蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

いまもそこに、ぼくはいるか:宗田 理『ぼくらの七日間戦争』

ぼくらの七日間戦争 (角川文庫)

 

 こどもの日……ということだからではないが、観ていなかった実写版を観るにあたって再読してみた。初めて読み、そして何度も読み直した中学生の時以来である。

 読む前は内容忘れていたし、正直、「今」読んで面白いのだろうか……という危惧がなかったといえば噓になる。当時は名前すら知らなかった学生運動というものが色濃く反映されたこの作品を、あの時と同じような形で楽しめるのか……

 結果としては、読んでいた当時と同じように楽しめたと言っていい。所々、時代を感じさせる言葉の使い方とかないわけではなかったが、この作品に込められたものは、今でも普遍性を持つと言えるだろうし、そもそも、この作品が刊行から四十年近く読み継がれていることからも分かる。それにしても、暴力教師という存在は当時ほど普遍性はなくなったものの(たぶん)、「大人たち」の汚さはなお健在という感じで、「えらいやつが立派なことを言うときは、気をつけたほうがいい」という状況は絶賛継続中である。さらに、道徳教育を叫ぶ連中(与党政治家や官僚)が全く道徳的ではないどころか、職業倫理すら持ち合わせていないのだから、作中の大人たちより酷いくらいである。

 とにもかくにも読了してみて、内容を忘れていたように思えて、文字を追うはしから、かつて読んでいたという感覚と記憶を取り戻していき、当時この本を読んでいた自分なるものが甦るかのような読書体験は、なかなかないというか、けっこう新鮮な体験のように思えた。私自身、あの時から何も変わっていないのかもしれないが、この小説を冷ややかに見る人間になっていないことは、それはそれで悪くないように思えた。

 

あらすじ

 一学期の終業式が終わり、夏休みに入ろうとする日に、東京の下町にある中学校――その1年2組の男子全員が行方知れずになるという珍事が起こる。彼らに何が起きたのか、事故や誘拐を疑う親たちをよそに、彼らは荒川河川敷の廃工場を「解放区」として、日々彼らを締め付ける大人たちの規則から自由になっていた。しかし、その「解放区」に参加するはずだった柿沼がじっさいに誘拐されたことが発覚。やがて「解放区」を見つけ、彼らを連れ戻そうとする大人たちと戦うなか、廃工場内で寝起きしていた老人、瀬川の力を借りつつ、「ぼくら」は柿沼を救出する計画を立てていく。

 

感想

 まず、この作品は大人と戦う話ではあるのだが、実写映画で描かれた大人たちと格闘するような「武力」で戦う要素はほぼないと言っていい。先生たちと戦うシーンも、トマトを投げる以外は戦うというより、クイズを出したり、迷路に誘い込んでからかう程度で、最後に出てくる警察官とは初めから戦う気なんてない。そして、彼らの敵は、最終的に先生や親たちというよりは、自己本位に規則を人に押し付けたり説いたりするくせに、その実、自分たちはその規則を平然と破るような人間――談合している市長やその周辺の大人たちとなる。

 私は、この辺が割と重要な気がしていて(というか、読んでいればわかるが)、彼らは大人たちと闘争したいわけじゃない。ただ、彼らが作る自己本位な規則に反旗を翻し、そこに言われた通り順応するしかなかった自分たちを、誰かの作った"そうあるべき”場所から逸脱させたかったのだ。

 そして、自分たちで計画したことを自分たちの力で実行すること、それこそが彼らの戦いであり、「解放区」を成しえた時点で、ほとんど彼らの戦いは成功したようなものなのだ。だから、彼らは大人たちが本気で乗り込んでくる前にさっさと撤収し、「解放区」に別れを告げる。もうそこに逃げ込む必要はない。彼らは、彼らの知恵で友人を救い、自らの善意によって犯罪に走らざるを得なくなった誘拐犯を助け、そして「汚い大人」たちに一泡吹かせる。そんな、自分たち自身の力で戦う術を得たことこそが、彼らにとっての「解放」なのだから。

 まあしかし、そういう御託はともかく、自分としては、もう彼らよりもずっと年上になってしまったのだけれど、それでも、初めてこの本を開いたあの時と変わらず、彼らの横で星を見上げ、慌てふためく大人たちをゲラゲラからかい、そして花火が上がるのを見ることができた――それが、なんだかとてもうれしかったのだ。