蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

都市より生まれし者たち:映画『THE BATTMAN』

 ちょっといまさら感あるけど、ようやく書けたので。

 ※時間たってるし、観てる人は観てるだろうから――ちょっとネタバレありな感じです。

 

 『THE BATTMAN』――『ザ・バットマン』は、スーパーマンに並ぶアメリカ最古参のヒーローの一人であるバットマンの新たな作品だ。単独での映画作品はノーランの「ダークナイト・トリロジー」以来となる。

 まずこの映画三時間とめちゃくちゃ長い。そして、めちゃくちゃ暗い。話もだが画面もほとんど明るい場面はないし、雨もよく降っていてじめじめしている。ここ最近のマーベル映画に親しんでいると面食らうかもしれないが、暗がりに紛れるヒーローの得体の知れなさというものをたっぷり味わえる作品なので、そういうのが好きな人にとってはとても魅力的な画面が続く映画だ。

 ところで、バットマンとは何者だろうか。ここ最近のマーベルの快進撃に伴って、爆発的に増えてきたスーパーヒーロー映画の中(あくまで映画の中でだ)にあって、その存在はかなり特異なものを増してきている。何より、ほとんどのスーパーヒーローたちが固有の特殊能力を持ち、生身でも人間以上の力を持つ超人たちだ。しかし、バットマンは今も昔も何の力も持たない人間であり続ける。金持で特殊なスーツに身を包むという点では、マーベルのアイアンマンがいるだろうが、アイアンマンほどの自由な飛行能力はないし、そのスーツほど防御も攻撃も圧倒的ではない。堂々とヒーローとして悪と戦うという存在でもなく、闇に紛れての私刑すれすれの行為は、常に警察からの警戒と市民からの疑義と隣り合わせだ。

 そして、バットマンほどその活躍する架空の都市が有名なものもないだろう。ゴッサムシティ。悪徳そのものと揶揄されるその都市の闇に紛れ、バットマンはその都市に吹き溜まる汚物のような悪に制裁を加えていく。闇に紛れるその姿は、うごめく悪ともはっきりとした区別はつかない。そんな闇の怪人たちがうごめくゴッサムという街をいかに魅力的に描くか。先駆者たるバートンは『バットマン』『バットマン リターンズ』において奇妙な怪人たち――フリークスたる彼らがなじむ、ゴシック的な都市空間を作り上げた。街はコミックな怪人たちが縦横無尽に活躍するための舞台として完璧に調和する存在――彼らの似姿として存在していた。

 対して、ノーランのゴッサムシティとは、それは私たちが普通に暮らす都市だった。シカゴやニューヨークにしか見えないそれは、バットマンというものが現実にいるとしたらどうなるか? というリアリズムの中に彼らを括りつけるためのリアルな街だった。それゆえ、ノーランのゴッサムはバートンが成したそれ自体の妖しい魅力は霧散したが、逆に現実の都市に入り込んだ異物として、怪人たちの怪人性はくっきりと浮かびあがることになる。ジョーカーという稀代の悪を現実の都市に刻み付けるためのリアルな都市としてのゴッサムだったのだ。

 今作のゴッサムはバートンともノーランとも違ったゴッサムを作り上げた。それは、バットマンリドラーといったフリークスたちを産む怪人たちの源泉としての都市。バットマンも、リドラーゴッサムという街が彼らを生み出したことが鮮明に描かれるのが今作のバットマンであり、ゴッサムという犯罪都市だ。

 それは、バートンほどゴシックではなく、ノーランほどリアルではないが、細部の作りこみは、今までで随一だろう。犯罪を、そしてバットマンをはじめとした怪人たちを産みだす街というコンセプトに一貫した架空の都市。基本は70年代的なノワール風の都市だが、そこにSNSだのスマホだのがあっても特に違和感のない都市のディテールが良く作りこまれている。全編暗いのだが、それでも街としての存在感があるディテールは、3時間の長丁場を支えうるものに仕上がっていたと思う。暗い街として作りこまれたゴッサムという街に浸る映画でもあるのだ。

  • 復讐者として

 そして、そんな「ゴッサム」によって生み出されたバットマンリドラーというヒーローとヴィランとはどんなものだったのか。彼らは大雑把に言うと、都市への復讐者という形をとる。
 今回のバットマンバットマンを始めて二年目というかなり若々しいイメージのバットマンだ。それゆえ、感情的で受け身で回ることが多く、防戦を強いられる。また、父親の死を受けて、犯罪者への復讐心が強いバットマンは犯罪者に容赦がない。同様に、リドラーもまた、この街の欺瞞――市長や検事たちの不正が許せない。両者は街にはびこる不正を許さないという点では同じだが、リドラーは彼らを殺し続けることで、「復讐者」であることを貫徹する。

 バットマンは悪に対する制裁を行うが、リドラーは欺瞞に対する制裁を行う。また、リドラーバットマンとは違い、悪らしく悪を行う存在には興味がない。正義の顔をして悪を行う人間たちを許せないのだ。彼らの根っこにはブルースの父と彼が計画した街の再開発がある。街の父たるトーマス・ウェインの影のもと、ブルースとリドラーは孤児となり、バットマンリドラーへと生み出される。

 ゴッサムという街の悪や欺瞞に復讐するような存在としてゴッサムの闇にうごめく彼らだが、彼らの決定的な違いはその作中で語られるように「復讐者」をやめるかどうかだ。それは、彼れらがゴッサムという街ではなく、ゴッサムの中の「人々」にとってどのような存在となるかでもある。それは、彼らが被る「マスク」の違いとなって現れる。

  • それぞれの仮面が意味するもの

 映画に寄せられたコメントの中で、ゲーム開発者の小島英夫は、今回の映画は仮面の概念がこれまで違うと寄せている。マスクは本心を隠すためではなく、マスに拡散するためのアイコンであると。リドラーは、SNSをやっている。それは大したフォロワーではないが、彼に感化されたフォロワーたちは、彼のマスクをかぶり、拡散したリドラーとして行動を開始する。一方で、バットマンのマスクは、人々が模倣するような存在ではない。バットマンのマスク――というか、その存在は、暗闇の中で彼らを導く存在となる。今作のバットマンが従来と少し違うのは、彼が人々の中に入り、明かりをともし、手を取って闇の中を導く者となっているのだ。闇の中、掲げられた明かりの中に浮かび上がるそのマスクは、人々の導き手のアイコンとしてある。

 また、この映画は冒頭から窃視するようなカットが頻出する。バットマンリドラーも街を覗き見ている存在として演出されているのだ。さらにバットマンは高所から街を見下ろしている場面が多々ある。そして、最後まで高みの見物を決め込もうとするリドラーに対し、バットマンは終盤の戦いで、自らの手でぶら下がる綱を切り、「落下」することで、人々の中へと、都市の中へと入っていくことを決断するのだ。

 そうして、都市から生まれた怪人たちは一方は都市の中へ入っていき、もう一方は、都市の中にある都市から隔絶された「外」へと収監される。そして、その外には次なる「混沌」が道化の姿をして笑い声をこらえている。都市の中へ入っていったバットマンは、おそらく次に対峙するであろう、その者とそれがもたらす「混沌」の中で、人々をどう導くようになるのか――というのは、定かではないが、恐らくあるであろう次回作の期待としてとっておこうと思う。