蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

目の前に、石のような言葉が遺る:宮崎駿『君たちはどう生きるか』

※ネタバレ前提で語ってますが、書いてる本人もだんだん何が何だかわからんくなってます。 

 

 なんかすごいヘンな映画を観たような気分だった。二度目を観れば何とかまあまあ流れは整理されるが、やはり奇妙という印象は変わらない。たぶん、宮崎作品の中でいちばん変な作品じゃないかしら。「ポニョ」や「ハウル」もヘンはヘンだが、映画的なクライマックスは用意され、人物たちは豊かな表情を見せ、その感情の動きはどこか高揚感があるもので彩られていた。一方、この作品は多くの人物――特に主人公の表情や声のトーンがかなり抑えられていて、また、登場人物の一人の少女が涙を流すシーンや最後に親子三人で抱き合うシーンとかも、どこかさらっと流される。終わりのシーンもかなりあっさりで、余韻のようなものを映画の時間として与えてくれない。冒険ファンタジーのような体裁を装いつつ、冒険がもたらす成長や高揚からは徹底的に背を向け続ける。

 というか、この映画は完全に“今、ここ”といったものや観客から背を向け続ける。タイトルからしてさんざん警戒されていた「説教臭さ」というものはみじんもなく、というか、この映画は観る者に対して積極的に語り掛けることをほとんど放棄している。

 これまで、宮崎駿はその身からわき上がるような思いを創作に乗せて観客にぶつけてきたはずだ。自然、生と死、世界の美しさ、生きることの素晴らしさ、この世は生きるに値する――それをパラノイアックなまでにたたきつけてくるような作品群。伝われ、伝われ、伝われ……そういう意志を映画に込めてきたように思われる。しかし、この作品にはそれが一切ない。そういうのを彼は一切気にしてはいない。誰に語るでもないし、おそらく誰も見ていない。いままで大人たちなんてどうでもいいけど、最低でも子供たちへの視線はあったはずだが、今作ではそれすらもどうでもいいと思っているのではないか。なんなんだこれは。

 この映画において、監督は徹底して自分自身を見つめている。

 かつて監督はTV版エヴァの時期の庵野秀明に対して、自分という井戸を掘ったところで、カタツムリが殻の中でグルグルするようなもので、あまり意味がないというようなことを言っていたはずだが、この作品はその言葉が宮崎自身にそっくり返ってきそうな、深い虚が空いている。私はその虚をどう観ればいいのか、いまだにわからない。

 自分が知っているかつての巨匠――横溝正史中井英夫のように、自分の仕事に何の意味があるのか、自分の人生は何だったのか、ということを強く意識しているのかもしれない。

 児童文学的な行きて帰りし物語という骨格で冒険物語的な体裁をとりながらも、この物語はものすごく穏やかで、森閑とした空気をまとい続ける。それはアクションにも顕著で、飛翔はおろか、人物が疾走したり飛び跳ねたりすることがほぼない。飛翔シーンはあるのだが、それは鳥が飛ぶというごく当たり前の光景にほぼとどまる。アニメーションにおける躍動感というものをかなり抑制していて、逆に絵を見せる方向性に注力しているように思える。だからなのか、アルノルト・ベックリンやジョルジュ・キリコといった絵画モチーフの風景が頻出する。かなりあからさまなまでに。

 そこだけを観ると、「絵の世界に行った」と言われたりした黒澤のカラー作品、特に『夢』的な感触に近いものを感じたりする。観る夢としての映画。というか、言葉自体がこの映画はほとんどない。云ってみればキーワードになるような言葉が。

 前作の『風立ちぬ』が「美しい」を連発していたが、これまで宮崎映画というのは、言葉で強く刻みつけてくるものがあった。言葉もまた作品を支え、作品を形作っていた。

 一番強い言葉がタイトルの言葉であり、この言葉は作品に入る前から異様に浮き上がっている。さらに異様なのは、そのタイトルの言葉が、この物語と何のつながりもないというか、物語を象徴するようなつながりが全くないことだ。同タイトルの本の内容とのつながりも見出すこともまた難しい。

 なんというか、このタイトルの言葉を刻みつけるだけに作品が存在しているかのようなのだ。これはあまりにも異様なことではないだろうか。本当に言葉だけがある。そこにあったはずのものを監督は周到にくりぬいているのだ。

 原作は、主人公のコペル君が世界に見出した「人間分子、網目の法則」というものから出発する形で、人間は歴史の流れや人との関係性の中で生きていることを見つめ、その中で自分は消費専門家でしかないことを自覚し、何かを生み出せなくともよき人であることはできるとして、そうあろうとすることを決意する。

 翻って、本作は原作の要素を何かしら組み込んであるかというと、普通に観るとそれを発見することは困難ではないかと思われる。本は一応、重大なパーツとして演出されてはいる。母から自分へと書かれたそれを発見した主人公はそれを読むことで、自分の新しい母となる叔母を探す行動へと移る――“よき人”であろうと行動し始める(わかりやすいのはペリカンの死体を埋葬しようとするシーンかもしれない)。

 しかし、本を読んで涙を流す主人公の心の動きは、同タイトルの本を読んでいても分かりづらい。本書の何に感動したのかは特に示されはしないし、なにも知らないで観るなら、本の重要性にも気づきづらい。

 とにかく、同タイトルの本と本作の関係性はほぼ、タイトルのみといった方がいい。この問いかけのために世界を作った。そしてその世界は、延々と死の匂いに満ちている。いわゆる黄泉の国めいた、「千と千尋」の電車シーンのようなトーンでその世界は描かれ、そこを主人公はめぐり続ける。そして、自分を呼んだ一族の大叔父のもとにたどり着いたとき、彼は大叔父からこの世界の継承を託される。

 大叔父は積み木を積み上げている。これはまあ、創作の隠喩であろうことは分かる。組み合わせ、形を作ることで、一日を維持する、そういう創作の仕事。ちなみに、積み木の数が十三なのはあまり意味がよく分からない。宮崎駿の本作までを入れた監督作品(TVの未来少年コナン+長編劇場作)という指摘もあるが、何とも言えない。

 ただ、そこに滲むのは、割と創作モノにありがちな、創作が人を救うとか、とにかく善なるものだとかいう、自意識過剰気味の自己肯定感ではなく、ただただ淡々と穏やかで平和な世界を創ることに挑み続けている姿だ。後継者は自分の血縁者でなくてはならない、それが石との契約なのだ、と大叔父は言う。継承し、君自身の穏やかで平和な世界を創るのだ、と。

 “創作”を継承する上で血縁みたいなものを持ち出すのはどういう意味なのか。昨今の趨勢からすると逆行するようなこれも正直よく分からない。ある意味この大叔父は宮崎駿であり、主人公もまた宮崎駿ということなのか。終盤に現出するこの捻じれた継承のループめいた構造はなんなのか。

 “少年の宮崎駿”たる眞人少年は、自分の中にある悪意を理由にそれを拒否する。そして、乱入してきた第三者――大叔父が持ち込んだインコの末裔であるインコ大王が積み木を叩き切ることで、大叔父の世界は崩壊する。

 妄想を組み上げ、崩壊させることで、この奇妙な作品は作品としてギリギリのところで成立している。

 作品の核にいるこの大叔父も特に訴えかけるような言葉を持たない。大叔父が目指す穏やかで平和な世界も具体性を欠いているし、さんざん死の匂いに満ちた世界を見せつけられてしまうと、その穏やかな世界の果てっていうのは死者しかいない世界なんじゃないのか? という気もする。もしくは自分しかいない世界。

 宮崎駿にとって、もはや自分の中のものを外部に伝えるということ自体が意味がないのかもしれない。祈りですらなく、そこにはただ、問いかけが残される。

 最初の方で、私は監督は観客に背を向けていると云った。それはネガティブな意味というよりも、映画のたたずまいに近い。監督はこちらに語り掛けず、後姿を見せるようにして、遠ざかっていく、そんな映画のたたずまいだ。もしかしたらまた気が変わって、こちらをくるりと向き、いつもの調子でガミガミ言いながら次の作品を携えてくるのかもしれない。でも今は、その黙して去っていくその背中を、じっと見つめるしかできないような、そんな気がするのだ。

 作者はもはや何も語りかけはしない。だからこそ、ただタイトルとして浮かび上がる言葉、「君たちはどう生きるか」という問いかけだけが、この作品に触れる者の前に厳然とそびえている。それはもう、半ば死者からの遺言めいていて響くようだった。

 

 

 正直、内容的には私にはよく分からないことが多すぎる。ただ、タイトルの問いかけだけが、異様な形で刻印される、そんな映画だった。