蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

どうでもいいはなし

 最近、なんかブログの更新が滞っているわけだが、時間がないとかいうわけではなく、どうも書けない。気分が乗らないというのもあるが、毎回まっさらな画面を埋めていくその難易度が変わらないというのがある。やり始めた当初、百記事くらい書いたら、それなりに経験値が上がり、お手軽な形で量産できるんじゃないかと思っていたところがあったのだ。しかし、何度やってもやり始めた当初からその書き出すハードルは低くなった実感がない。毎回何を書けばいいんんだろう……というぼんやりした抵抗感に包まれている。そして書き出したところでどうにも纏まらないまま、なんとなくフェイドアウトしてしまうことを繰り返している。

 まあ、結局のところ考えなくては文章はできないし、その考えるということ自体がある種の障壁になるということなんだろう。そして、私は考えるということに障壁を持ってしまう程度のおつむだということなのだ。うん、まあ、分かってるよ、分かってるんだけどね……。

 そしてなにより、これ、面白いのかな、という思いがやたらともたげることだ。もっと言うと、自分はSNSで言われているようなつまらないタイプの文章を書いてるんじゃないのかという、自意識。つまりは、どういうふうに読まれているのか気にしているという事だ。まあ、面白いと思ってもらいたいというある種の承認欲求。

 だから、ことあるごとに言い訳として、「その時の気持ちをカタチにしたいがために書いている」などというおためごかしを言ってきて、そんなこと気にしてないよ、ということを自分に言い聞かせてきたわけだ。とはいえ、そんなごまかしが続くわけもなく、これ面白いのか……? みたいな気分が常に襲ってきて、なんでこんなことしてるんだろうか……と、手がとまってしまい、八月はせっかくの時間を空費した。

 あとやっぱり、他人の文章を見るのは楽しいが、実のところコンプレックスも澱のようにたまっていく。なんていうか、自分よりも一回り以上離れた人たちの論文訓練の下の整然とした文章構成は自分にはなかなかできない。基本的に他者の視点で指導された経験がほとんどないため、今でもどういう文章になっているのか自分では全く分からない状態で書いているのは結構つらい。まあ、上手い人のを見てパクってやろうという気は満々なのだが、それも意外とうまくいかないものだ。

 ――とまあ、こんな愚痴ならネタになるだろうというさもしい精神で一応書いてみた。とりあえず更新することに意義があるというゴマカシである。

 

 ……ていうか、やっぱつまんなくねえか、これ? そういえば、いかがですかブログというやつは嫌われるらしいのだが、毎回これどうだったんだろう、という意味では「いかがですか」というのは毎回書きたい衝動に駆られている。

シンデレラグレイの感想その4、みたいな。

 またちょっと溜まっていたシンデレラグレイの7話から10話までのあらすじを含んだ感想を。

第7R「ジュニアクラウン

 次にオグリが挑むのは準重賞レースである「ジュニアクラウン」。そしてそこには再びフジマサマーチの姿が。二度目の激突は、前回の雪辱となるのか。そして、そのレース会場の近くには、やがてオグリの前に立ちはだかる最大の宿敵ウマ娘が――。

 一応、ベルノライトさんの初レースという回でもあるのですが、それはアニメ・ウマ娘京都新聞杯におけるスぺちゃんと同じ出オチの敗北。落ち込むベルノに無自覚に速くてごめん……とかいっちゃうオグリさんマジで鬼畜です。

 だんだんとオグリさんに人間味というか、作画担当の方が意図して描いていた形で、少しづつランニングマシーンのような表情から意志のようなものがにじみ出てきていて、今回はフジマサマーチに対し、かつて言われた言葉を返して「貴様には負けん」と不敵に勝利宣言。そんなオグリの言葉に少し驚いたような後、口の端を吊り上げるマーチ。そのわずかに笑みを浮かべる口元を写すコマは、とてもいい演出ですね。少年漫画だ。オグリさんがマーチを指さす時のそのちょっと不敵な表情も良いです。

 そして、北原の夢である東海ダービーに目標を重ねるオグリ。私もそこを目指すよ、と。トレーナーとウマ娘の目指すべき場所を設定する回であるとともに、新たなキャラクター――タマモクロスとともに、北原トレーナーの伯父であり中央のトレーナーという人物が登場し、にわかに「中央」という場所がにおってくる、そんな回でもありました。

第8R「想定外」

 いよいよ始まるジュニアクラウン。高みの見物をするタマモクロスの視線のもと、オグリとマーチ、芦毛の両者が激突する。

 この、芦毛の三すくみみたいなのが良いですね。現在と未来のライバルたち。しかし、マーチさんのストイックぶりが強調されるほど、事実を確認するとツライところがあります。擬人化して人格が描かれるほど残酷な存在になっていくというか。中央へ行くとしたら思いっきりオグリの影になりそうで怖い。ウマ娘のIFとして、何らかの希望というか安寧のようなものがあるといいですね……。まあ、モデル馬は高知に移ってからけっこう勝っていたりはするみたいですが。

 同時にスパートをかけるという、マーチにとって想定外の事態。しかし、オグリはマーチとのその前の差を埋めることができない。このまま順位が確定するのか――? という所で次回に続く。

第9R「二度目」

 マーチとオグリ、二度目の激突ははたしてどちらの勝利で終わるのか。

 マーチさんの回想から入りますが、その一ページと次の彼女の背中で彼女の背負ってきたものが分かる。物語をダラダラ重ねるのではなく、とても簡潔で的確な構成で分からせてきます。

 そして、初めて出現したライバルが自分を更なる高みへと押し上げるという狂喜でそまる表情――だが、そんなマーチの思いをひねりつぶすようなオグリの魔物性が覚醒します。どっちもすごい表情だし、オグリさんは完全に殺しに来てます。牡馬のウマソウルが宿ってますねこれは。

 完全予想外の二度目のスパートを行い、一着でゴールしたのはオグリキャップ。驚愕する周囲と愕然とするマーチトウショウ。何故二度もスパートをかけることができたと掴みかからんばかりの彼女に、オグリは「多分マーチのおかげだ」と返す。

 走れるから走る、そんな風に走っていた彼女にはじめて宿った「負けたくない」という気持ち。それが彼女をより強くさせた。「一緒に東海ダービーで走ろう」、そういって伸ばすオグリの手を「今度は負けん」と握るマーチ。二人の手のアップのコマは彼女らのライバルである最高の瞬間を切り取っていて、それを見下ろしているのがタマモというのがまた何とも言えない。というか、事実において彼女たちの言葉が、どちらも実現しないということが何だか切ない。まあ、ウマ娘の彼女たちの運命はまだ分からないわけではありますが。

 レース後伯父で中央でトレーナーをしている六平から、次はどこに出すつもりなんだと問われる北原は、中京盃と答えるが、六平はそれはやめておけと言って去っていく。いぶかしむ北原。ジュニアクラウンの次は中京盃当然の流れだし、それがオグリのためだ。それが、北原の夢を遠ざけることを彼はまだ知らない。そして、オグリキャップという存在の真価も。

 今回もまたキャラクターの表情がすごい。特にオグリさんの鬼気迫る表情からの笑顔のギャップやその後のライブでのまだぎこちない表情など、少しづつ色んな表情が出てきてそこも注目ですね。ライブの中でノルンエース以下の不良風ウマ娘たちが前列でオグリに踊りの指導やボードで助言してる風景も、関係性の変化を少ないコマですが描いていて本当に無駄がない。

 あと、肩や背中が出てる衣装を着てるのですが、がっちりアスリート体型で描かれてて、美少女とアスリート性ががっぷり四つに組んだアイドルとか、アイドル地獄変みたいじゃん(?)、という気がしてなかなか良いです。新たな癖を読者に刻んでくるぜ。

第10R「国内最高水準」

 まず扉絵ですよ。なんというカッコいい後ろ姿か。シンボリルドルフマルゼンスキーミスターシービー。最強のウマ娘たちの背中が無言の圧をかけてきます。ていうか、なに、ルドルフカッコよすぎないか。内容入ってこない。カイチョーカッコイイ!のトウカイテイオー(CV:Machiko)で終了です、ハイ。

 ……いや、まあ、とにかく今回はテイオーも必見の会長回です。

 北原の通用してくれ……みたいな思いとは裏腹に、中京盃を圧勝するオグリ。7話のベルノとは対照的に二コマで速攻勝利のスピード感が、その歴然たる強さを演出してます。国内最高水準の強さ。当然「中央」からの誘いがくる。それを北原は見抜けなかった。だからこそ彼は、二人で設定した夢をあきらめざるを得なくなる、事実を基にしたそんな皮肉な展開の構成がなかなかです。G1レースも行われる場所で、そのような走りを見せつければ、当然、「中央」の目に留まる。北原が思っている以上に巨大な存在だったウマ娘――怪物がその一歩を衆目に刻み、彼との別れを予感させる回でした。

 とはいえ、ウマ娘の場合、当然のことながら人格がるわけで、これからオグリとしてはどう思い、どういった選択を取るのか。IFはあるのか、あるとしたらどういうものか、そこもまた注目ですね。

 それにしても会長の「ほう……」とか絶対勝負したがってる顔だよ。そして負ける気さらさらない顔だよ。元馬たちの縁というか、タイミングとしては、ルドルフの引退後にニアミスするような形でオグリは台頭してくるので、直接の関係はないのですが、彼女からのスカウトは、王が後継者を迎えに来ているようにも見えますね。というか、「シンデレラ」的には王子なのか……いやさすがに違うか。「ウマ娘」ファンとしては前世(最初期の変なPV:二人でスケートをするぞ!)からの縁を感じるぜ……。

 その他としては、オグリの「観てて」という言葉と表情。ベルノのギャグ顔とのギャップが効いててよいコマ。あとなんといっても、レース直前の足です。完全に馬を意識したような足が素晴らしい。黒のストッキングといい、元馬の魂とリスペクトを感じさせます。

透明な人間たち:映画『透明人間』

 久しぶりに映画館に行ってきた。『透明人間』といえば、ウェルズ……というよりバーホーベンの『インビジブル』が強烈に刻まれている自分。なので透明人間と言えば古典的な、包帯をとっていくと何もない! というヴィジュアル以上に、フリチン男(ケヴィン・ベーコン)大暴れの恐怖に取りつかれているのだが、今回は透明であるというか、何かが家の中にいるという恐怖感が強く、誰もいない部屋というか空間の映像が、誰かの視線なのかただカメラが写しているだけなのかという不安定さを含めてかなり怖かった。恐怖感としてはへレディタリーよりも怖かったと思う。そして、理解されない恐怖がじわじわ主人公をむしばんで行く様や、透明人間に追い詰められていくサスペンス性もかなりよかった。バーホーベンのむき出しの人間性とは対局の、どこまでも冷たく透明なトーンが貫かれていて、透明人間映画のまたひとつのマスターピース誕生といったところです。

 

あらすじ


 崖の上に立つ大きな屋敷――静まり返ったその広大な屋敷の中から忍び出ようとする女性の影。彼女――セシリアをその異常な独占欲で拘束し、子供を産ませようとしている男――エイドリアンは、今ぐっすりと眠っているのだ。以前から周到に準備し、決行に移した逃亡計画だった。最後の最後でエイドリアンに気がつかれるが、間一髪で妹の車に乗り、男の手から逃れるセシリア。

 エイドリアンの魔の手を逃れたが、その恐怖は消えない。彼がいる限りその執着を感じ、匿ってもらっている知り合いの家から出ることができないのだ。そんな彼女のもとに、彼が手首を切って自殺したという知らせが届く。突然の自由と彼の遺産がセシリアのもとに転がり込むが、セシリアの不安は消えない。果たしてエイドリアンは死んだのか? しかし、エイドリアンの兄は死んだと断言する。

 少しづつ新しい生活へと足を踏み出そうとするセシリアだったが、次第に妙な視線のようなものや気配を感じ始める。何者かの存在感を意識し始める彼女に、ある夜それは訪れた。ふと目覚めたセシリアは掛けたはずのシーツがベッドの外に落ちているのを見て、それをつかみ、手元に引こうとしたところでそれは止まった。

 シーツの先には誰もいない。力を込めてさらに引く。しかし、シーツは動こうとしない。一点で床に止められたそれは、わずかに沈んでいる。まるで誰かが踏んでいるような――。透明な恐怖が、彼女の前に現れた瞬間だった。誰かが、彼女のもとへ侵入し、監視している。セシリアはその存在をエイドリアンだと確信する。彼は生きている! エイドリアンの生存を訴えるセシリアだが、なかなかまともに取り合ってもらえない。そんななか、彼女は次々起こる身に覚えのない出来事により、孤立を深めていく。跳梁し始める透明な悪意。

 そして、ついにそれは、彼女やその周辺にくっきりとした姿を現すのだった。

 

感想

 

 透明人間。透明な人間、というこの創作物は、吸血鬼やフランケンシュタインといった古典的なクリーチャー達とはどこか違う。そして、新興のゾンビとももちろん違う。凶悪な見た目をもっているわけではないし、何か特殊なルールで恐怖を伝染させるわけでもない。幽霊に近いかもしれないが、見えないようで見える幽霊以上にその姿は見えない。言ってみれば透明人間という物は透明という概念自体がキャラクター化したような物だ。見えないという意味では幽霊よりも徹底している。しかし、幽霊ほど超常的な恐怖を帯びているわけではない。

 ただ、透明になることで、人間の得体の知れなさを浮かび上がらせる。だからその恐怖はもっと身近で切実な物だ。

 これまでの透明人間は様々なアプローチがなされてきた。透明になってしまった人間を見る側の恐怖から、透明になってしまった側の悲哀まで。あくまで人間であることがその内面を描きやすくし、透明人間は透明になってしまった人間を中心に描かれることも多い。そのなかで異色作にしてある意味決定版みたいな存在がバーホーベンによる『インビジブル』だろう(異論はもちろん受け付けます……)。

 『インビジブル』はヒドイ映画だ。透明になると理性も消えるという台詞通り、透明になった人間の安っぽい欲望がむき出しになり、その安っぽさが人間自体の安っぽさを浮き彫りにする。バーホーベン特有の人間の安さで観客をぶん殴る凶悪な映画に仕上がっていた。また、一方でバーホーベンによる映画は透明人間のもつある種の不均衡さをくっきり浮かび上がらせてもいた。

 透明人間は「人間」とあるがだいたいが透明男だ。透明女はすぐには思いつかない。そこには男女の不均衡さ、もっと言えば見る・見られるの不均衡さが潜んでいる。たとえば男性が知らない女性に見つめられる場合、そこにはだいたいポジティブな意味合いが漂うが、女性が知らない男性に見つめられる場合はどこか危険な意味合いが強くならないだろうか。

 そして今回の映画は徹底して、その見られる女性の側から描く。透明の男の側はほぼ描かれない。透明の側が描かれるのは、その視線のみだ。だからこの映画は、家の中に誰かがいるかもしれないという恐怖以上に、見られることについての恐怖がある。プライバシーをのぞき見られる恐怖、自分のテリトリーが知らずに犯されている恐怖。そしてそれは、多くは女性が受ける被害でもある。だから、この映画の恐怖はとても身近で切実だ。

 そして、従来の透明人間の映画と逆転した展開として、これまでの映画が透明人間が追い詰められていく話であったのとは逆に、透明人間の被害者である女性が追い詰められていく展開となっているのも一つの特徴だろう。透明人間と言えばだいたいがとあるプロジェクトで透明化の薬を開発していて……みたいな話から、国家や組織に追われる透明人間、という話になっていくのだが、今回の透明人間は、そんな人間いるわけないだろ、という風にその存在を訴える彼女の精神が疑われていく。『ローズマリーの赤ちゃん』的な周囲から信用されない、頼るところから切り離されていく恐怖感。そして彼女は個人でその透明人間と対決しなければならなくなる。

 前半部は徹底して見えない存在がちらつく透明の恐怖パート、そして透明人間が「姿を現す」瞬間(これがなかなか怖い)を経て、今度は透明である人間――男との戦いという二部構成がなかなか上手く映画を作り上げている。そして主人公の女性の変遷もまた注目というか、透明男に勝利して終わりというわけではなく、主人公もまた”透明”の側へと渡ってしまったような姿が見た後も後を引く。一方的な見る・見られるという関係が最後に逆転することで、今度は主人公の心の内もまた、次第に見えなくなっていくという「透明な」ラスト。どこか陰鬱な幕引きは、それも含めどこに転がっていくのかという緊張感が最後まで続いていて、新たな透明人間映画のマスターピースの誕生になっていたと思う。おススメの映画だ。

 

 

 ※最後のちょっとした余談:ここからはネタバレが含まれるので注意

 

 

 

 

 また、今作は透明人間についてのアプローチにも新機軸というか、現代的な方法論を持ち込んでいて、薬物などで体が透明になるというのではなく、透明スーツによる透明化というまあ、ある意味当然というか早いもの勝ち的な要素が選択されている。果たしてこれは従来的な意味での透明人間のなのかという問題はあるかもだが、これはこれで透明人間のより透明化というか、誰もが透明人間になるということで、誰が透明人間なのかというある種の匿名化が付与される。それにより、より透明の恐怖というものが深まっているのだ。ミステリー的なプロットも導入できるわけで、この要素が透明人間映画のさらなる物語の進化に影響を与えるのかもしれない。

 あと、この透明スーツの導入が、透明人間がこれまで宿命的に持っていた全裸のかもしだす強烈な性のイメージを中和して、そういう意味でもより透明化が進んだように思う。その他にも着脱可能なスーツが見る・見られるの不均衡さを解消するギミックになってる点にも注目だろう。

シンデレラグレイの感想その3、みたいなもの。

 ちょっと滞っていたシンデレラグレイの感想を6話まで。

 三話「信じていいかも」で、トレーナーの北原、そして四話の「今度は勝つ」でベルノライトの関係性というか、それぞれの役割のようなものが生まれる形になりました。北原はトレーナーとして走る技術を、そして実家がスポーツ店というベルノライトは走るための靴をオグリに与えます。ベルノライトはお金持ちの親友ポジというか、けいおん!の紬ちゃん枠か(靴のお金は北原トレーナーが払ってたけど)。

 全体の話としては5話までレースが続く中、一話一話無駄なくキャラクターとの接点を作っていますね。そして、5話でついにライブ回が……。ありましたね、ライブ。そしてこれもまた、オグリの同室設定だった不良風三人娘の一人、実は家がダンス教室のノルンエースとの接点を作る回として機能していて、事実のレースにページを割きつつも実にそつがないというか考え抜かれた構成で感心します。

 そして、第六話でフジマサマーチと初めて言葉を交わし、彼女が語る「頂点」について意識するオグリ。第四話でただ走るから走っていた少女が目の前のウマ娘に負け、血が出るほど拳を握りしめて悔しさを自覚し、その彼女から目標を問われる。

 ほんとに教科書ともいえる端正な構成というか、この辺はさすが脚本担当の杉浦理史氏という感じです。もちろん、それを漫画表現に落とし込んでいる久住太陽氏の画面構成力もすごい。大ゴマとか一枚絵のインパクトもすごくて、オグリの怪物性をすさまじい踏み込みの足跡で示したり、目標を意識する六話の眺望だったりと絵でもきちっと物語を魅せてくれます。

 あと、なんといってもレースの臨場感というかキャラクターの表情が素晴らしいです。フジマサマーチのカミソリみたいな表情や血走った瞳、特に瞳の表現がすごくて、オグリの澄み切っているけど、どこか底が知れない深淵のような瞳の力は、この漫画家だからこその漫画表現という感じでとても良い。

 もちろん、その圧倒するようなシリアスな表情と日常の少し抜けたギャップが醸し出すオグリの表情も楽しい。とはいえ、六話とかだと普通の表情も結構可愛らしくなっていたりするのですが。アスリート的な部分がアニメのウマ娘よりもかなり強く出ているので、カッコよさがめちゃくちゃあふれている分、ふとした時にちょっと出てくる可愛らしさみたいなのがよけい可愛く見えます。塩ふったスイカみたいな塩梅ですね。

 しかし、きちっとライブ出してきましたね。そしてそれが、レースレースで緊張してた物語をオグリのカサマツ音頭でいい具合にほぐしてきましたし、上手く使っています。他のキャラクターとのレース外での繋がりとか、オグリのキャラクター性を深めたりとか、ライブの存在ってウマ娘としての物語を広げるためにはかなり重要なんじゃないのかなー、とやはり思いましたね。

 さて、目標を意識したオグリが果たしてレースに対してどう変わっていくのか、そしてまわりのキャラクターとどう関わっていくのか、次の話も目が離せません。

 事実のレースを追うだけでなく、きちんと物語としての広がりが出てきて、回を追うごとに面白くなってきてますので、毎週とても楽しみです。

シンデレラグレイの感想その2、みたいなもの。

 『ウマ娘 シンデレラグレイ』の第二話を読む。

 北原にスカウトされ、オグリキャップはレースに出ることになる。東海ダービーについて熱く語る北原にオグリは短く答える。「私をレースに出して」

 扉ページに据えられた言葉は、“まだ見据える先もない”。彼女の目的はまずレースに出ることだ。

 アニメのウマ娘の主人公スペシャルウィークには初めから夢があった。“日本一のウマ娘”。母親から贈られたそれを、自分自身の意志で夢としたスペシャルウィークとは違い、オグリキャップにはそれがまだなく、この漫画はまずトレーナーの夢が先にある。

 現実のモデル馬のことを考えると、誰かの夢に翻弄されていくというのが序盤のカサマツ編における一つの物語の流れを形作るのかもしれない。事実と照らし合わせれば、トレーナの夢を振り切って、自身の夢を設定する形になるのかと思ったりもするが、もちろんあくまで勝手な予想にすぎない。

 オグリはベルノになぜそんなに走るのかと問われて、走れるから、と返す。自分は立って走れるだけで奇跡であり、だからすごく嬉しい。走れるから走る。彼女の根源的な走る理由はそれであり、恐らく事実における無茶なローテーションにつながっていく発言かもしれない。

 走れるから走る少女が、自分の夢を抱く話となるのか、それともそのまま突っ走ってゆくのか、そういう所も注目して読んでいきたい。あと、アプリのライブ要素は描かれるのかそれとも無視されるのか。

 また、今回はオグリキャップの何考えてるか分からないキャラながらも、お母さんが大好きだったり、その時の表情が可愛らしかったりと少し普段とのギャップが見えてきたところ。していなかった頭の髪飾りは、母親の現役時代のものという設定が明かされ、母娘の絆として二話目で装着――公式イラスト完全体に。

 そして、序盤のライバルとしてフジマサマーチ(モデル:トウショウマーチ)がクローズアップされ、いよいよその因縁が始まろうとするところ、その最初のレースで今回は終了。第三話も気になる所だ。

シンデレラグレイの感想その1、みたいな。

 久しぶりにヤンジャンを買った(というか、漫画雑誌を買うのはウン十年ぶり)。何のためにって、『ウマ娘 シンデレラグレイ』のためにである。

 ウマ娘はまあ、今のところサイゲームスの開発中であるアプリのメディアミックスとして出たP.A.WORKSによるアニメ『ウマ娘 プリティーダービー』が、大きな中心になっている、といっていいだろう。アニメが『ウマ娘』というコンテンツの形をくっきりさせたといっても過言ではない。

 そして、アニメが、他のメディアミックスとして出ていたサイコミの漫画と一線を画していたのは、『がんばれハルウララ』や『うまよん』『Starting Gate』といった漫画がキャラクター方面に重心をかけていたのに対し、キャラクターをたくさん出してはいたが、物語は主人公のスペシャルウィークサイレンススズカの物語一本に絞り、実際のレース展開に沿ったレース中心の物語の中でIFを描く、というコンセプトを示したことだ。そして、そのためにウマ娘という存在が、現実の競走馬の異世界転生した姿という設定を打ち出した(ゲーム公式サイトのイントロダクションにはそのような説明はない)。

 開発中のゲームについてみる限り、ゲームは実際の競走馬を美少女にし、そこにサイゲームスお得意のアイドル要素を組み込んだもののようだ。育成&シミュレーションでキャラクターに親しみつつ、ゲームとしてはレースを行い、勝利したら彼女たちのライブを見る、という他のアイドル・ソーシャルゲーム音ゲー要素が育成&レースに変わったようなもので、メインはその他のアイドルものと変わらないように思われる。どっちかというと、ダービースタリオン的なものを組み込んだ、ちょっと毛色の変わったアイドルゲームというのを目指していたのかもしれない。

 一方でアニメは、前述したようにそこに実際の競走馬の事実に基づいたレース展開を中心にして、そこに“もしも”を描くことという新たなコンセプトを持ち込んだ。アニメの開巻出てくる奇妙な壁画にかぶさる言葉は、このコンセプトを端的に表している。

彼女たちは時に数奇で時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前とともに生まれ、その魂を受け継いで走る。――この世界に生きるウマ娘の未来のレース結果は、まだ誰にも分からない――。

  この壁画とウマ娘の存在を説明する言葉は「シンデレラグレイ」の開巻にも言葉を変えつつ受け継がれている。そういう意味で、『Starting Gate』などの漫画はアプリのコンセプトに沿ったコミック化であって、この「シンデレラグレイ」はアニメのコンセプトの漫画化であると言えるだろう。また、この漫画はアニメの脚本、シリーズ構成を務めた杉浦理史、アニメウマ娘の実際の競走馬方面を一手に引き受け、プロデューサーを務めた伊藤準之助がストーリーを担当している。それも鑑みると、やはり『ウマ娘 シンデレラグレイ』は「アニメ・『ウマ娘 プリティーダービー』のコミカライズ」というふうに言える。

 なんだかめちゃくちゃ前置きが長くなってしまったが、アニメとの関連性は重要というか、作っている人間が同じなので、構成がアニメの第一話と少し似ている。そこをちょこちょこ比較しつつ、第一話「ここにいる」の感想を書いていこうと思う。

 

 ウマ娘の壁画の次は、府中の東京レース場が描かれる。ゴールドシチーの勝負服が変わっているので、この漫画はアニメとは別の世界なのかもしれないし、青年誌的な変更かもしれない(どっちかというと公式の衣装の方が好みだが)。まあそれはともかく、盛況なレース場と日本ダービーという競争ウマ娘の中心が描かれる。それをスマホで観て熱くなるトレーナー北原穣。

 一転して彼のいるカサマツレース場がうつる。さびれた地方のレース場。人はいないし、解説者もウマ娘もやる気がなく、ゆるい空気が流れている。

 アニメのウマ娘たちはキャラクターがほとんど有名馬の一流どころで、勝利に貪欲であったことを考えると、はなからやる気のないウマ娘たちはなかなか新鮮。

 設備も人員もウマ娘も中央とレベルが違う。そういう諦めの中で、北原トレーナーはスターがいないと嘆く。

自分と重ね合わせて心の底から応援したくなるような……そんなウマ娘……

  おそらく、これが今作のテーマというか、主人公のウマ娘が背負うものなのだろう。そんなトレーナーの横を風のようにして突っ切る主人公ウマ娘

 そしてカサマツトレセン学園。スペシャルウィークが登校した中央のトレセン学園と違っていかにもな地方の高校っぽい校舎。そして、語り手っぽいベルノライトの登場とその他のキャラクター紹介。ガラッとアニメのスペシャルウィークみたく入ってくる主人公。そしてアニメ同様、レースについての世界観説明。アニメではデビュー戦、未勝利戦から始まってG3・G2を勝ち上がってG1での勝利を目指す、みたいな話だったが、ここでは地方のローカルシリーズの説明。開催地は全国に十五箇所らしい(ここテストに出ますよ――アニメと同じセリフ出てきた)。この辺は現代の規模に準じているよう。帯広が出てきたので、一部ではばんえいウマ娘の存在で盛り上がる人々が。ちなみに、アニメの教師はきれいな女性だったが、この漫画ではロン毛のじいさんである。

 中央は? と質問するベルノライトに君たちは気にしなくていいです、と告げる教師。あそこはレベルが違う――。

 そして食堂シーンへ。主人公が教室に現れてから授業→食堂という流れはアニメと同様だが、アニメを観ているとこのカサマツ学園の地方感とアニメのトレセン学園の華やかさの対比が際立つ。アニメは田舎出身のスペシャルウィーク含めて教室のウマ娘たちはお嬢様に見えるし、食堂はオシャレなカフェテリアで、メニューも豪華だ。一方のカサマツは制服着崩していたり、だらしない座り方してたりと、多くは普通の女子高生風だし、食堂は泣きたくなるくらい地方の大学食堂丸出しだ。そこでアニメのスペシャルウィーク同様――いやそれ以上の山盛りご飯を食らう主人公。元馬の健啖ぶりはアニメに出てきた時と同様かそれ以上か。

 入学そうそう遅刻したり、食堂で悪目立ちしたせいか、ちょっとガラのよくなさそうな三人組のウマ娘に目をつけられた主人公。三人組の一人と同室だったため、体よく物置に追いやられてしまうが、本人はあまり気にせず三人組も毒気を抜かれたようになってしまう。この物置で寝るシーンで母親との回想シーンが入る。アニメのスペシャルウィーク同様、母親との約束というのも一つのテーマになるのかもしれない。

 そしてゲートを体験する模擬レースへ。いきなり出遅れてしまう所もアニメのスペシャルウィークと同じ。そして、ベルノライト、君は立ち止まってていいのか……アニメのトレーナーに叱られそう。出遅れたものの、驚異的な追い上げを見せつけゴール。その姿に、北原トレーナーは自分と重ね合わせて応援できるようなウマ娘の存在を確信する。ここにそのスターがいる!

 北原は彼女に名前を尋ね、そして彼女は答える――オグリキャップ、と。

 

 

 という感じの一話で、まとまりの良いアニメ第一話って感じでしたね。アニメとは対照的に、まずは地方のウマ娘のレースに焦点が当たると思うので、アニメ観てるとそのギャップをより味わえる。そういう意味でも、まずはアニメを観ることをおススメしたい。いや、まあ、見なくてもいいとは思うけど、より楽しめるということで。

 アニメのスペシャルウィークの物語は舞台も華やかで、夢に向けて一直線という感じでしたが、アニメのOVA版である「BNWの誓い」におけるナリタタイシンの物語で、夢とその期待に応えられない恐怖が描かれました。そして、今回の「シンデレラグレイ」、その巻頭に添えられた言葉は「時を超え、夢と業を背負う少女たち……」ということで、アニメではあまり描かれなかった夢の影の部分みたいなのが色濃く出てきそうな気はしますね。

 アニメのスペシャルウィークと違って、オグリはあまり感情を表に出さないので、ツッコミ役兼語り手としてベルノライト(詳しい人々によるとツインビーという競走馬が元ネタらしい)というキャラクター配しているのだけれど、出会いという意味では、北原トレーナー、そして今後出てくるであろう最大のライバルが大きな役割を背負っていそう。とはいえ、ベルノライトがどんな役割を果たすのかも気になる所です。

 アニメ・ウマ娘の系譜として、レース展開や実際の競走馬に基づくエピソードがちりばめられたり再現されていくのでしょうが、個人的にはそこまで競馬を知らないということもあって、「忠実な再現」というか、どこまで史実に基づいてるかみたいなのを計測することには正直興味はなくて、それはどうせ調べたり、そうしなくても競馬ファンいちいち指摘してくると思うので、ウマ娘のIFがどう描かれるのかが興味あります(オグリ時代の地方競馬場の数が、現在のものになってる云々とかのツッコミとか心底どうでもいい)。

 アニメはスペシャルウィークサイレンススズカが出会う、というIFが物語を形作っていましたが、今回はどんなIFが物語を形作るのか、そういう興味で見ている感じです。

 あんまりこういうと競馬ファンからは怒られそうですが、私はオグリキャップの物語というよりは、ウマ娘オグリキャップの物語を楽しみたいという所があるのです。それがわざわざ擬人化して物語る意味というか、伝記とかじゃなくて一個の創作物として作る意味というか、アニメ『ウマ娘  プリティーダービー』がウマ娘スペシャルウィークサイレンススズカの物語だったように、そこから実際の競走馬への物語に導いていけるような物語でいいのではないか、そう思っているのですが。

 そういうわけで、競馬ファンからはあまり評判がよろしくないライブもぜひ描いて欲しいなー、というふうにも思っているわけです。別にメインで描く必要はないし、アニメでも額縁みたいな役割でしたが、中央との華やかさのギャップが描ける要素にもなるでしょうし、またウマ娘異世界ぶりがはっきりわかるという意味でも見てみたい、ライブ。

 あと、気になった点として、カサマツトレセン学園入学時のオグリは、公式イラストでつけている勝負服柄のカチューシャをしていないので、そのカチューシャについてのエピソードが盛り込まれるっぽい感じでしょうか。そのあたりも注目して見ていこうかなと。それから、舞台の笠松がカサマツになっているのは、フィクションなのでということなのでしょうが、佐賀競馬場もサガってカタカナだったのはなんでなんだろう……同じサイゲームスコンテンツで、佐賀を舞台にしたゾンビランド・サガに対する目くばせなのか、もしくは舞台として登場するのか。

 なんにせよ、作画担当の久住太陽によるレース描写の迫力やコマ割りのテンポも良くて、漫画としても期待できるものになっていると思いました。第二話も期待です。

寂しさが冷たく発火する:島田荘司『火刑都市』

改訂完全版 火刑都市 (講談社文庫)

 島田荘司作品の中にあって、かなり地味な地位にあると思われる本作。著者の二枚看板である御手洗シリーズや吉敷シリーズではないノンシリーズものではあるが、主人公は吉敷シリーズでたびたび出てくる中村吉造が務めている。

 この小説は島田荘司の社会派的な側面と都市評論的な側面が色濃く出た作品だ。そして、大まかにはそれに準じた二部構成になっていて、消えた女性の足取りを地道に追う前半部と、東京という都市にまつわる放火犯の後半部。それらが混じり合うというよりは、東京という都市の上に載せられていることで、まとめられている印象はするものの、二人の男女の奇妙な関係性――決して融和することはないが、離れることもできない姿と二重写しになっている。

 事件を追ってゆく中村刑事は、次第に東京という都市の姿を、そしてそこに住もうとしながらも馴染めなかった者たちの姿を見つめてゆくことになる。

  島田荘司による社会派作品ということだが、確かにごく普通の刑事が足で地道に捜査していく要素を軸にしつつも、著者らしいスケール感のある事件の膨らませ方や不可能興味などが盛り込まれていて、著者らしい魅力が滲んだ作品になっている。

 

あらすじ

 東京都内で起きた放火事件。雑居ビルの焼け跡からは、若いガードマンの焼死体が発見された。発火当時、詰め所で何故か寝入っていたガードマンは睡眠薬を服用した形跡があり、しかし普段から飲んでいる様子はなかったという。なにか不審なにおいのする死。事件を担当することになった中村は、ガードマン――土屋の生活の中に痕跡を念入りに消した女性の存在をかぎつける。

 人付き合いのない土屋の生活の中に婚約者として入りこんでいた女性は何者なのか。彼女の行方を追う中村。彼女の名前を突き止め、寒風吹きすさぶ越後の地にまでその姿を辿ることに成功したのもつかの間、そこで彼女――渡辺由紀子への糸は途絶えてしまう。

 由紀子を見失う一方で、東京では土屋の死から続く放火事件が頻発していた。その放火の現場は奇怪な状況で発生し、「東亰」という不可解な文字が書かれた張り紙が残される。そして、ついには犯人による犯行声明が。

 土屋の事件から始まる由紀子の失踪、そして連続放火事件をつなぎ、真相が明らかになる時、浮かび上がるのは奇妙で孤独な男女の姿。そして、彼らがみる東京という都市は中村に何を語るのか。

 

感想 ※この先は少しネタバレを示唆する部分があるのでそのつもりで。

 

 

 島田荘司は都市というものに執着していることをたびたび語ってきていた。そして、本作はその都市への思い――特に東京へのそれが物語として結実した代表作といっていい。

 この物語の前半部は社会派のフォーマットに則り、失踪した女性を追う刑事の足による地道な捜査が描かれる。そして彼女の故郷である越後の寒村に行きつくことで、社会派としての本作は一つのピークを迎える。

 しかし、この小説の島田荘司らしさ、その島田荘司流の社会派の真価はそこで失踪した渡辺由紀子の行方が途絶えてから始まる。放火事件が次々と起こり、そこに不可能興味が浮上していくとともに、本作もう一人の主人公ともいえる男の姿が浮かび上がる。同時に東亰という過去に束の間存在した東京のもう一つの言葉と水の都市としての側面。社会派的な前半部からギアチェンジする後半部は島田荘司ならではの演出が光る。

 東京についての憧憬ともいえる都市論が語られるとともに、放火犯の犯行声明により、放火が文字通り東京に対する「火刑」であったことが明らかになる。このある意味犯人の思想が色濃く出た作品は島田荘司作品の中にあって、異質な光芒を放っているように思う。

 実利的な動機を持つ女とどこか抽象的な動機で動く男。この二人の人物が二つのプロットを駆動し、中村刑事を動かす。しかし、それらは止揚するというより、東京という都市の器によってかろうじて盛り付けられている。そして、それらは彼らがつながり合うことはなくとも、なんだかんだ離れられない奇妙な関係性に陥っているのと重なり合い、構成が人間関係の二重写しとなっている。ある意味絶妙なバランスといえるかもしれない。

 島田荘司の作品はどちらかというと人情的な犯罪動機に収束していくタイプがおおく、この作品もどちらかというと女性の悲哀みたいな部分に収斂していくのだが、それでも放火犯の東京を火刑するという都市への、そしてそこに住む人間に対する怨嗟の叫びが発火するような犯行声明に私は魅せられる部分があった。まあ、単純に対世界みたいな中二感が好きという個人的な嗜好が入ってはいるのだけれど。

 犯人たちはどちらも東京出身ではなく、東京に来たもののそこからはじき出されてしまった人間だ。そして、それを追う中村吉造は東京に生まれた生粋の東京の人間である。中村には、彼らの疎外感は分からない。はじかれてしまったからこそ、男はかつてあったかもしれない水の都「東亰」に憧れを抱く。しかし、生粋の東京人中村はそんなものが今現れたとしても、やはり外堀は埋め立てられ、木は切られ、マンションが建つだろうと、どこか諦めにも似た思いを抱いている。

 女もまた東京が怖いと言い放つ。しかし、そんな中で初めて優しくされた、手を差し伸べてくれた人間が土屋だった。そのはずなのに、彼女は結局彼を好きにはなれなかった。誰にもうかがい知ることのできない彼女の孤独な空白を、やはり中村はどこか諦めたように眺めることしかできない。

 この作品は、大都市の中にあってどこにもつながることができない人間の寂しさ、そんな人間の今いる都市の、そして夢想する都市の寂しさ。どこまで行っても寂しいトーンで貫かれた物語であり、そして、著者の中村に託した東京に対する諦念にも似た視線を感じられる作品でもあるように思えるのだ。

 東京を火刑する炎、それはどこまでも寂しい冷たさをたたえている。