蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

細切れにされてゆく「わたしたち」

 最近、色んな積読をペラペラ見ては次に移るという感じで、なかなか一冊を読み切ることができないでいる。なんというか、無気力感もすごい。文字を追うのが酷く億劫でしかたがない。

 例のウイルスの影響は、地方の都市にも確実に忍び寄ってきていて、相変わらずマスクはないし、トイレットペーパーもマスクほどではないが、棚の空きが目立つ時がある。久々に足を運んだ書店のレジにはビニールの覆いが設置されていた。映画館もついに自粛で入ることができなくなった。

 とはいえ、自分の生活が劇的に変わったというわけでもなく、ただダラダラそんな状況を横目にしつつ目の前の生活にしんどさを感じ、日々減退していく読書量を嘆いている。本当に自分は本が好きなんだろうか、本を読んでなんになる、そんな思いがやたらと頭に浮かぶが、自分には本を読むくらいしか取り柄がない。そういうふうにして、本当のところ、たいした取り柄ではないものに縋り付きながら、ズルズルと後退戦をしているような気がするが、もうどうしようもない。以前ほど読めないが、それでも本を手に取る。

 今ペラペラつまみ読みしている中途半端な本の一つにオーウェルの『あなたと原爆』(光文社古典新約文庫)がある。これはなかなか面白いというか、オーウェルの鋭くて広い視線が今読んでいる自分に突き刺さる。原爆や科学について、スペイン内戦回顧、そしてナショナリズム。そこに展開されるオーウェル指摘は今の世界の近似だ。

 ネットへの期待とそれによる分断も、世界を結ぶ技術が通ってきた繰り返しの一つであり、かつて「国境を無効にした」といわれた飛行機が、実際には本格的に兵器になることで国境をよりくっきりとさせ、国家間の理解や協力を押し進めると期待されたラジオも、ある国をほかの国から分離する手段となる。そして網というよりは、細かいセル状になった世界の中で醸成されていくナショナリズム

 記録された歴史の殆どが多かれ少なかれが嘘である、という言い方が最近の流行である――それは、オーウェルの当時から今でも“最近の流行”だ。そして私たちが生きているこの時代に特有なのは、歴史が正しく書かれうるのだ、という考えの放棄であり、それは今でもこの国ではびこっている歴史に対する認識でもある。そこにはそれでも双方が本気で相手を否定したりはしない中立的事実ともいえる共通基盤はない。

 歴史だけでなく、国と国、人と人を包括する共通基盤といえるようなものが砕かれ、細かな「共通基盤」によって人々はクラスター化していく。しかし、細切れにされた「わたしたち」は自分が信じる単純化された“強いもの”を核に寄り集まってしまう。なんというか、共通基盤という台地の上で個人がやり取りし、くっついたり離れたりを繰り返すモデルが崩れ、宇宙空間に投げ出された個人は巨大な「核」に引き寄せられるようにして、結局は細切れにされつつも単純な集団となって衝突を繰り返している――そんな感じだろうか。

 オーウエルはナショナリズムについて、ナショナリストはただ強者の側につくという原則で行動しているわけではない。むしろ逆であって、いったん自分がどちらかの側につくか決めたなら、ナショナリストはそちらの側こそが強者であると自分で信じ込むのであり、事実が圧倒的に不利な場合でも自分の信じたことに固執するのだ、と述べる。そしてナショナリズムとは自己欺瞞によって強化された権力欲だと。

 複雑なものを複雑なまま受け入れることができる社会のことを鈴木健は「なめらかな社会」と定義づけていたが、それが到来するのはいつの時代になるのか。

 細切れにされたわたしたちは、自己欺瞞によって強化されたより単純な権力欲にとりつかれているように思える。ネットは網ではなく、ただただ単純な方向へと細分化していくためのシステムと化している。

 わたしの中の「つよい一つ」に取りつかれがちな中で、だからこそ、億劫だと愚痴をこぼしながらも、なるべく多くの本を、時間や空間を越えた誰かの言葉を私は求めざるを得ない。自分とは縁もゆかりもない、時間も空間も離れた遥か彼方の様々な人々の言葉こそが、一つに向かう重力に対抗するすべであると信じるから。物理的にも人が遠くなってゆく中、私を中心にした他者の言葉の網目をコツコツと編んでゆくことにしたい。

 なんだかんだで、私はまだ、本を読むことを止めたくはないのだ。