蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

透明な人間たち:映画『透明人間』

 久しぶりに映画館に行ってきた。『透明人間』といえば、ウェルズ……というよりバーホーベンの『インビジブル』が強烈に刻まれている自分。なので透明人間と言えば古典的な、包帯をとっていくと何もない! というヴィジュアル以上に、フリチン男(ケヴィン・ベーコン)大暴れの恐怖に取りつかれているのだが、今回は透明であるというか、何かが家の中にいるという恐怖感が強く、誰もいない部屋というか空間の映像が、誰かの視線なのかただカメラが写しているだけなのかという不安定さを含めてかなり怖かった。恐怖感としてはへレディタリーよりも怖かったと思う。そして、理解されない恐怖がじわじわ主人公をむしばんで行く様や、透明人間に追い詰められていくサスペンス性もかなりよかった。バーホーベンのむき出しの人間性とは対局の、どこまでも冷たく透明なトーンが貫かれていて、透明人間映画のまたひとつのマスターピース誕生といったところです。

 

あらすじ


 崖の上に立つ大きな屋敷――静まり返ったその広大な屋敷の中から忍び出ようとする女性の影。彼女――セシリアをその異常な独占欲で拘束し、子供を産ませようとしている男――エイドリアンは、今ぐっすりと眠っているのだ。以前から周到に準備し、決行に移した逃亡計画だった。最後の最後でエイドリアンに気がつかれるが、間一髪で妹の車に乗り、男の手から逃れるセシリア。

 エイドリアンの魔の手を逃れたが、その恐怖は消えない。彼がいる限りその執着を感じ、匿ってもらっている知り合いの家から出ることができないのだ。そんな彼女のもとに、彼が手首を切って自殺したという知らせが届く。突然の自由と彼の遺産がセシリアのもとに転がり込むが、セシリアの不安は消えない。果たしてエイドリアンは死んだのか? しかし、エイドリアンの兄は死んだと断言する。

 少しづつ新しい生活へと足を踏み出そうとするセシリアだったが、次第に妙な視線のようなものや気配を感じ始める。何者かの存在感を意識し始める彼女に、ある夜それは訪れた。ふと目覚めたセシリアは掛けたはずのシーツがベッドの外に落ちているのを見て、それをつかみ、手元に引こうとしたところでそれは止まった。

 シーツの先には誰もいない。力を込めてさらに引く。しかし、シーツは動こうとしない。一点で床に止められたそれは、わずかに沈んでいる。まるで誰かが踏んでいるような――。透明な恐怖が、彼女の前に現れた瞬間だった。誰かが、彼女のもとへ侵入し、監視している。セシリアはその存在をエイドリアンだと確信する。彼は生きている! エイドリアンの生存を訴えるセシリアだが、なかなかまともに取り合ってもらえない。そんななか、彼女は次々起こる身に覚えのない出来事により、孤立を深めていく。跳梁し始める透明な悪意。

 そして、ついにそれは、彼女やその周辺にくっきりとした姿を現すのだった。

 

感想

 

 透明人間。透明な人間、というこの創作物は、吸血鬼やフランケンシュタインといった古典的なクリーチャー達とはどこか違う。そして、新興のゾンビとももちろん違う。凶悪な見た目をもっているわけではないし、何か特殊なルールで恐怖を伝染させるわけでもない。幽霊に近いかもしれないが、見えないようで見える幽霊以上にその姿は見えない。言ってみれば透明人間という物は透明という概念自体がキャラクター化したような物だ。見えないという意味では幽霊よりも徹底している。しかし、幽霊ほど超常的な恐怖を帯びているわけではない。

 ただ、透明になることで、人間の得体の知れなさを浮かび上がらせる。だからその恐怖はもっと身近で切実な物だ。

 これまでの透明人間は様々なアプローチがなされてきた。透明になってしまった人間を見る側の恐怖から、透明になってしまった側の悲哀まで。あくまで人間であることがその内面を描きやすくし、透明人間は透明になってしまった人間を中心に描かれることも多い。そのなかで異色作にしてある意味決定版みたいな存在がバーホーベンによる『インビジブル』だろう(異論はもちろん受け付けます……)。

 『インビジブル』はヒドイ映画だ。透明になると理性も消えるという台詞通り、透明になった人間の安っぽい欲望がむき出しになり、その安っぽさが人間自体の安っぽさを浮き彫りにする。バーホーベン特有の人間の安さで観客をぶん殴る凶悪な映画に仕上がっていた。また、一方でバーホーベンによる映画は透明人間のもつある種の不均衡さをくっきり浮かび上がらせてもいた。

 透明人間は「人間」とあるがだいたいが透明男だ。透明女はすぐには思いつかない。そこには男女の不均衡さ、もっと言えば見る・見られるの不均衡さが潜んでいる。たとえば男性が知らない女性に見つめられる場合、そこにはだいたいポジティブな意味合いが漂うが、女性が知らない男性に見つめられる場合はどこか危険な意味合いが強くならないだろうか。

 そして今回の映画は徹底して、その見られる女性の側から描く。透明の男の側はほぼ描かれない。透明の側が描かれるのは、その視線のみだ。だからこの映画は、家の中に誰かがいるかもしれないという恐怖以上に、見られることについての恐怖がある。プライバシーをのぞき見られる恐怖、自分のテリトリーが知らずに犯されている恐怖。そしてそれは、多くは女性が受ける被害でもある。だから、この映画の恐怖はとても身近で切実だ。

 そして、従来の透明人間の映画と逆転した展開として、これまでの映画が透明人間が追い詰められていく話であったのとは逆に、透明人間の被害者である女性が追い詰められていく展開となっているのも一つの特徴だろう。透明人間と言えばだいたいがとあるプロジェクトで透明化の薬を開発していて……みたいな話から、国家や組織に追われる透明人間、という話になっていくのだが、今回の透明人間は、そんな人間いるわけないだろ、という風にその存在を訴える彼女の精神が疑われていく。『ローズマリーの赤ちゃん』的な周囲から信用されない、頼るところから切り離されていく恐怖感。そして彼女は個人でその透明人間と対決しなければならなくなる。

 前半部は徹底して見えない存在がちらつく透明の恐怖パート、そして透明人間が「姿を現す」瞬間(これがなかなか怖い)を経て、今度は透明である人間――男との戦いという二部構成がなかなか上手く映画を作り上げている。そして主人公の女性の変遷もまた注目というか、透明男に勝利して終わりというわけではなく、主人公もまた”透明”の側へと渡ってしまったような姿が見た後も後を引く。一方的な見る・見られるという関係が最後に逆転することで、今度は主人公の心の内もまた、次第に見えなくなっていくという「透明な」ラスト。どこか陰鬱な幕引きは、それも含めどこに転がっていくのかという緊張感が最後まで続いていて、新たな透明人間映画のマスターピースの誕生になっていたと思う。おススメの映画だ。

 

 

 ※最後のちょっとした余談:ここからはネタバレが含まれるので注意

 

 

 

 

 また、今作は透明人間についてのアプローチにも新機軸というか、現代的な方法論を持ち込んでいて、薬物などで体が透明になるというのではなく、透明スーツによる透明化というまあ、ある意味当然というか早いもの勝ち的な要素が選択されている。果たしてこれは従来的な意味での透明人間のなのかという問題はあるかもだが、これはこれで透明人間のより透明化というか、誰もが透明人間になるということで、誰が透明人間なのかというある種の匿名化が付与される。それにより、より透明の恐怖というものが深まっているのだ。ミステリー的なプロットも導入できるわけで、この要素が透明人間映画のさらなる物語の進化に影響を与えるのかもしれない。

 あと、この透明スーツの導入が、透明人間がこれまで宿命的に持っていた全裸のかもしだす強烈な性のイメージを中和して、そういう意味でもより透明化が進んだように思う。その他にも着脱可能なスーツが見る・見られるの不均衡さを解消するギミックになってる点にも注目だろう。