしく職業は軍人ですと答える牧歌的なラストシーンとか、南北戦争で何人死んだかを考えるとなんかグロテスクな感じはちょっとする。

 それから、ちょくちょく昔のアニメを観ているというか、ルパン三世のファーストシーズンを観直したりしている。この作品、路線変更で大きく二つに分かれていて、かなり大雑把に言うと九話あたりまでは原作漫画の雰囲気を再現しようとしているハードボイルドな作風で、以降は高畑・宮崎組の手に渡って、コミカルな色合いが強くなる。ハードボイルド路線は確かに渋くて今のルパンから失われたものが詰まってはいるのだろうけど、若干退屈なところはあって、はやり高畑・宮崎の手が入った後半部がエンタメ的には面白くはある。とはいえ、『十三代五ヱ門登場』『狼は狼を呼ぶ』なんかは画面構成とかかっこいいシーンが多く、『十三代五ヱ門登場』の高速道路のシーンとか『狼は狼を呼ぶ』の海鳥の下の五ヱ門のところとか、今観ても恐ろしくかっこいい。海鳥のところはなんか、出崎統っぽい演出だと思ったら、出崎統が関わっていたらしい。

 このころのアニメは今と比べて絶対的に動いてはいないんだけど、それでもすごく生き生きとしている感触はある。てか、アニメってもともと、どうしてもフルアニメーションみたいにできないからこそ、生まれた表現のような気がするし、めちゃくちゃ動いている(しかもきれいに)というのが、絶対的な評価軸みたいになってしまった今現在のファンの要求というものが、なんかもう気詰まりで仕方がなく思う時がしばしばある。特にこんな昔の見事なアニメを観ているときに。

 スタイルが固まるまでの試行錯誤期にしかない面白みもたくさん詰まっていて、定期的に観返すと、なんかいいなあと思う作品だ。

天使と悪魔:アガサ・クリスティー『カーテン』

カーテン (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 なんかイマイチ更新できないので、旧ブログに書いてたやつの転載でお茶を濁す(じゃっかん改稿してある)。『カーテン』は今のところクリスティのベストというか、自分の中の本格ミステリベストにも入れたい作品。あと、自分のこの感想文章もけっこう気に入っている。

 というか、パスワードも忘れ、そもそものメールアドレスがもう使ってない(hotmail)ので管理画面に入れなくなってしまった……秘密の質問の(飼ってない)ペットの名前も憶えてるわけない。どうしよ。

 

あらすじ
 ヘイスティングスは、ポアロの招待で彼との出会いの場所、あのスタイルズ荘に再び招かれる。久々にポアロと対面するヘイスティングスだったが、かの名探偵は今は老い、足は萎え、その体は病床にあった。過去を思い、やり切れなさが去来するヘイスティングスに、ポワロは過去に起きたそれぞれ何の繋がりも無さそうな五つの事件を示す。実はそこには共通の犯人が潜んでいて、何と今その犯人が当のスタイルズ荘にいるという。犯人の見当がついているというポワロにヘイスティングスは、犯人を聞き出そうとするが、何故かポワロは言を左右にして詳しいことを話そうとしない。今は宿となっているスタイルズ荘に過ごす宿泊客たちの、一見のどかな日常に、やがて不穏な空気が流れ始め、ついに事件の予兆めいた事態が発生するのだが……。

 

感想 ※ネタバレ前提ですので、そのつもりで。


 カーテン。アガサクリスティが創造した、ミステリ史に残る名探偵エルキュール・ポワロ最後の事件として、その衝撃的な内容とともにあまりにも有名な作品です。1975年に出版された作品ですが、実際の執筆は第二次世界大戦のまっただなかである1943年に行われました。実質的にはアガサ・クリスティの中期にあたる作品ですが、彼女のそれまでに行ってきたテクニック、それに付随していたテーマの総決算的な趣のある作品です。

 読む前に一応ポワロの死と、彼が罪を犯す、ということは知っていました。なのでこの作品の衝撃とは、名探偵による殺人、という今となっては手垢のついたギミックに支えられたものだと思っていたのでした。しかし、実際読んでみてそんなものではないことが分かります。正直びっくりしました。というか地味に衝撃を受けました。クリスティを尖ったところのない安打製造機みたいな感じで侮っていた所を大いに覆されたのです。この作品の裏側に仕込まれていた構成についてもそうですが、まずこの作品の見るべき場所は、なんといってもその犯人像です。

 この犯人は、今までのアガサの犯人像とは異質な所が有ります。クリスティの犯人は、だいたいが金や復讐という分かりやすいというか、世俗的な動機が多いのです。あいつを殺して浮気相手と一緒になりたい、とかですね。しかしここで出てくる犯人は、ただ殺したいから殺しているのです。しかも、自分で手を下さずに相手を操ることで。

 なので、犯人は殺意の芽を見つけると、手当たり次第、その人間たちをあおり、殺人をしてしまうような状況をセッティングし、殺人へと誘導していきます。この小説は、特に殺人が連発するわけでもなく、序盤から中盤まで不穏な展開がひたすら続きます。メンバーの中に、これまでそうやって手を汚さずに殺人を他人にさせてきた犯人がいて、ポワロはそれを探っている――そう思い込んでいた読者は最後になって気が付きます。これまでずっと犯人は登場人物たちに殺人を犯させようとし、その都度ポワロが阻止してきたのだということを。読んできた物語の裏側で実は名探偵と犯人の暗闘が繰り広げられていたのです。

 人に罪を犯させようと暗躍する意味で、この犯人は悪魔と言えます。実際、この人物についての描写はどこか茫洋としたもので、平凡な人間、影の薄い人間として描かれています。人物たちの中の影のような存在として、犯人は人々にそれとなく、罪を犯すように仕向けていくのです。実際的な利益と関係なく、ただ人に殺人をさせる。こういう悪魔としてのヴィラン、という存在は、今でいうノーランの『ダークナイト』におけるジョーカーなどといった、いわゆる観念型悪というものの先駆けと言えるのではないでしょうか。

 この特異な犯人の造形について執筆された時代背景を考えると、やはり戦争という要素が影を落としていた、ということは想像に難くありません。戦争によって、誰もが殺人者たり得る。何の恨みもない見ず知らずの人間を公然と殺し、そして殺される。その事実に突き当たった時、人の心に囁きかけ、普通の善良な人々に殺人を起こさせる戦争の似姿として、この犯人は生まれたのではないしょうか。そして、その悪魔と戦う天使としてのポワロはヘイスティングスにこう言い残します。より善く生きることだ、と。

 人間らしく生きようとすること、それがこの魔を晴らすことだ。見ず知らずの他者を殺すことが蔓延する世界にあって、それを二度も体験したクリスティがポワロに託した、儚いともいえる願い。それは、あくまで暗闇の中の小さな光でしかないのかもしれませんが、今なお、世界という暗がりの中で瞬いています。

 これはある意味、戦争に大きく覆われた世界そのものとの戦いであって、これほど名探偵ポワロに相応しい最後の事件もないでしょう。個人的には、探偵史上に残る特異な傑作であると思います。 

ウマ娘 プリティーダービー Season 3 第一話『憧れた景色』感想

 ウマ娘のアニメ。その第三期。あの第一印象ヘンなアニメがここまで続くようになるとは、となかなかの感慨がありますね。

 第一期の楽しく、かつアイドルテイストなスポーツものとして、独自の世界を構築し、それをステップボードに、よりモデル馬の事実を忠実になぞる形でシリアスな(でもギャグも忘れない)栄光と挫折、そして再起の物語を描いてきたウマ娘のアニメですが、第三期はまたどんな物語が描かれるのか、非常に楽しみな感じでその放送を待っていたのでした。

 第一期のスペシャルウィーク、第二期のトウカイテイオー、そして今回の第三期はキタサンブラックが主人公というわけですが、私はもともと競馬に詳しくはないですし、ウマ娘のアニメ観たりゲームしてからも、特にそこまでモデル馬たちの戦績やエピソードとかを調べたりしてるわけではないので、そういう人間としての感想をつづっていくことになります。

 まあ、いろんなところで情報が入ってきたりするので、まったくのまっさらなんてことはなくて、うすぼんやりに把握しつつではあるのですが。

 それはともかく、第一話の感想ですが、やはり及川監督は上手いですね。競馬エピソードネタやモデル馬ネタをそつなく織り込み、二期以前と違って、もはや確固として存在するアプリゲームの宿命的なキャラ見せも背景で適度(適当)に処理し、競馬ファン向け&SNS向けなサプライズを繰り出しつつも、ちゃんとキタサンブラックを主人公とした第一話に仕上げる職人技な第一話でした。

 まず恒例のたづなさん(cv藤井ゆきよ)によるナレーション。今回のナレーションがかぶせる映像はモアイ……最初から及川節の炸裂というか、だんだんネタ化が著しいのもシリーズ化の感慨を抱かせます。実のところ、ウマ娘異世界転生的なものであるということを物語絵巻風に描かれた第一期のタペストリーみたいなやつを毎回挿入してもいい気はするのですが、作品ごとに違った形になっていくのもそれはそれで楽しみの一つになっていますね。

 それはともかく、開始直後はレースから。皐月賞、つまりクラシックの三冠のはじめから物語は始まります。ここまで無敗できたキタサンブラックですが、レース終盤に後ろからものすごいスパートをかけてきたドゥラメンテに敗北。今回は主人公いきなりの敗北で幕を開けます。まあ、一期のスぺちゃんも模擬レースで負けてはいましたが。先行してYouTubeで配信されたROAD TO THE TOP(RTTT)の主役、ナリタトップロード皐月賞の敗北から始まるので、主人公の敗北で始まるのは初めてというわけではないのですが、三期のキタサンブラックは場合は二期のトウカイテイオーと対になるような構造になっています。

 皐月賞、ダービーを勝ったトウカイテイオーに対し、どちらも勝てず、しかもダービーは十四着に終わってしまうキタサンブラック。ただ、逆の形で敗北したというだけでなく、テイオーをキタサンの小さいときからの憧れとして設定することで、憧れの人にまったく届かないというドラマが生まれるのが、競走馬を擬人化したウマ娘の醍醐味でしょう。憧れの人のダービーでぼろ負けしてしまい、しかも皐月賞、ダービーと勝ったのが、その憧れの人のように走るウマ娘だったという作りが上手いです。そしてその勝者であるドゥラメンテの強さを印象深く視聴者に刻み付けるレース描写もかなり良かったですね。黒っぽいオーラを纏いながら突っ込んでくるのを、直線的なカメラの動きでとらえるスピード感が素晴らしい。なんか、アニメ前は競馬ファンからはウマ娘化が困難な所有者の馬であるドゥラメンテが出てくるかが争点になってたりしてましたが、個人的にはその辺よく知らないので、その馬が出ることが驚きみたいなのは特にないし、別に似たような名前で出てきても、きっちり物語の役割としてめちゃくちゃ印象に残る登場人物になっていたと思うし、そこが本当のところは大事なはずなんですね。

 二期のテイオーはある意味頂点から始まったわけですが、一方のキタサンはいきなりどん底から始まるという第三期。なかなかまた違った形の物語になっていきそうで第二話も楽しみです。そして、RTTTに続き、またもや影も形もなくなったライブが、どこでどんなふうに演出されるのかも結構楽しみにしています。

 大雑把な構造はこんな感じですが、物語周りの監督らしいシュールなギャグなんかもいつものウマ娘な世界を作り出すのに貢献していて、やっぱりこの世界が自分は好きだなあ、と再認識させられました。なんていうか、そもそもが競走馬を美少女化して競馬場を走らせるなんて、シュールすぎる光景なわけですし、彼女たちを取り巻く“異世界”もやはりシュールな空間としてギャグ演出されてた方が自分としては、その世界に浸りやすい気はしています。その辺、RTTTは自分にとっては生真面目すぎて逆に作品世界からはじかれる時があったかな、みたいな気がしています。

 あと、モブというか、商店街の人たちもただ出すというよりは、キタサンのお助けキャラ的な性質のエピソードをちょっと組み込んで関係性の根拠をつくってたりとか、細かいところですが、その辺けっこう大事なところをそつなくやってるな、という印象でした。

 最後に、音楽の使い方もなかなか上手かったように思います。レース中にドゥラメンテが出てくる時の、これまでとは違った新しい強敵のテーマとその入れ方とか、いままでのなじみの音楽と新しい楽曲の使い方とか、またその辺も注目しながら観ていきたいですね。主人公から先輩になったテイオーをはじめとしたチームスピカの活躍とか、カノープスの面々は今回は役割があるのかないのかとか、いろいろ楽しみにしています。

 とりあえず、やっぱりアニメウマ娘、好きなんだなあ。

 

一話予告


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二話予告


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ミステリ感想まとめ その10

 読んだけど感想書いてなかったやつを、再読したやつも含めてザクっと。

 

 『幽霊たちの不在証明』でデビューした著者の三作目。嵐の山荘物というか、土砂崩れで交通が遮断された村の家に、訳ありな二人組が転がり込んできて、事件が起きてしまう。その家では十三年前にも同じような毒物での死があって……というお話。王道的でこじんまりと見えて、なかなかミステリマインドな企みに満ち、後味は悪いもののそれを含めて楽しめる。特にギリギリを責めたようなメイントリックはいかにも本格らしい紙上のマジックって感じでいいんだよなあ。犯人特定のロジックも地味だけど堅実な感じで好かった。結構おすすめな作品。

 どうでもいいけど、貼り付けたついでにアマゾンレビュー見てしまったのだが、相変わらず、テメーのレビューの方がクソつまんなくて逆にお金もらいたいぐらいなんだがという、またお前かよ、みたいなカスタマーがいて、カスタマーレビューにこそ星つける機能欲しいよな、といつも思う。

 なんだろうなあ、ネガティブ評なのはべつにいいんだけど、なんかいちいち偉そうなのがムカつくんだよな。レビューを成績というか査定つけてるのと勘違いしてるような感じとかも。あ~とにかくムカつくぜ。

 見えない、聞こえない、話せない、という三つの障害を持つ女性が、地震により、最新の障碍者支援都市として造られたジオフロント――「WANOKUNI」の地下五階に取り残されてしまう。そんな彼女を非難シェルターのある三階までドローンで誘導する困難なミッションが立案され、主人公ハルオはそのドローンの操縦者として、彼女の誘導に挑むことになる。火災や地下からの浸水により、タイムリミットは6時間。それまでにハルオはその特殊すぎる要救護者を無事シェルターまで導くことができるか。

 井上真偽の最新作は、次々と巻き起こるアクシデントをかいくぐり、いかにして意志を伝えあうことができない相手を誘導するかというタイムリミットサスペンスもの。とはいえ、次々と降りかかるアクシデントの中で、救護対象に浮かび上がる疑惑を中心にしたミステリも展開され、ある程度、予測しやすい解決だとは思うが、意外性のあるものが用意されている。主人公の、過去に起きた兄を失う事故の記憶が物語の横糸に組み込まれていて、読みやすくドラマ性もある作品に仕上がっていた。

 

 聴覚、視覚、臭覚に味覚に触覚と五感をテーマにした連作集。それぞれ違う物語だが、それを最後の『Extre stage「第六感」』でまとめ上げる構成美が光る。各短編もテーマに沿ったミステリが職人技的にきっちり仕上げられていて、個人的には、なぜかケーキを観ると気分が悪くなる、という謎から出発してスリリングな結末に至る第四話の『悪いケーキ』が好み。

 

 櫁柑花子シリーズの著者による最新作の本作は、初のノンシリーズ作品となる。

 魔女と人形をモチーフに、特殊設定をベースにしたミステリが展開される。特殊設定は巧く使われているし、謎解きによってタイトル回収する趣向とか、かなりおぞましい真相や結末とか、要素要素は悪くないのだけど、全体的な読み味はあんまりよくなく感じた。多視点というか視点を順番に映り替えて描かれる物語が、どうも芯を欠いたような印象を受けてしまい、ラストのおぞましさもどこか点で収まっていて、物語全体のピークにはなってないように思う。ラストの視点人物の執着も、根拠の描写不足に感じてしまい、乗り切れないものがあった。

 

 再読。バークリーの代表的シリーズ探偵シェリンガムが登場する著者の代表作の一つ。実のところ、以前読んだときはそこまでピンとこなかったというか、事件当時の人物の動きがあんまり把握できなくて、あんまり入り込めずに、単にいつものやつ、みたいな感じで読み終えてしまっていたので、もう一度読み直してみた。

 今回はあんまりよく分かっていなかった真相も、読んでる途中でこれってそういうことか、という風に気付けることができた。評価自体はやっぱり『ジャンピング・ジェニィ』とか『最上階の殺人』の方が好きなのだけど、シェリンガムが出てきてからの楽しさなんかは以前よりずっと味わえて、よくできた事件の構造なんかも読めてなかった諸々が拾えてよかったかな、と。やはり、ミステリは再読してみるものです。

孫沁文『厳冬之棺』(訳:阿井幸作

厳冬之棺 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

Impression

 日本以外のアジア圏、特に中国のミステリに注目が集まっている昨今。向こうにも英米のクラシックなミステリにとらわれた人間がいることを、そして名探偵だトリックだのに拘る日本のいわゆる新本格ミステリ的なものを書く人間がいるということを教えてくれる一作。

 本作の著者は日本でいう本格ミステリ志向の作家のようで、“密室”に並々ならぬ関心があり、これまで発表された作品はほとんどが短編ながら、その短編(二〇二一年時点で)五七編のうち、密室物が四四編にものぼり、かなりの数になる。ここにもいたんだな「密室バカ」が、とうれしくてたまらない。

 本作はそんな華文ミステリ界の「密室の王」が、二〇一八年に発表した初の長編だ(今のところ長編は本作しかないらしい)。いわくありげな伝説をはじめ、胎児のような形の湖のほとりに立つ館と、そこに住むクセのある資産家一族。やがて起きる殺人事件はいずれも密室という、まあコテコテの舞台と展開。そこに巻き込まれるのが声優の卵だったり、事件に挑むのがアニメ化を控えた超人気漫画家、というのが現代的というか、なんの注釈もなく挿入される日本の漫画やアニメをはじめとしたサブカルチャーなども含めて、新本格以降の本格ミステリと親和性が高い感じ。事件を捜査する刑事も、密室事件の専門家リストなるものを持っていたりするのもなんか親しんだ感がある。

 作中で展開される密室も新本格なテイストで(犯人がすごい大変だが)遊戯的で面白いトリックが楽しい。メインの三つとも、なかなかいかにもなトリックでよかった。

 メインの古典的な事件以外にも、全体の複層的なプロットとか、周到に張られている伏線なんかも良く、密室を解いてからの犯人を指摘するロジックもかなり良かったと思う。なかなか楽しくて、本格好き――特に新本格好きなら読んで損はないだろう。

あらすじ

 資産家一族の陸(ルー)家の当主が殺されているのが発見された。現場は館にある半地下の貯蔵庫で、一つしかない入り口は数日前からの大雨でほとんど水没していた。中は乾いていて扉が開閉された痕跡はない。水による密室という状況が作られていたのだ。そして現場には焼かれた嬰児のへその緒が。また、当主の部屋からは呪いに使う釘が発見され、それを見つけた一族の一人もまた密室で殺されているのが発見される。そしてそこには、同じように嬰児のへその緒。

 さらに密室殺人が一族を襲い、紛糾を増す事件に、捜査に当たっていた刑事の知り合いにして似顔絵顧問の漫画家が挑む。

 

感想 ※まっさらな気持ちで読みたい人は読んでからを推奨します。

 

 

 なかなか良かったですね。中国人名を覚えるのはまあまあ大変なんですけど、章が変わるたびに、ルビを振りなおしてくれていて、その辺かなり親切でした。陸家に下宿していて事件に巻き込まれちゃった声優と、憔悴して実家に帰ろうとしている彼女に、自身のアニメ化される漫画のヒロインをやってもらうため、事件に挑む探偵のキャラクターとかも良かったです。

 作中の密室トリックも、どれもいかにもなトリックで楽しく、そこそこシンプルなものから、豪快で手間暇かかった機械系トリックとなかなかなトリックでした。水の密室は扉を閉めるときの水圧が気になるけど。第三の密室なんかは北山猛邦な豪快さがあって結構好き。

 密室もいいけど、犯人をあぶりだすロジックもなかなか凝っていて、密室を解いて終わりなだけじゃない、推理の厚みがあってよかった。特に探偵のある特性についてのちりばめられた伏線とそれをジャンプボードにした推理とかが良い。

 ところどころ大味なところがあるけど、ばらまかれた伏線が回収されて、様々な事件周辺の要素が収束していく手つきはとても楽しく読めました。個人的には冒頭の“死のクロッキー画家”が最後にそういう回収をされるのかという――いままで助手的なポジションの声優の推理で戦慄するラストも好きでした。なんか映画『殺人の追憶』のラストみたいな、虚を覗き込んだ感があってよかったです。