蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

樋口有介『ぼくと、ぼくらの夏』

ぼくと、ぼくらの夏 (創元推理文庫)

 

Impression

 樋口有介の作品を読むのは、本作が初めてだ。どっかで、赤川スクールの優等生と言われていたという文章を読んだことがあり、その印象から、ユーモアミステリ(と言っても赤川ミステリは実のところユーモアだけではないのだが)の書き手かと思っていて、作品もコメディ調なのかと思い込んでいた。

 今回読んでみて、すごくいい青春ミステリを読んだと感じた。まずは、この作品についてよく言われるように、語り口の気持ちよさもそうだが、ミステリとしても、主人公とヒロインによる捜査がきちんと面白く描かれてあり、犯人の指摘も本格ミステリほどではないにせよ、シンプルだけどはっきりした手がかりが用意されていた。

 あと、新装版のこの表紙がすごくいい。青春小説の最近の流行りといえば流行りな感じの青っぽい表紙なのだが、このどこか懐かしくアンニュイな趣がする、夏の宵の口な雰囲気は、素晴らしく作品の内容を掬い取っていて、この表紙のイラストも含めて大切にしたい一冊だった。

 

あらすじ

 それは、暑い夏の日の朝から始まった。その日、ぼくは刑事の父親から同級生の死を知らされる。岩沢訓子という高校二年生の女子の死。それも自殺だという。しかし、同級生と言っても、ぼくは特に彼女のことを知らない。だから、特にわき上がる感情もない。父親に特に伝える情報もなく、ぼくの夏休みに起きた突飛な出来事――そういう事実として通り過ぎていくだけ――そんな風になるはずだった。

 しかし、そうはならなかった。それは、ぼくがその事実を酒井麻子に伝えたからだ。彼女とは、新宿で偶然出会った。彼女も岩沢と同様、特に話したことのない女の子だった。ただ、顔を合わせたからには知らん顔をして別れるわけにもいかないだろう、そんな感じで、天気の話からの流れで岩沢訓子の死の話を持ち出しただけだ。ただ、酒井麻子はぼくではなかった。それはつまり、岩沢と中学まで親友で、高校になってからどこか疎遠になってしまい、それを気にする酒井麻子という女の子だったということだ。

 岩沢の最後の様子について知りたがる酒井麻子につき合ううちに、ぼくは、彼女と共に岩沢の死の理由について調べていくことになる。それは、ただの成り行きのはずだった。だが、ぼくの日常は、酒井麻子との調査の日々へと変わっていく。そして、調査するうちに、岩沢の自殺について、それははたして本当に自殺だったのか、という疑問が浮かびあがっていく。事件の真相を求め、さらに捜査を進めていくぼくら。

 なんてことのない夏の日々は、いつの間にか、事件をめぐる、ぼくらの夏に変わり始めていた。

 

感想

 読んだ人が口をそろえて言うように、この作品の美点は、その文体――語り口にある。そしてそこには、軽快でフラットな視点で進みつつも、どこか所々に滲む他者への優しさがある。かといって、"寄り添う”というものでもなく、それはどこか適度な気軽さだ。

 それからまた、主人公の語り口には、クールで洒落たところはあるが、平成以降に出てきた語り手たちほど、社会や人への傍観的な距離のとり方とか、ぐるぐるする自意識へのこだわりがあるわけでもない。ミステリとしても「謎を解く私への是非」、みたいな意識に深入りしたりはしない。そういう意味では、「現代的」ではないのかもしれないが、私は、時代を感じさせつつも"そうである私”にこだわらない彼のスタンスが、とても清々しいものに感じられた。解説者はそれを"他者への想像力”という的確な言葉で分析している。そしてそれが、この語り手の優しさの源泉であると。

 実のところ、事件の真相は語りの軽やかさとは対照的に、なかなか陰惨で、主人公が最後に対話する人物の中にある昏い情念は、他者を引きずり込もうとする虚のようなやるせなさがある。そこに、主人公はその優しさで対峙する。

 他者への想像力――まさにそれこそが、この小説に込められた、今なお色あせない本質的な部分だろう。同情や共感ではなく、一人の他者として、その人のことを考えること。それが、この語り手の優しさであり、最後に対峙するその人にとって、それこそが、わずかながらの救いになったのかもしれない。