蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

エラリー・クイーン『ローマ帽子の謎』/中村有希 訳

 かなり久々に再読してみた。創元推理文庫の新訳版はやはり、読みやすいような気がする(まあ、こういうのは気のせいというのもあったりするのだが)。旧文庫版では省かれていた登場人物目録や劇場の見取り図などが今回ちゃんと入れられているのはうれしい。

 この作品は、クイーンの国名シリーズの中では、結構後の方で読んでいて、それなりにX、Y、エジプトやギリシャという名作をツマンナイツマンナイと雑に読み飛ばしてきたかい(?)があったのか、クイーンに慣れてきて、それなりにイライラしないで読めるようになってきた作品。そういうわけで、結構思い出深くもあり、犯人に関する推理をある程度見破れてうれしい、という記憶が残っている作品でもある(しかし今回、分かったのかコレ……という気分になったのだが……ただの記憶違いか、本当に頑張ったのか)。なんというか、ようやくクイーンの楽しみ方が分かってきて、どんどん読んでいく時期に当たっていた作品なのだ。

 事件自体はかなりシンプルだ。人気の劇〈ピストル騒動〉が上演中のローマ劇場で、悪徳弁護士が毒殺されているのが発見され、そこに、シリーズ初登場のエラリー&リチャードのクイーン父子が挑む。殺人はその一件のみで、謎らしい謎は、被害者が持っていたはずのシルクハットが消えてしまったという一点。この作品を読んだとき、現代の読者ほど面食らう気はする。謎の希薄さもそうだが、トリックというものが全く存在しないからだ。事件の9割近くは延々と捜査というか、関係者の聴取に費やされる。

 クリスティのような聴取によって、登場人物の個性や関係性が移り変わっていったりするドライブ感みたいなのは、ない。カーのように章の終わりなどに事態を一変させるような展開が放り込まれることも、ない。ひたすら証言を聞き、医者や捜査官たちの報告をまた聞き……ということの連続だ。面白くないと思う人にはひたすら面白くない展開が続く。そして、それに耐えたとして、あっと驚くような意外な真相や驚愕のギミックが待っていたりはしない。

 それでも、クイーンの小説は本格のみが持つことに至ったロジックの側面を知るうえで、またそれが現代の作家たちに多大な影響を与えたことを知るために、読む価値がある。少しづつ、被害者のこと、彼を殺した毒、殺された時の状況や目撃者、彼につながる容疑者たち、そして消えた帽子の役割などが集まってくるその過程は、純粋に推理することのみにある。関係者の個性や関係性や情念で目を曇らせるな、そういわんばかりの書きぶりだ。

 そして、その先に推理がある。手がかりは帽子。あらかじめ示された手がかりをどのようにして使うかが、クイーンの推理だ。暴いた真相にパキパキと集まるように伏線がばらまいてあるわけではない。自ら得た手掛かりを用い、探偵は真相への道筋を作っていく。その工程こそが、クイーンが完成させたロジックの楽しさだ。

 ローマ帽子の帽子の手がかりは、それが犯人に直結しているわけではない。帽子が持ち去られたという現象から、では○○、そして○○というふうに状況を加味しながら橋をかけていく。それはとてもシンプルだが、そのシンプルさを実現するために膨大な「あらため」が必要だった。これはある意味、そういう小説でもある。その推理の道筋以外をありえなくするために、証言や確認を重ねたものがメインの小説。しかし、そうして作り上げられたシンプルさはとても美しく、ただの手がかりが犯人を刺し貫くものへと変質する瞬間はとてもスリリングだ。

 ここから、ロジックというものが、トリックと双璧となる存在にまでなる(特に日本の本格において)、その出発点として、この小説を意識しつつ読み終えたのだった。

 

 実のところ、帽子の手がかりから導かれる条件から先の最後の王手は、ある描写というか、さりげない報告を覚えていないといけないので、え、そんなこと言ってたっけ、になりがちな気はするが……結構優しくどっちかに絞り易くしてはいるのだけど。

 この作品はエラリーが初めて出てくる作品だが、初めて捜査にかかわる作品ではない。そういう、素人探偵が事件にかかわる段取りはバッサリ省いて、あくまでオブザーバーに徹していて、しかも、彼自身が推理をみんなの前で語らない(代わりに父親のクイーン警視が話す)というのも、なかなか思い切った第一作である。シリーズ化が決定してから、第ゼロ作(『ギリシャ棺の謎』)が出てくるのもなんか現代的だ。

 またこの作品の動機について、横溝の本陣なみに共感できないとか、日本人にはわからないとか言われたりするのだが、共感云々は置いておいて、本当にわからない……のだろうか。そこにある差別の問題はアメリカに限ったことじゃないし、それは当時だけの問題でもない。それを当然としてしまう状況は、本国でも一応、大っぴらではなくなったとはいえ、今も続く人間そのものに影さす問題なんじゃないだろうか。