蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

描かれないことが、物語を黙示する:多島斗志之『クリスマス黙示録』

多島斗志之裏ベスト1 クリスマス黙示録 (徳間文庫)

 

 多島斗志之、実は初めて読みました。『黒百合』や『不思議島』で名を聞いていた作家ではあったのですが、積読ばかりで読んでませんでした。

 今回、裏ベストと言われる本作から入るのはどうなんだという気もしつつ、裏ベストという言葉にひかれて読んでみたのでした。

 本作は、ミステリ的な要素もありつつ、基本的にはターミネーター型な、付け狙う者とその標的、そしてその標的を守る者が繰り広げる攻防のサスペンスがメイン。

 

 舞台は一九九〇年。日米の経済摩擦が最高潮を迎えるアメリカで、日本人留学生がアメリカ人青年をひき殺す事件が起きる。ひき殺された青年を含めた、アメリカ人たちの態度が、留学生の女性を恐慌状態にさせ、結果、青年をひき殺すに至ったとして、彼女は告発されることなく事件は処理された。

 それに納得できない青年の母親、ザヴェツキーは復讐を誓い、強制送還で逃げ帰る加害者をつけ狙う。日本人留学生の保護を押し付けられたFBI捜査官タミ・スギムラは復讐の鬼と化したザヴェツキーから留学生を守り、その復習を阻止できるか――という物語。

 

 バブル崩壊直前の日本が、その「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の最後の光芒を自覚せぬまま、アメリカをはじめ、海外を買いあさっていた時代。そんな時代に書かれたこの小説は、当時の時代性を超えて今でも読まれるなにかが込められている。

 この作品は、解説でも言われているように、物語の中心――というか、その発端をあえて空白にしている。タミが守ることになる留学生――カオリは登場時、どこか浮ついた娘らしい様子が描写された後は、自分をつけ狙うザヴェツキーやひき殺したその息子について、言及したりそれについて内面を吐露しない。追い詰められて「私は悪くない」と叫んで自分側の事情をまくしたてたりするような、よくある作劇は徹底して排除されている。最後の最後までカオリという女性は、タミが職務的に守る対象でしかない。

 日本人差別の風が吹くなか、偏執的でいささか常軌の逸した復讐心を向けるアメリカ人の母と、そこから辛くも逃れる日本人女性(それをサポートする日系三世のFBI捜査官)、という表面上の構図は、当時そこをメインにして受け取られたのかはどうかわからないが、一応そのような形の「エンタメ」として読み終えることもできるように書かれている。しかし、解説にある通り、事件の発端である日本人によるアメリカ人の轢殺が、果たしてアメリカ人側の一方的な要因によるものなのか――物語が終わった後も、それこそ中心のピースを欠いたパズルのごとく、その空白が読む者に、何かを訴え続ける。

 著者はこの小説において、ことさら詳しく描写するのではなく、読者の「もしかしたら」という感性に賭けている。真実を空白にし続けることによって、物語を宙づりにし、それが時代を超えていまだ読者のこころをとらえる。

 また、この小説の主である二人の人物――タミとザヴェツキーの周辺描写もこの物語の特徴的な部分だ。

 主人公のタミは、アメリカ人である。しかし、日米摩擦下での日本人加害者というこの事件によって、彼女の日系という部分が、彼女を「アメリカ」から遊離させる。日本人ではないが、他のアメリカ人から「日本人」というフィルターを通されてしまうことで、彼女の所属は揺らいでいく。この、タミというキャラクターは、そんな揺らぎが集約されたキャラクターである。日系であること。FBIという警察内部において歓迎されない外部からの「エリート」であること。そして、そのなかでも数少ない女性であること。この事件の渦中で、タミは強固な所属するものを持たず、ゆえに「所属」がひきつけるシンパシーからも遊離している。

 シンパシー(共感性)というものに、タミとザヴェツキーは翻弄されているところがある。どちらもアメリカ人としてはマイノリティな部類に入る日系と東欧系。しかし、「日本人」への反共感性からタミは孤立を強いられ、逆にザヴェツキーは所属する警察官たちから共感性を向けられる。しかし、その共感性がザヴェツキーの行動にアクセルを踏ませた側面があり、また彼女にシンパシーを寄せる者が、結局のところ自分のために共感性を寄せているただの他人に対して、共感性を示さなかったのが彼女の妹というのは、なにか皮肉なものを感じさせる。一方、タミは前述したように、そんな共感性から注意深く排除されている。そもそもカオリすら、日系という彼女の属性に特に興味を示さず、「日本人」的な共感を求めたりもしない。タミもまた、カオリに彼女の境遇や父の死などに同情を寄せつつも共感らしいものは特にない。

 そんな感じなので、タミ視点で大半が進むこの物語は、どこか低体温な雰囲気の中、人が次々と死んでいき、そしてその死もまた、共感の対象になることなく、通り過ぎてゆく。この物語はサスペンスを主体としたエンタメとして読ませながらも、母親の復讐にも、付け狙われる日本人娘の境遇にも、それ以上共感させないラインが引いてある。人物に寄り添わせない筆致で、最後まで人物との距離を保つ。そして、著者はただただ、何かをそれとなく示すだけなのだ。

 真相そのものやそれが正しいかどうか、ではない。それが確定されない「かもしれない」だからこそ、読む者にその空白を刻み付ける物語であり、それは時代性を超え、今でもその物語に、読む者を佇ませる力を持っている。