蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 三巻あたりで読むのが途絶えてた『映像研には手を出すな』をなんとなく再度手に取り始めた。正直、四巻あたりは眠かったのだが、五巻後半から面白く感じはじめ、現行の八巻まで読んだ。

 映像研は、良いなと思うところはあったけど、当時の「ブーム」的なものにはあんまピンと来なくて、オタクあるある? な主人公たちの妄想部分も興味があんまもてないというか、ついていけなくてダルくなることが多くて遠のいちゃってたのだが、巻が進むにしたがって、その妄想部分と彼らが実際にアニメを創る部分とがリンクし始めて設定垂れ流しみたいなのにあんま興奮しない自分みたいな読者でも物語に入っていけるようになっているように感じる。

 八巻はこれまでの要素が一つのピークを迎えて、大人と子供というのが、“創作”という触媒によって融解していくような、ある意味ものを創る人間たちの理想ともいえる光景には、なかなか心が動かされるものがあり、ちょっと泣けた。まあ、そうはいっても大人たちには黒澤の『生きる』的なオチが待っていそうな気はするが。それを含めて理想的な光景だからこそ感動するのだろう。なかなか良かったし、次の展開も期待させる。

 そういえば話は変わるのだが、こういう感じで集団で何かをつくるという経験、自分は特にないというか、学園祭でクソテキトーな脚本の舞台で照明やったり(本番では上級生がやったので実はやってない)、展示でテキトーなものをつくったりぐらいしかない。一応、小学生の時、友達と二人で漫画を描いたこともあったが、すぐにコンビ解消された。てか、最初は小説を書こうとして、でも一人じゃ書けなさそうだから誰かと一緒にやりたいなー、という適当な感じで誘ったら相手が漫画をやりたいとなり、じゃーそれで、みたいな感じで始めたのだが、私は漫画は当時ほとんど読んだことがなく、友達の漫画にへたくそなモブを描いたり、テキトーなセリフを書いているうちに、それぞれで描こうぜになり、なんも思いつかんので、友達の描いてるのを見ながら同じ冒頭を描いたら(といっても友達と違ってクソ下手な絵で、おまけにコマ割りの概念もなかった)見せてくれなくなった……哀しい過去だ。

 創作系の物語をよくみたりするのは、それに同調するというよりは、彼らが何を考えているかよく分からない、という部分が大きい気がする。彼らは「好き」というエネルギーで動いていることがよくあるのだが、その「好き」というのも自分とは何か違うような気がする。自分は読書が「好き」ということになっていて、そういうことを自分でも他人に言っていることもあるが、実のところ、他にしたいこともないしと穴埋め的にやっていることのほうが大きい。何がなんでも本を読みてえとか、本が読めないから仕事辞めます(まあ、そんな奴は北上次郎ぐらいしかいないだろうが)とか、そんな強烈な欲求に突き動かされているかというそうでもない。強いて言えば、他人が何を考えているか知りたいから、ぐらいのテンションのような気がしている。

 小説的なものを書いてみたのも、そうしたいからというよりも、それをやっている“向こう側の人”がどんなものを見ているのか、読んでるだけじゃわからないそれを感じてみたかったからというのが大きいのだと思う。それで結局のところ何かがわかったか、なにかを見ることができたかというと、すげーめんどくせー、ということぐらいしかわからなかった。マジでめんどくさいのだ。タイトルや登場人物の名前を考えるのからしてめんどくせえ。つじつまを合わせるのがめんどくせえ、キャラを被らないように立てるのがめんどくせえ、わざとらしくしないようにするのがめんどくせえ、しゃべりや表記に一貫性を持たせるのがめんどくせえ、もろもろをひっくるめて“読みやすく”そして“面白く”とか、そんなことしてやる義理ある⁉ みたいな。まあ、やる人はそういうのを感じないからやってるんだろうな、ということは分かったので、それはそれで意味はあったように思うけど。

 結局のところ、分からないものは分からない、見えないものは見えない。そこには深くて広い谷が広がっている。とはいえ、分からないからこそ、そういう人たちに興味を持ち続けるのかもしれない。