蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

そこにいたのは人か魔か:倉野憲比古『弔い月の下にて』

 

Impression

 変格探偵小説という言葉がある。HONKAKU――本格ミステリが海外において日本独自の推理小説を語る言葉として「発見」される以前の探偵小説に、それはあった――黒岩涙香江戸川乱歩、大下宇宇陀留にまで、それはさかのぼる。黒岩が種をまき、乱歩や宇陀留といった海外ミステリに触れ、実作を書こうと思い立った作家による日本独自の探偵小説とは、論理を志向しつつ、西洋伝来の医学や心理学を足掛かりに書かれた奇譚小説というような側面があった。よくわからないものをよくわからない形で描いていく。同時にそこには、作家たちの独自のイメージが強烈に刻印された。日本の本格ミステリとはそこから分離する形で生まれたといってもいい。そして、分離した側というか、本格として分離を志向する甲賀三郎らによって、そのむしろ広大な探偵小説の片割れは変格と呼ばれるようになる。

 『スノウブラインド』、『墓地裏の家』につづく、夷戸武比古シリーズ第三弾。題名は予告されつつも、前作から十年たってしまった作品の、満を持しての刊行となった。

 著者の作品は、自身が表明しているように幻魔怪奇探偵小説、という古来の変格探偵小説を志向するような小説だ。そこには、異常心理学というメスで切り込む探偵と、その異常心理学ですら超越する奇怪な事件に潜む魔が描かれる。いや、デビュー作『スノウブラインド』はあくまで人間の心理の話ではあった。ある意味心理学探偵ものという枠組みで、永遠の迷宮を描く、三作のうちでは一番美しい形をした作品だろう。

 次作の墓地裏の家で、作品はデモーニックな色を強く帯びていくというか、人間心理を超越した存在が真相を飛び越え、一瞬だけ姿を現すと、その姿を再び闇に沈ませる。第三作の本作もまた、その方向性をより探偵小説的なガジェットで固めた雰囲気となっている。そこに込められたトリックも、変格なガジェットを利用した異様な紙上のマジックを描き、それは前作よりも物語との結びつきを洗練させている。

 そしてなにより、今回もまたその事件を飛び越える魔としか言いようがないものによって、すべてが歪む感覚、その幻惑性が味わえる。その幻惑性こそが、著者が書き得る変格探偵小説の神髄なのではないかと思う。

あらすじ

 大学院生の夷戸憲比古、ホラー雑誌編集者の根津圭太、二人がよくいく喫茶店のマスター羽賀美奈の三人は、観光に来た壱岐で奇妙な島のうわさを聞きつける。島の名前は弔月島(ちょうげつとう)。かつて隠れ切支丹達が隠れ住み、切支丹狩りの悲劇の舞台ともなったその島は、怪談じみた伝説を今もおび、興味を持った根津に引っ張られる形で、三人は弔月島に渡ってしまう。

 島につくなり、そのにある館の住人らしい奇妙な男たちにボートを破壊され、男たちに無理やり館へつれていかれる三人。そして、そこには同じようにして半ば拘束された男女たちがいた。かつての人気女優を中心とする劇団「梟の森」のメンバー、そして女性週刊誌の記者とカメラマン。彼らの目的は館の主人にあるらしいのだが……。

 なかなか現れない館の主人がようやく姿を現そうとするとき、奇妙な男の闖入により、主人は暖炉で顔を焼かれて死んでしまう。動揺する館の人間たち。そして、またもや悲劇が起きる。度重なる事件の裏にあるおぞましい過去、人間心理と歪んだ宗教を夷戸の解釈が切り分けるとき、闇の中から“魔”が立ち現れる。

 

感想

 本格ミステリには狂人の論理という言葉がある。チェスタートンの有名な言葉、「狂人とは、理性を失った者ではなく、理性以外のすべてを失った者だ」を起点として、一見、歪んだと思われるものにも、その者なりのリクツが働いているという考え方だ。それは、理性こそがすべてであるという、近代の探偵小説らしい考え方であり、それ以来、本格は、狂気を理性のもとで一種のロジックに変換する道具として従えてきたと言っていい。しかし、狂気とはそういうものなのだろうか。ブラックジャックが「人のからだはなおせても、ゆがんだ心の底まではなおせない」というように、たとえその狂気の理屈が明かせても、その奥底までロジックは見通すことはできるのか。そして、ロジックによって事件のすべてを照らし出せるのか。

 著者の「変格」探偵小説における探偵、夷戸(イド)はその名前の如く、心理によって謎を解決しようとする。手がかりをロジックに変換するというよりも、それはあくまで彼の解釈というふうに描かれる。また、この作品では、登場人物たちは推理という言葉を口にしない。あくまで、すべては解釈に過ぎない、著者はそう言い続けているようだ。そして、人間たちは目の前にした怪奇な事態に必死で解釈を上塗りしていく。

 夷戸による異常心理や病理を基にした解釈は、いかにも変格探偵小説らしい形をこの事件の与える。そして、それらしい解釈は、この異常な事件を収めたかに見える。しかし、終盤で起きる怪事は、まさに魔が飛び出してくるというもので、夷戸の解決をあっという間に土台から揺るがし、事件そのものを歪ませてしまう。ほとんど蜃気楼めいた(それは物語のなにやら「押絵と旅する男」めいた冒頭で予告されていたような)とらえどころのないものと化し、論理からするりと逃げていく、その妖しい事件の形こそが、私にとって、読んでいて一番感じ入ったものであり、著者の持つ幻想性を感じたものだった。

 読んでて、たった二人しかいない使用人に、その他の外来者たちが状況が悪くなる中、反撃に出ようとしないのは、若干違和感はあったが、彼ら自身もその島の異様な磁場にとらわれていたのかもしれない。あと、作品の裏打ちというか、ネタ元や連想する作品名などをストレートに名前をどんどん挙げていく饒舌さは、挙げられていくそれを知らないとちょっと雑味に感じるかもしれない(好きな人は好きだろう)。

 それにしても、ほとんどが喫煙者でやたら煙草の心配をしていたり、モクモクしてるところも昨今の状況では「異常」や「退廃」な場の醸成に寄与しているのかもしれない気がちょっとしたりした。

 

過去記事

kamiyamautou.hatenablog.com