蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

アニメ『GAMERA -Rebirth-』

 ガメラ。それはゴジラに並び立つ怪獣の名前。そして、かの破壊神の対としての守護神の名前――というのはまあ、長い時間の中で何となく確立されたようなものであり、ガメラというカメの化物も、ようはゴジラという「際物」の後追いで製作され、シリーズの中で「子どもの味方」という要素を後追い元のゴジラと同じように取り入れながら、結果的に破壊神として生まれたゴジラと対になるような守護神のポジションに収まるようになっていった存在。

 ガメラは昭和期(1965~1980)と平成期(1995~1999)に大きく分けられ、自分が最初に観たガメラは昭和期の『ガメラ対宇宙怪獣バイラス*1で、ダビングしてあったそれを何度か繰り返し見ていたことを覚えている(そんな特に面白いわけではないのだが、子供主人公(日本人と外国人というコンビがなんか新鮮だった)でけっこうテンポよく、幼い自分にとって結構観やすかったのだと思う)ガメラがバイラスの頭で腹を串刺しになり、突かれるたびに甲羅に引っ込んでたガメラの手足が出てくるグロイ描写とか、バイラスの最後の口から汚い泡吹いて死ぬところとか、インパクトがあった。

 とはいえ、ガメラというものが本当の意味で自分にインパクトを与えたのは、平成三部作と言われるシリーズで、これには驚かされたというか、なんとなく“日本の特撮”に対するウンザリ感があった自分にとって(なんて言いつつ、別にそんなたくさん観てるわけじゃないのだが、子ども心にゴジラシリーズがあんまり……という気分だった)、その思いを更新させたという意味でも重要な作品だったと言えるだろう。いまだに、自分はこの平成ガメラ三部作にとらわれているというか、これをはっきりと更新する怪獣映画に出会えていない。

 前置きが長くなったが、『GAMERA -Rebirth-』は、2006年の映画『小さき勇者たち〜ガメラ〜』以降途絶えていたガメラの新作であり、こちらは初の3DCGアニメでネットフリックスでの全6話構成の作品となる。監督はアニメゴジラ瀬下寛之。私は、アニゴジ三部作の第二作目「メカゴジラ・シティ」がかなり好きではあったけど、実のところそこまで期待していたわけではない。また子供が主人公というのも先祖返りで後退してるような印象があった。なんというか、平成ガメラの印象のせいでガメラは特撮の先端を更新するものだという勝手な思い込みがあったわけだ。

 人物のCGとかもあんま好みじゃないな……というイマイチ気乗りしない感じで視聴を始めたわけだったのだが、結果としてはなかなか悪くなく、結構楽しめた。

 内容的には昭和ガメラのテイスト――外国人を含めた子どもたちを主役に、彼らを守護するガメラという要素を中心にして、リファインされたギャオス、ジャイガー、グジラ、ギロン、バイラスといったかつてのライバル怪獣とのバトルが描かれる。あのアニゴジの監督にしては正直だいぶ「ファンに配慮」したような内容になっている。まあ、ファン接待だなんだと批判するのは簡単だが、だいぶ時間が経ってガメラ自体も知らない人も増えたし、かつてウケた部分とか、初めのころのガメラって何だったのかと再定義するは(そこまで必要性は感じないにせよ)、悪くはないのだろう。

 なんだかんだだらだら言ったが、本作の怪獣バトルの描写はかなり良い。リファインされたライバル怪獣はどれも個性があって強力で、バトルの舞台も市街地から深海、人工の浮島や宇宙などといった怪獣ごとに場面を移し、ガメラと死闘を繰り広げる。個人的にはグジラとギロンが好き。ギロンはあの手裏剣もきっちり、より凶悪にリファインされて出てくる。とにかく、ライバル怪獣たちが強いのがいい。バイラスはもうちょい活躍して欲しかったが(作中では最強格っぽいのに。まあ、物語的には「大活躍」してたが)。

 平成ガメラ的な人類との共闘部分もきっちり盛り込んであって、ガメラを援護する自衛隊の戦車隊とか、米軍の航空支援とか様式美と言えばそうだがやはり盛り上がる。

 物語は、古代文明をベースにした結構スケールの大きな話に90年代の少年たちのカルチャーなどを盛り込んだ、ひと夏の冒険ジュブナイルストーリーとなっていて、そのあたりもきっちり手堅くまとめている。前半の巻き込まれ型ストーリーの少年たちから、大きな転換点を経て、ガメラを守り、そしてガメラとともに戦おうとする少年たちの成長を無理なく描けていたと思うし、正直、最初はあんまり好きな感じがしなかった主人公のボコことヒロキも終わるころには主人公として見れていた。あと、ヒロキの親友ジョーことサトルがいいやつすぎる。

 まあ、キャラクターでいえば、やはり早見沙織演じるエミコお姉さんですよ! この早見沙織ボイスの、少年たちのいいお姉さんみたいなキャラクターが物語のいいアクセントになっていて、個人的にはエミコお姉さんがMVPでしたね。

 しかし、ラストのあれとあれは正直蛇足というか、タザキのあれはマジでいらねえ……最後のやつはジュブナイルらしい救いと新たな冒険の可能性みたいなものにはなっているけど、やっぱりいらなかったんじゃないのかなあ。

 それはともかく、概ね楽しめたし、WANIMAが歌うOPの『夏暁』とEDの『FLY & DIVE』が良くてけっこう今も聴いてる。

 


www.youtube.com

 

 だんだん癖になってきたOP。最後まで観ると、全話の要素がちりばめられていることがわかる。どうでもいいが、登場人物たちが背中を見せながら立ち上がるシーンがめちゃ好きだ。


www.youtube.com

*1:バイラス星人というイカみたいな宇宙人が合体して宇宙怪獣バイラスになる。まあ、バルタン星人みたいなやつ

オカルトとロジックの青春ミステリ:今村昌弘『でぃすぺる』

でぃすぺる (文春e-book)

 

感想

 自分の好きな青春ミステリの二大巨頭として東川篤哉の鯉ヶ窪学園探偵部シリーズともう一つは乙一の『GOTH』がある。前者はバカっぽいあっけらかんとした要素が、そして後者は渇いたゴスな雰囲気――以上に噂や殺人鬼といったミステリを探して町をぶらぶらする要素が、自分の求める青春ミステリとして大好きだからだ。なお、後者には『夕闇通り探検隊』というゲームの風景も自分に大きく刻まれている。

 そんな、自分の好きな方向の青春ミステリを本格ミステリの新星――その二大巨頭が同時にそれぞれ書いてくれるなんて、なんという僥倖か。21日に同時に発売された阿津川辰海の『午後のチャイムが鳴るまでは』は、馬鹿な情熱の青春世界が。そして本作、今村昌弘の『でぃすぺる』には、奇妙な七不思議が孕む謎を求めて主人公たちが町を駆け巡る青春ミステリが描かれているのである。俺の好きなタイプの青春ミステリがこう続けざまに読めるなんて、や~、まさに盆と正月がなんとやらという状態か。

 本作は、オカルト好きな小学生の主人公ユースケ、クラスの優等生で委員長気質のサツキ、転校してきた変わり者のミナが、死亡したサツキの従姉――マリのPCに遺された町の七不思議を追いかける中、やがて町に隠されていた大きな秘密に行き着くというストーリーが展開される。本格ミステリとオカルトが融合され、本格の型にはまらない著者らしい感覚のミステリに仕上がっている。

 また、七不思議を題材にした本格というと、それぞれで事件があって解決しては次に行くみたいな、連作短編的な型にはまった形式が思い浮かぶかもだが、本作はちょっと違う形式になっていて、一つ一つの不思議話が、過去の事件の真相に迫る手掛かりとして機能していて、それぞれが何故か微妙な変更点が加えられ、それは何を意味しているのか? その意図は? を探りながら展開される長編小説的な読み味となっている。

 てか、毎回思うのだが、今村昌弘はエンタメが上手い。怪談じみた話を追いながら、町探検する楽しみ、オカルトの肯定/否定の立場からの推理合戦、特に接点がなかった三者が学校での日常や行事を通して特別な三人になっていく様子などを描き、やがて町に隠されていた禍々しい真実と対峙するという構成がかなり上手く組んである。

 後半に向けてのオカルトが侵食してくる不穏な空気と、主人公たちの周りにいよいよそれらが狭まってくるような感じとか、クライマックスへの緊張感ある盛り上がりをきっちりキメてくるし、そこへ小学生が主人公ということで生まれる行動制限なんかも、うまく機能している。

 また、現代的なアプローチ――スマホや動画サイト、SNSといった要素が主人公たちの捜査や巻き込まれる怪事を彩ったり、また事件の根幹にも組み込まれていたりして、そこらへんもなんか巧かった。『自由研究には向かない殺人』とはまた違う、日本的な味付けがある。

 中心にある雪密室という謎が本格好きの目を引くが、本作はガチの本格ミステリというわけではなく、むしろ型にはまらない形で、オカルトや怪奇、推理に冒険、そして青春といったエンタメ要素を盛り込んで見事に融合させたジュブナイル・ミステリと言えるだろう。個人的には好きな要素しかなくてひたすら楽しかったです。時間をおいてまた読み返してみたい。

 てか、自分もこういうのが書きたかったんだよなあ……。

阿津川 辰海『午後のチャイムが鳴るまでは』

午後のチャイムが鳴るまでは

 

 「青春」という奴はなかなかセンチメンタリズムと相性がいいらしく、青春ミステリといえば、やはり戻らないあの時の郷愁を含んだ悩みや恋愛、それらが醸し出すほろ苦さ、という要素に彩られることが多い。また、それによって「物語」として奥行きを持つというのもまた確かで、小説に「いい話」を求める人たちには受けがいい。

 ……いささか皮肉っぽい言い方にはなったが、私だってそういう青春物語を基調にしたミステリが嫌いではないし、大いに感動することはある。大好きってわけじゃないにせよ、多くの読者に好まれることは何となくわかっている。

 本書は、あとがきによると、薔薇色でも灰色でもない、馬鹿馬鹿しいことに情熱をささげる愛すべき馬鹿どもの青春ミステリを書いてみたかったとのこと。

 馬鹿。青春につきものながら、青春ミステリだとあまりメインになることはないかもしれない要素。それを著者はフューチャーしたいというわけなのだ。馬鹿っぽさに彩られた青春ミステリといえば東川篤哉の青春ミステリ。あの青春物語的なものがほとんど香ってこない、一般的には青春ミステリとは言えないような悩みのないキャラクターたちによるひたすらバカなドタバタが私はとても好きで、そういう方向は大歓迎なのだ。本作は、東川青春ミステリのあっけらかんとしたバカっぽさとはまた違うが、なかなか情熱的な馬鹿さが楽しい作品だった。

 ミステリのメインとなる事件については、本作は悪意が介在する事件というより、キャラクターたちの情熱ある行動からミステリを取り出すという形をとっていて、一話のラーメンを食べに学校を抜け出す話と、第三話の消しゴムポーカーの話は、キャラクターたちの無駄なことに熱い情熱をかける姿と、そこから取り出されるミステリ――ちりばめられた伏線とそれを取り出して見せる解決が上手くマッチしていていた。

 終盤の変則的な名探偵ものみたいなまとめは、いささかきれいにまとめすぎようとしている感じはするが、各事件の場面をダイジェスト的に振り返っていく趣向としては悪くない。なんだかんだで著者らしい生真面目さにあふれている。

 個人的には第三話の『賭博師は恋に舞う』が一番バカっぽい爽快さにあふれているかもしれない。ミステリ的には『RUN! ラーメンRUN!』の細かな伏線とロジックが好き。

以下、各話感想

第1話「RUN! ラーメンRUN!」

 学校を抜け出して昼休み中にラーメンを食べに行くという、この作品を代表するような馬鹿馬鹿しい行動の顛末をちゃんとミステリにする手腕が素晴らしい。ミステリの型としては倒叙ものとなるが、学校を抜け出してラーメンを食べてきた犯行計画が一瞬にして見抜かれたのはなぜか? というミステリを細かな伏線とそこから浮き上がるロジックで処理する手つきがなかなか。ラーメンを前にして、だんだん思考力がなくなっていく高校生たちの描写もなんか楽しい。

第2話「いつになったら入稿完了?」

 女子高校生が語り手になっているためなのか、バカ度は薄いというか、青春につきものの「嫉妬」や「才能」という奴が物語に辛気臭く浮上してきて、出やがったなこいつ……という感じ。最終的になんとかみんな最高だぜという感じにソフトランディングさせたが、青春ミステリと言えばの某シリーズの某作へのカウンターになっているかというとちょっと弱いかも。締め切りを前に徹夜とエナドリでふらふらになる部員たちの変なテンション描写とか馬鹿さがもっと欲しかったように思う。

 ミステリ的には消失ものだが、シンプルなトリックの二段返しが上手い。

第3話「賭博師は恋に舞う」

 消しゴムで行われるポーカーを舞台に、みんなの憧れの女子生徒への告白権をかけて熾烈なコンゲームが始まる。クラスの男子たちによる非情な裏切りと友情の物語。

 馬鹿なことに賭ける情熱では本作随一の情熱があふれて、あの手この手のイカサマ戦の果てに最後の小細工なしの一騎打ちまで、加速していく物語がアツい。

 イカサマ以外にもいろいろと盛りだくさんでミステリ的にも密度が高い一編。

第4話「占いの館へおいで」

 「星占いでも仕方がない、木曜日ならなおさらだ」そんな不可解な言葉から推理を展開させる、いわゆる「九マイル」ものの一編。正直なところ「九マイル」ものがそんな好きじゃないというのもあるが、言葉尻から思わぬ犯罪を引き出す飛躍感というよりは、いささか唐突感の方が勝ってしまったところがあるように感じた。普通に犯罪が出てくるし、馬鹿な情熱度も薄い。

第5話「過去からの挑戦」

 過去の天文部部員消失事件を軸にして、各短編をまとめていく一編。たぶん読者が望むところであろう場所に収束させつつ、郷愁を感じさせるいかにも「青春」なストーリーに着地させながら、各編で活躍した「馬鹿」たちの姿を見送るようにして締める。

 メインの過去の事件については、その動機が当時の切実さから時間を経てなんか気恥ずかしいものに変質してしまった、そんないわゆる中二感がなんかほほえましい。

 なんだかんだで生真面目に収めることで、馬鹿っぽさは影を潜めた感じはするけど、物語のおさまりとしては悪くなかった。変に湿っぽかったり深刻な感じになることもなく、肩ひじ張らずに濃密な昼休みを楽しめる青春ミステリになっていたと思う。

生きづらさの場所:J.Gバラード『殺す』

殺す (創元SF文庫) (創元SF文庫)

あらすじ

 ロンドンの高級住宅街で住人32人が惨殺された。被害者はすべて大人。同時に被害者たちの子ども13人は跡形もなく姿を消していた。メディアを中心に、事件に対し様々な憶測が飛び交う中、内務省から派遣された法学医ドクターグレヴィルは、現場を見ていくうちに、世間の人々が考えるのとは違った真実の可能性に気がついていく。

 

感想 ※内容について言及していますのでそのつもりで

 実は初バラード。一応、映画『ハイライズ』を先に触れてはいるが、小説を読むのは初めてだ。とりあえずSFに分類されてはいるが、いかにもSFです、みたいなガジェットや理論みたいなのは特になく、ハイソサイエティなコミュニティが生み出す“歪み”みたいなものを淡々と描いたものだ(そういえば『ハイライズ』もそんな感じだったな)。

 書かれた当時はこの“真相”に驚き、慄いた読者がメインだったのかどうかは分からないが、今の読者だともうこれもまた一つのパターン的なものとして回収されてしまうだろう。もちろん、それ自体はメインではないだろうが。

 イイものだと社会がおそらく思っているモノ、要するに社会的な正しさで構成されたものがあったとして、そこに構成物として組み込まれた人間は社会が望む“正しい人”となるのだろうか、という視点はこの小説が現代の寓話と言われるゆえんだろう。

 また、本作は管理社会的な要素をもった作品だとも言えるだろう。管理社会的なディストピアオーウェル的なガチの管理社会というものと、その派生型としてユートピア的な管理社会がある。オーウェル的なものが国家という生き物のための構成要素となることを求める管理社会であるのに対し、ユートピア型は望ましいもの、正しいものを体現するものとしての構成員となることを要求する。後者だと、伊藤計劃の『ハーモニー』が、管理社会の核となる“善きもの”を「健康」としていて、なかなか現代的だった。

 本作の場合は「善き家庭」ということになる。そのための望ましいものでがんじがらめにされた子どもたちが大人たちに対して反旗を翻すというのは、物語的な外装としてはまあまあ定型的で古さを感じたりはする。大人と子供という対立軸も含めて。ただ、「正しさ」で権威的に満たされた世界はその「正しさ」で歪むのかもしれない、という視点は今もなお、議論する余地があるものを含んでいる。

 ただ、私個人としては自分が見ている“いま”との齟齬も感じてはいる。90年代的な少年犯罪は今は昔という感じだし、ここ最近で起きた犯罪――解説にある秋葉原の無差別殺人をはじめ、相模原障害者施設殺傷事件、京都アニメーション放火殺人事件、元総理銃殺事件などを見ていると、そういうバラード的な管理社会理論で世界の歪みを見つめることができるかというと、なんか違う気がしてしまうのも正直なところだ。彼らは世間から権威的に振るわれる「正しさ」に反発したのだろうか?

 一応のところ、私たちの属する社会はオーウェル的なものでもなく、ユートピア型でもなく、むしろ管理する主体はあいまいなまま、杜撰な社会道徳や常識と呼ばれるものが権威的に都合よく使用される醜悪な空間でしかない。そんな場所で発生する生きづらさ。むしろそこでは、みな一生懸命そこでの「正しさ」に支配された小さなコミュニティに入ろうと腐心しているのではないか。

 その現実の反映のようにインターネットという空間もまた、人を積極的にコミュニティに入り込むように仕向け「こちら側」であることに「正しさ」を感じさせている。しかし、それはあくまで仮想的なものでしかなく、現実の生きづらさをなんら解消しない。

 管理や権威的な「正しさ」による生きづらさというよりは、生きる上で「正しい」場所に入ることができない――自分が望む場所に本当の意味で入ることができない、排除されていると感じている人間の増大。これがたぶん、いま現在、私たちが直面しているモノの源泉なんじゃないか、そんな気がしている。

少女は殺人を見たか:アガサ・クリスティー『ハロウィーンパーティ』

ハロウィーン・パーティ (クリスティー文庫)

Impression

 ケネス・ブラナー版の映画第三作が『名探偵ポワロベネチアの亡霊』というタイトルになっていて、聞いたことないけど、クリスティ財団の公認パロディというか、公式同人の映画化なのかな、と思っていたら本家の『ハロウィーンパーティ』の映画化とのこと。そういえば未読だったし、映画の予告はベネチアが舞台になってて、なんか降霊会とか出てくる思いっきりゴシックなミステリだったので興味が湧いて読んでみました。読むと、舞台はイギリスのいかにも噂がすぐ伝わるような狭い田舎町で、映画で出てくる降霊会とか別にないし、ゆえに幽霊がどうとか超自然な要素も特にない。

 本作はクリスティ最晩年あたりの作品で、ポワロシリーズとしては最後から数えて三番目ですが、『カーテン』は書かれたのがだいぶ前なので実質最後から二番目の作品にあたる。正直、そこまで期待はしていなかったというか、誰もが認める代表作じゃないし、映画はそろそろ三作目で、より自由に脚色しやすそうな作品として選ばれてそうな気もして、ミステリとしてもそこまでじゃないんじゃないか、と思ってたわけですが、さすがはミステリ史にその名を刻む巨匠というか、代表作レベルじゃないにせよ、ミステリの妙味をそれなりに織り込んだ作品になっていて、最後の最後まで読者を騙すことに腐心しています。意外と悪くなくてファンなら読んで損はないと思いました。そして、この作品をどういう風にして「ベネチアの亡霊」という作品に仕立て上げるのか、映画への期待も高まりますね。

 

あらすじ

 推理作家のオリヴァ婦人は、ウドリー・コモンにある友人の家に滞在中、友人とともにハロウィーンパーティの準備をしに富豪未亡人の屋敷に行くことになる。そのパーティの最中、一人の少女が突然、自分は殺人現場を見たことがあると言い出した。村の有名な虚言癖の少女で、みんなは彼女の言うことを真に受けている様子ではなかったが、パーティの終わりに図書室で彼女が死んでいるのが発見される。リンゴ食い競争のためのバケツに首を突っ込んで死んでいたのだ。彼女は本当に殺人事件を目撃していたのか? そしてそれはどのような事件なのか? オリヴァ婦人に請われ事件に乗り出したポワロは、過去、村で起きた複数の殺人事件・失踪事件について詳しく聞き込みをしていく。ポワロは村で起きていた事件の綾を織り、少女の殺害という事件の真相を導き出せるか。

 

感想 ※特にネタバレはないです

 後期クリスティにしては、かなり早い段階で殺人事件が起き、そこを起点にして過去の事件を掘り返してゆき、それらがどう組み合わさり、現在の事件へと向かっていったのかをあぶりだす構成。なかなか登場人物が多く、中盤はポワロによる聞き込みがメインで、割と王道な本格ミステリ的に回帰しているような印象がありますが、現在の少女殺害事件そのものよりも、過去の事件の真相こそがメインになるのは著者らしいか。狭い村で色々なうわさが飛び交い、ポワロは聞き込みの最中に住人による若者論やら外国人への偏見なども聞かされていきます。なんかこの辺の若者論なんかは次に書かれた問題作『フランクフルトへの乗客』へのスプリングボードな雰囲気がありますね(汗)。

 それはともかく、聞き出した複数の過去の事件がどう組みあがっていくのかという興味とその真相はなかなか良くできていますし、少女の事件の方も単純なロジックではありますが、シンプルに犯人に直結するロジックは悪くないです。そして、本作はけっこう犯人が印象深く、抽象的な純粋悪みたいなものをまとっていて、その辺は『カーテン』の犯人の匂いがしますね。

 最後にどうでもいいですが、舞台装置のハロウィーンについて、解説者氏は「ときおりミステリでも見られるドンチャン騒ぎのたぐいは、どちらかというとアメリカに特有の現象だそうで、幸いにもこれだけは日本に定着しなかった」と述べていますが、残念ながら、それから二十年余りでだいぶ嫌な感じで定着しそうな雰囲気ですね……。

 まあ、とにかく、この作品の舞台を大胆にもベネチアに移してどんなふうに脚色されるのか、ひたすらゴージャスなケネス・ブラナー版の第三作「ベネチアの亡霊」の公開を楽しみにしつつ待とうかと思います。

 

新訳も出てるのでこっちで読んでもいいかも。旧訳も特に支障はなかったですが。

名探偵ポワロベネチアの亡霊』予告


www.youtube.com

映画『WXIII 機動警察パトレイバー』

 そういえば観てなかったなこれ、ということで観てみた。

 本作は、機動警察パトレイバーの劇場公開アニメ第三弾となる、のだが前二作の『機動警察パトレイバー the Movie』『機動警察パトレイバー 2 the Movie』――まあいわゆる「押井版」と比べると知名度というか、かなり影が薄い存在に見える。

 監督は『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』の高山文彦。ポケ戦はガンダムOVAの中では一番好きだ。脚本は「とり・みき」、作画監督には黄瀬和哉がいるし、音楽はおなじみ川井憲次でクオリティ自体は決して悪くはない。というか、街の作画は押井版の二作に勝るとも劣らない、かなりいいものだ。

 しかし、これがあんまり人気ないのはまあ、観てみればすぐわかる。パトレイバーと銘打ってはいるものの、いつもの「特車二課」のメンバーはほぼ出てこないというか、物語においてメインでは全然ない。本作は原作漫画の「廃棄物十三号」を基にしてはいるものの、アプローチが完全に所轄署の刑事視点で展開されており、言ってみれば、「パトレイバー the Movie」の刑事二人が延々と街を歩いて聞き込みをするシーンがメインになっている作品、それがこの映画なのだ。実のところ、コミックの映像化というより、ほとんどオリジナルの劇場版1・2の後に、ようやく原作の「廃棄物十三号」の映画化を期待したらこれ、ていうのは、確かによけいファン受けはしないだろうな、という気はする。とはいえ、それを差し引いても、めちゃ地味な映画なのだ。

 じゃあ面白くないかというと、そんなことはなく、結構面白い。楽しいとか、エンタメ的に面白いというよりは、映画作品として面白いというか。

 作品のトーンは恬淡として暗い。てか、原作の「廃棄物十三号」は割と王道的なSF怪獣モノみたいなテイストで、それをまあこんな悲壮的な話に脚色したよなあ、という感じだ。自分としてはこっちの方が好みではあるし、怪物と母娘の物語として、そのどうしようもないラストシーンは、観る者の胸に重く沈み、その作品を忘れがたいものにしている。

 『伊藤計劃映画時評集 2』では、この映画をあるワンカットのためにある映画と評している。確かに、この映画はクライマックスに出てくるワンカット、そこにこの映画の悲壮さというか、なんてことだ……という感覚が込められている。それも、これ見よがしの決めカットではなく、ほんとうにさりげなく。異様でありつつもさりげなく見せられたその意味が分かるまでの認識のタイムラグ、それが自分にこの映画を忘れがたいものにさせているのだと思う。

 確かにほとんど地味な刑事ドラマみたいな捜査シーンが多いし、しかもそれが「劇パト1」ほど、演出的に寄与していないとは思う。「劇パト1」は刑事二人が街を行くことが、犯人の見てきた街をたどることであり、ひいては事件の中心となる「バビロンプロジェクト」を批評的にみせ、映画の中でなくてはならない要素になっていたが、本作のそれは、「劇パト」だからやっているような形になっていて(しかも長い)メインの物語と演出的にあんまり結びついていない。「彼女」が住んでいた街、「彼女」がこれからも過ごし続けるはずだった街、という風に演出できていたら、もっと違った感じになっていたような気はする。

 まあ、それはともかく、自分は結構悪くないと思ったし、どこか登場人物も画面も陰鬱なこの映画に、なんとなく惹かれるものがあったことは確かだった。

 

 

そんな希望:映画『SAND LAND』

本当に泉なんてあると思うか?            『SAND LAND』より

 28日に鳥山明の漫画原作の映画『Sand Land』を観に行った。レイトで久しぶりに観客自分一人という事態。ホラーじゃなくてよかった、みたいな。映画館の暗がりで一人っていうのは地味に怖いところはあるが、知らん人と二人というのもそれはそれで怖い感じもするし、貸し切り感も楽しめる一人の方がいっそのこと気が楽なところかもしれない。

 それはともかく、久々に鳥山絵が存分に動くところを観てきたわけだが、本作は話としてはかなりシンプルだ。水を国王が独占する砂漠の世界では深刻な水不足が進み、人々が困窮する中、一人の保安官が泉を求めて、人間の「敵」たる魔物の皇子とともに旅をする話だ。

 マッドマックス・フューリー・ロード風のプロットではあるが、こちらはジュブナイル風味の冒険活劇色が強い。鳥山キャラらしいコミカルなキャラや著者のモデラ―としての趣味や造形力に裏打ちされた戦車が砂漠を疾走し戦車戦を繰り広げるところは、この映画のアクションの白眉だろう。砂漠を駆ける冒険感として、そこまで目新しいものはないかもだけど、砂漠を乗り物で駆けるのはやっぱり楽しい。

 また、原作と一緒に読めば、演出をどうブラッシュアップしてたり足したりして映画として魅力あるものにしているのかもわかる。演出によって、より映画らしく画面のスケールがアップしていたり、キャラクター性や物語に奥行きを持たせるものが追加されている。週刊連載で書いている漫画はどうしても演出が引き算的になって、そこを映画は物量を増やす感じで、特に終盤がいい具合にスケールアップしている(虫人間の数をかなり増やしたり、ゼウ将軍が空中戦艦に乗ってきたり、ゼウとラオとの対決シーンを用意している)。まさに教科書的と言ってもいいくらい見事な原作のブラッシュアップがなされているので、原作と一緒に観るとまた面白いと思う。

 本作は、劇場アニメとしてはプロットも設定もかなりシンプルなわけだが、鳥山明のどこかカラッとした登場人物や世界は、クソでか感情とかういうウザ目の言葉でキャラに湿っぽく耽溺するのを適度にあしらっている感じがして、個人的にはそこも作品全体の風通しのいいシンプルさにつながっている気がする。

 悪を打ち負かし、真実を明らかにし、世界が良くなっていく予感をここまでストレートに力強く組み立てる物語が、この時代にどういう風に受け止められるのかは正直よく分からない。ただ、この物語を観終えて、自分は少しうるうるきたというか、何となく泣けてきちゃったことは確かだ。それは別に映画のドラマに感動したしたとかそういうものよりも、世界が少しずつ善くなっていくという予感が、それこそ水の流れのようにこの砂の大地に広がっていく、そんな光景がなんとなく眩しく見えたせいなのかもしれない。

 それはフィクションにしかない希望。だけど、フィクションだからこそ描ける善なるものへの希望。スクリーンのこちら側の自分たちには、それこそ幻のようなものなのかもしれない。本当にそんな希望なんてあると思うか? それでも、今はフィクションですら、直球に描くことがなかなか難しくなってしまったかもしれない、当たり前の善が当たり前のように吹いていく――スクリーンから吹いてきたその風の清々しさを、私は忘れたくないと思った。

 

主題歌に乗せためちゃいいPVが出てるので紹介させてくれ。観た後にも沁みるぜ。

www.youtube.com

 

冒頭十五分も観れる。漫画の第一話分あたりですね。しかし、このサムネは観客を引き込むのに効果的なのか……わからん。


www.youtube.com