蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

笑い者が世界を笑うまで:映画『JOKER』

 とりあえず、迷っていたら観に行ってほしい。こんなにも笑い声が悲しい映画はそうない。

 どこまでも孤独な人間が、ささやかだか自己を規定していたものを少しづつ削られてゆくさまは、別にこの映画に限ったことではなく、“いまここ”にある現実でもある。どこにも救いはなく、世の中のすべてが男を押しつぶそうとする、その先にあるのは燃えさかる地獄の世界だ。

 ブルースなんかどこ吹く風、肉屋が大好きな豚の鳴き声が響き渡る。そんな時に現れたこの映画を、人々はどう観るのか。まあ、それは特に興味ないけど。

 監督はトッド・フィリップス。あのハングオーバーシリーズの監督だ。ハチャメチャギャグから一転してこんなドシリアスな映画なのか、という気もするが、登場人物たちがのっぴきならない状況に追い込まれるのは同じではある。そして、主演はホアキン・フェニックス。『容疑者ホアキン・フェニックス』のために世間をペテンにかけた男。自分の中だと、いまだに『グラディエーター』のコモドゥス帝にインパクトが残ってて、狂乱以上に何考えているか分からない静かな狂いっぷりが今回の映画にも通底しているように思う。

 あらすじ

 ゴッサムシティには文字通り腐臭が漂い始めていた。清掃業者のストは18日目に突入し、政治の機能不全はその漂う臭いのように明らかになり始めていた。そしてゴッサムの歪みは、街の中でひっそりとコメディアンを夢見る貧しい道化師、アーサーに容赦なく襲い掛かり始める。音楽店の閉店セールで看板を掲げる仕事中に、少年たちに看板を奪われ、追いかけた先で暴行を受けるアーサー。看板をなくしたことで音楽店からは抗議、そして雇い主に叱責される彼に同僚ピエロが身の安全にと渡した一丁のリボルバー。それが、アーサーを取り返しのつかないところまで追いつめてゆく。

 小児病棟での仕事中、子どもたちの前で忍ばせていた銃を取り落とし、あっという間にクビを言い渡されてしまうアーサー。そして失意の中、帰宅途中の列車内でサラリーマンに絡まれていた女性を救うため、笑い声で自分に気を引くが、その代わりに絡まれ殴り倒される。男たちの暴行は激しく、アーサーは咄嗟に取り出した銃でそのうちの二人を射殺。足を撃った残りの一人も追いかけてホームの階段前で撃ち殺す。

 その後駆け込んだ公衆トイレ内でアーサーは舞う。静かに、ゆっくりと踊る彼から、零れ落ち始めるのはそれまでの彼自身か。

 彼は社会から押し出されるようにして踏み出した。もう戻ることのできない“喜劇”への階段を、彼は――ジョーカーは、ただひたすらに駆け下りてゆく。

 

感想 ※ネタバレ前提で語るのでそのつもりで。

 彼は人を笑わせたかった。しかし、現実は彼を虐げ、笑い者にし続ける。そんな彼が世界を笑う者になるまでを映画はつぶさにとらえてゆく。

 JOKER――バットマンにとどまらず、アメリカンコミックにおいてこれほどの存在感を持つヴィランはいないだろう。映画ではこれまで、ジャック・ニコルソンヒース・レジャージャレッド・レトが演じてきた。中でもヒース・レジャーのジョーカーは半ば神格化されるほどの存在感で、ヒースがジョーカーを演じた『ダークナイト』もまた、ジョーカーという悪についての決定版といえる映画となっていた。

 そもそもジョーカーはその出自をあまり語られない。数あるコミックスで売れないコメディアンだったとか、けちな強盗だったとかがわずかに語られるだけだ。『ダークナイト』のジョーカーもそれに準じ、人間的な部分をまるっと欠いた純粋悪、つまりは悪魔の化身だった。悪魔が人々を悪の道へと引きずり込む。バットマンという正義のコインの裏。『ダークナイト』は観客にジョーカーが示す悪なる世界を見せつける映画だった。

 今回のホアキン・フェニックスが演じるアーサー=ジョーカーは、一人の人間が悪に堕ちてゆくまでの映画だ。どんなに生きにくくても社会のすみっこでしがみついていた男が、すべてをなくし、何者でもない男になる。彼を取り巻くあらゆるものが、彼の細い体を締め上げてゆく。

 観念的な悪がテーマだった『ダークナイト』とは対照に、これはだいたいの人が「分かる」映画だと思う。アーサーは「可哀そうな人」で彼が状況含めてヤバくなる時は毎回コントラバスを中心とした不協和音が鳴り響くので、そういう意味でも分かりやすい映画だ。分かりやすいと言えば、階段も象徴的な存在として分かりやすく登場する。決定的な瞬間はだいたいそばに階段がある。仕事を失った時や初めて人を殺した時、自分の過去の秘密を知った時など。なんというか、天国と地獄みたいな象徴でもある。つらいながらも夢を見て階段を上る姿はやがて、下に降りてゆくことが増えてゆく。そんなふうにこの映画は「分かりやすく」そして、だからこそどこまでも深い底へと連れてゆかれる。劇物のような映画、なのかもしれない。最後の光景は、世界で今起こっていることそのもののような光景だ。

 まあ、劇物かどうかはともかく、この映画は何よりものすごく美しく、そして悲しい映画なのだ。脳障害で切羽詰まると発作的に笑ってしまうアーサーが笑うシーンはどれも悲しく、こんなにも人が笑うシーンが悲しみしかない映画はそうない。そして、彼が堕ちてゆくごとに、涙が流れた。人が犯罪を犯すシーンに涙してしまう、これはそんな映画でもある。

 富裕層であるビジネスマン3人をアーサーが撃ち殺したことで、低所得者たちは彼を英雄視する。だがアーサーは何も信じていない。彼を映画の初めで暴行したのは低所得層の少年たちであり、自分を決起としたデモにはどこか冷ややかだ。しかし、デモがゴッサムを燃やすとき、彼はパトカーの中からそれを満足そうに眺め、笑う。切羽詰まったストレスがかかった状態でしか笑っていなかった男が、恐らく初めて本心から笑う。「人生はクロースアップで撮れば悲劇で、ロングショットで撮れば喜劇になる」そんなチャップリンの言葉のように、自分自身を、世間を遠くから眺めるようになって、彼はようやく笑えるようになったのだ。そして、最後には血塗られた笑みを浮かべる。

 アーサーがジョーカーとなってゆくシーンはどれも鳥肌ものなのだが、中でも最後のシーンは、その踏み越えていった瞬間――復活と祝祭の光景は映画史に残る場面だろう。

 

 アーサーとロッキー

 最後に、この映画は70年代映画の空気を濃密に纏っている。最初に現れるワーナーのあのデコラティブを排した懐かしのロゴ、そしてそれに準じた時代設定。監督のトッド・フィリップスは、本作の制作に影響を受けた作品として、70年代のアメリカン・ニューシネマ――『タクシードライバー』を筆頭に『キング・オブ・コメディ』『セルピコ』『カッコーの巣の上で』を挙げていて、かなりダイレクトにオマージュを捧げている部分が見られる。そして、これら以外に、本作から浮き上がってくる映画がある。『ロッキー』だ。

 アメリカン・ニューシネマを終わらせたとも言われたりする『ロッキー』は当初、ニューシネマ路線で制作されていたが、最後の最後をロッキーの凱歌のようなシーンにしたことで、鬱々としたニューシネマの空気を払い、ふたたびハリウッドの映画を娯楽映画路線に切り替えた――少なくともその決起の一つとなった。そんな「アンチ」ニューシネマな『ロッキー』にこの作品はどこか似ている。汚いフィラデルフィアの売れないボクサーが、同じような貧しい女性と心を通わせ、やがて世界チャンピオンから挑戦の誘いを受ける。本作も売れないゴミ溜めのような街で、コメディアンが貧しいシングルマザーの女性を慕いつつ、売れっ子コメディアンから招待される。ただ、本作はそれがすべて幻と化す。ロッキーはあの有名なフィラデルフィア美術館の階段を駆け上り栄光をつかむが、アーサーは階段を駆け下りてジョーカーとなる。ロッキーと決定的に違い、この映画はどこまでもニューシネマだった。

 この映画はある意味裏ロッキーというか、アメリカン・ニューシネマを終焉に導いた『ロッキー』への復讐なのかもしれない。

君と僕であなたと私の物語:映画『HELLO WORLD』

 『HELLO WORLD』観てきましたよ。イーガンでディックでマトリックスな青春ラブストーリーと言えばいいのか。結果としてはなかなか面白かったです。

 とはいえ、やはりイーガンというか、この手の量子力学ガジェットSFは頭がこんがらがる。時間とか空間とか、ミステリだってアリバイがどうとかいう要素には頭がパーになるのに、SFだといっそう手が付けられない感じがします。とはいえ、何か分からんが面白いという、その面白さは担保されていたように思います。

 セルルックCGは最初、もっさりしたような気がしてましたが、そのうち慣れました(多分気のせい)。というか、堅書君が頭突っこんだ一行さんのスカート越しのお尻の質感が妙にリアルでビビった。一番すごいと思った3DCGのシーンがそこかよ、というのは自分でもどうかと思いますが、すごかったんだからしかたないじゃん。

 まあ、それはそれとして、3Dモデルでのアクションは実のところ見劣りする方だと思う。ただ、CGの変化エフェクトとかがとてもいい。プロメアも良かったんですが、この作品のCGエフェクトを観るのも楽しみの一つだと思いますね。10年代的なリアルな日常描写アニメの中に、それ以前のアニメのケレン的演出(板野サーカスとかさ)も結構あって、新旧のごった煮感みたいなものも結構楽しい。

 で、あらすじはというと、ざっくりいえば自分に自信のない本好きの少年のもとに、未来の自分が現れて、三か月後にあの娘と付き合うようになるから、俺の言うとおりにしろ、みたいなことを言われて、最強のマニュアル本(日記)片手にギャルゲーよろしく未来の彼女を攻略する……という話――というのはごくごく表面な話であり、実は……みたいなレイヤーが幾層も重なっているので、予告とか見ないで観てみるのが一番いいと思いますね。

 ※というわけで、この先は具体的な話の内容に触れていきますので、そのつもりで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実のところ話の内容はあまり整理がついていない。最後のシーン、堅書直美が目覚めるところが一番外側ということなんだろうけど、ということは、落雷事故にあったのは本当は堅書君なのか、と一瞬思ったが、一行さんがあのジャケットを持ってたところを見ると、落雷事故後のカタガキナオミが一行さんを助けるために奮闘した結果、こん睡状態になり、その後目覚めた一行さんが今度はナオミを助けるために奮闘した、ということなのか? あのカラスによって一行さんはナオミや堅書君を導いていたということ?

 それはそれで疑問点が出てきそうだが、私の頭ではそういう感じでハッピーエンドということでもういいかな、みたいな。最後の世界の外側にも……みたいなディック的思考とかも振り払うんだ。とはいえ、少年少女の堅書君と一行さんが行きついた新しい世界、新しい宇宙って何なんだ……分岐? 量子テレポート? あと、博士たちの、量子的世界内でその装置を止めることの意味とかよく分からない。あれは博士たちのアバターなのかな。うーん、小説やその他のスピンオフで補完する必要がありそう……。

 自分の拙い頭では考えが追い付かないところがあるが、まあそれはそれで、色々考えて楽しんでねということなのかもしれない。SF的な辻褄はともかく、キャラクターの変化、特にヒロインの一行さんの変化と主人公との関係性の変化を見ていくだけでも楽しいし。

 少しあるベタな、というかはっきり言って古臭いアニメっぽさ(というかギャルゲのイベントみたいな演出)と、丁寧な芝居の混在は気になる人は気になるような気もしますが、丁寧な描写の比重の方が大きいですし、堅書君の必死さ、一行さんの可愛らしさとか丁寧に描写されていて、SF的に分かんなくてもラブストーリーとしての満足感はあるのではないかと。

 あと、やっぱり大人カタガキナオミの切ない感じですよ。あのデ・パルマなスプリット画面とか、京都駅の階段での一行さんとのやり取りとか。「まどマギ」のほむらちゃん味がありますね。

 本作は明らかに『君の名は。』ヒット後のプロダクツで、歌音楽流して日常早送り、みたいな演出含めてそれを意識した諸々があるんですけど、そんな君と僕(キミとボクみたいなカタカナ表記とかセカイ系とか正直好きじゃない、てか無内容すぎて嫌いな言葉ですが)で、あなたと私の物語(ここは後述します)はついに宇宙を創るに至る。開闢ですよ。ブラックホールは伏線なのか(どうだろう)。

 主題歌の『イエスタデイ』は本当にストレートに映画の内容を歌詞に書いている。

「はるか先へ すすめ 身勝手すぎる恋だと 世界が後ろから指さしても ふりむかず進め 必死で 君のもとへいそぐよ」

 『天気の子』もかくやの突っ走りぶりで、君と僕な物語はしかし、最後に至り、あなたと私の物語であることが分かる。というか、あなたと私たち、かな。対世界において頼れるのは自分自身みたいな形で進む物語は、実は救おうとした女の子が男の子を救う物語でもある。かなりさりげないのだが、堅書君は仲間たちがいることがED含めて描かれていて、それは大学に見学にいってから縁を結び、のちに研究室で本格的に出会う人々だ。一人で戦っていたかに見えた堅書君だが、ほんの最後の数秒で縁を結んだ人々が救いに来る、そんな王道的な物語が瞬時に立ち上がる、というのもある意味ラスト一秒の衝撃であり、個人的には地味に感動するところだ。彼らが、月面(だよね?)という地球の外にいるのもなんとなく対世界的な意味で示唆的な気がする。

 そんなわけで、『君の名は。』とかもそうでしたけど、一人では届かないけど、二人が等距離を歩みよれば手を結べる、そんな物語が好きということもあり、私は好きですよ、この映画。一行さん可愛いで推しても良いですけど(カタガキさんもいいぞ!)。

 

 

 

 <こっからはただの関係ない独り言なので、あんま読む必要はないです。>

 

 なんていうか、90年代的な、というと主語でかすぎと言われそうですが、まあ、その一部で存在した物語群、というかこれまでずっとあった物語のカタチとして、喪失を飲み込み、そんなままならない現実を失ったキミごと受け入れるボク、みたいな書いててオゲーな物語(いやまあ、それは一つの物語のカタチや選択としてはアリなのだが)と、それがご都合な物語よりも上位に位置するみたいな、圧力かけてくる人たちがいたじゃないですか(『BEATLESS』のラストについての感想とかでもそういうの見たんだよな……)。何かと主人公に都合のいい(と彼らが言うだけなのだが)のを許さない、みたいな。結局のところ、それは、誰かを助けようとはしないくせに、みんなのために我慢しろという、時代の気分というか、今でも続く世間の本性みたいなものから発せられていたような気がしないでもない。ていうか、そういういう論評書いてた連中、現在では見事な現状追認大好きの冷笑主義者になってるような。

 黙っていれば奪われるだけだ――たぶんこれからはそういう気分がよりリアルになっていくように思う。たとえお前たちが世界のエラーであると寄ってたかって“修正”しようとも、それを蹴っ飛ばして、投げてちぎって、新しい世界を造る。それは一歩間違うと革命主義的な方向に行きそうな気がするが、それでも進むしかない。ここにきて、『七日間戦争』が劇場アニメ化されるのはたぶん偶然じゃない。

 まあ、本作の世界はあくまでデータというふうに装っているので、対世界、反社会みたいなトーンは『天気の子』ほどあからさまではなく、あくまで隠喩にとどまっているので、そこまで反発は抱かれないような気がするが。とはいえ、ある種の「反旗」がアニメの世界からあがってきているように思ったり(まあ、それが続くかどうかは、それこそ分からないけど)。

ヘンはヘンだが楽しい:映画『サイン』

 『ジョーカー』の予習というかなんというか、ホアキン・フェニックスの映画を観とくか、みたいな感じになり、いまさらというチョイスですが未見だったこれを観てみました。自分にとってホアキン・フェニックスは、『グラディエーター』のシスコン皇帝なんですが、この映画もまた、微妙に何とも言えない狂人感が滲んでて、よかったような。映画はシャマランです。それ以上なんかいう事あるの?

 ……一応、感想いきますが、相変わらずの端正な構図とカメラワークというかなんというか。小津をミリ単位で意識しただけのようなカメラは、役者がじっとこちらを見てきて、テレビをじっと見てる人を見返してるような間の抜けた空気。それは狙ってるのか何なのか。ミステリーサークルで宇宙人、そんな陳腐なネタを何のひねりもなく端正に捉えてゆくカメラが、妙な笑いを生む。特にホアキンのあれこれなシーンは笑えます。何なんだよこの映画は。そしてこのホアキンがいるからこそ、最初から最後までクソ真面目なメル・ギブソンにも可笑しみが漂い始めています。宇宙人に染まる家族をクソ真面目な戸惑い顔で見てる姿はマジで面白いです。

 個人的に好きなシーンは、子どもたちがテレビの前で宇宙人に興奮してる中、奥のソファーで並んでぽかんとテレビ見てるホアキンとメルギブです。めちゃくちゃ笑いました。

 メルギブ含めてキリスト教原理主義に対する壮大なジョークなのか、はたまた本気に信仰の物語なのか、マジで良くわかんない所も「笑うしかない」みたいな感覚に繋がっているような気がしますね、はい。

 全体的に可笑しさがすごいんですが、とはいえ、サスペンス演出も妙に生真面目というか、きちんとツボを押さえていて、サスペンス映画としての目の離せなさはちゃんとあります。そこもなんか奇妙な感じもしますが、その辺は『ヴィジット』と通じるところがありますね。

 決してつまんない映画ではない。変ですが一応、楽しく観れる映画ではあります。まあ、怒る人が多いのは分かる気はしますが。

好きなヒーロー映画

 ヒーロー映画。ここでは邦画以外のアメリカンコミックを中心としたヒーロー映画、いわゆるスーパーヒーロー物、そのなかで自分が好きな映画を挙げてみたい。

 まあ、実のところここ最近はマーベルを中心としたスーパーヒーロー映画ってやつには食傷気味というか、なんか馴染めないものを感じつつあるので、自分の好きなヒーロー映画ってなんだっけ、みたいな感じで振り返ろうかなーみたいな。

まずはこれ

  ティム・バートン版の第一作。バットマンは自分にとって結構なじみ深い。アメリカにいた3歳くらいの時にテレビ版のバットマンを観てたことがあって、あの黒パンツのバットマンに緑パンツのロビンは目に焼き付いている。あとなんかみょーにエロい感じがしたのも憶えている。人形も持ってた。バックルを引っ張ると糸が出てきて巻き取るやつ。

 まあそれはともかく、これと『バットマン・リターンズ』が自分のバットマンの原点的なものがありますね。バートン的な過剰なメルヘンさで悪夢のように装飾されたゴッサムシティ。私はこの映画によってバットマンゴッサムという都市で刻まれた感があります。

 ジャック・ニコルソンのジョーカーも存在感を放っていますが、マイケル・キートンも負けていません。どちらも変人、狂人、という雰囲気をたっぷり纏っていてゴッサムの街に溶け込んでいます。

 

  これも外せませんね。一作目のヒットを受け、増した裁量権をバートンが悪用(笑)してよりダークでよりグロテスクな悪夢を観客に見せつけます。一作目で割と一般的に受ける王道を作ってから二作目で好き放題するのは押井守に通じるものがありますね(そうか?)

 フリークスたちの悲しみを描きつつ、彼らがつぶし合う異形どものクリスマス。

 しかし、キャットウーマンもペンギンもその孤独な姿が何とも胸を打ちますね。バットマンに敗北して仲間たちにさらっと見捨てられるペンギンの姿はとても悲しい。

 あとバットモービルが超カッコイイ。サーカス団風のペンギン配下との戦闘シーンも必見ですね。

 

  次もまたバットマンですよ。しかし、このBDのジャケット、バットマンがいない……というか、バットマンは添え物でヒース・レジャーのジョーカーの映画といって過言ではないでしょう。個人的に、ノーランバットマンはこの作品以外は全然ダメなので、やっぱヒースの映画という思いが強い。

 悪のカリスマというか、もはや悪魔そのものといったジョーカーはひたすらバットマンを、観客を笑いのめす。画面に映っているのは純粋な狂気。ひたすら見せつけられる悪意に、ここで示されるフェリーの乗客の“善意”もまた、どこかちゃちなオモチャっぽく思えてくる。そんな劇物のような作品。

 

  マーベルの映画だと、これが一番好きですね(まあ、全部観てるというわけではないのですが)。ヒーローの晩年、それは西部劇。西部劇好きってのもあるかもしれませんが、でもやっぱり西部劇ですよこれは。完全に他のX-メンの映画世界とは違う、滅びに向かうミュータントの老人は、その命を賭して新しい世代のミュータントを守る。ヒーローの墓標のような映画。

 ウルヴァリンはその爪ゆえにスプラッタな存在だけど、これまでは配慮してそれを封じてた部分がありましたが、この映画ではそのリミッターを解除。結構なゴア描写が遠慮なくぶちまけられています。血を浴びるヒーロー、それこそがウルヴァリン――ローガンなんですね。

 

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  最後はこれ。スーパーヒーロー物かと言われると、まあちょっと違うんですが。まあでも、金がないバットマンみたいなものだし……。ジェームズ・ガンの作品はガーディアン・オブ・ギャラクシーよりはこっち。

 妻が連れ去られたのを切っ掛けに自分をヒーローと思いこんだ中年男が、自家製スーツに身を包み、自警しながら妻を追う。同じような頭のイッたコスプレ女にまとわりつかれながら、列に横入りする奴とかにスパナで襲い掛かったり、子どもに卑猥なことを言うやつをボコったり。かと思えば逆襲されたり……。

 強烈なグロ描写も飛び出して、とにかく痛くてイタイ。情けなさ200パーセント。でも、そのやるせなさが観る者の胸を強烈に締め付ける。ここで挙げた映画の中で、ぶっちゃけ一番好きな映画というか、心に刻まれた映画。

 

 というわけで、まあこんな感じでしょうか。あとは『皆はこういった、鋼鉄ジーグ』とか、『キックアス』とかも好きですね。なんというか、結局はスーパーヒーローが好きというよりは、「怪人」が好きなのかもしれません。

さだめられた結末を見つめる:『さよならの朝に約束の花をかざろう』

 ちょっと前に見た映画の話。というか、だいぶ前の話になるが、一昨年はクリスマスに『ゴケミドロ』観たので、今回は『サイレントヒル』を観ようと思ってたんですよ。しかし、家人が劇場で観てすごく良かったからこれを観ろ、泣ける、みたいな感じで勧めてきて、半ば強制的に別の映画を観ることとなったのでした。

 その映画は『さよならの朝に約束の花をかざろう』である。とりあえずネタバレ前提というか、結末含めた話の大筋を書いてしまうのでそのつもりで。

 とはいえ、ネタを知ったところでどうこうなる映画では全くありませんが。

 2018年は17年に続いてにアニメ映画が充実した年といってもよく、この映画はそれらの一角を占める作品として称賛された。また、著名なアニメ脚本家として健筆をふるっている岡田麿里氏が監督を務めたということで、注目されることにもなった作品である。

 とまあ、メンドクサイ前置きはさておき、この作品はざっくりいうと、不老(不死ではない)一族――イオルフの少女が親を失った男の子の赤ちゃんを拾い、育て、やがて時が両者を引き放し、親として子供を看取る話である。

 世界観は古典的というか、どちらかというとジブリというより現代的な日本のゲームファンタジーに近いかもしれない。伝説の巨竜で他を圧倒していた王国が、その朽ちてゆく伝説の竜の代わりに不老の一族に目をつけ、主人公マキアの里を襲撃するところから物語は始まる。一人、襲撃から逃れたマキアの前に、両親を殺され、母の固く硬直した腕の中で泣き叫ぶ赤子。それを見て、同じように大切なものを失ったモノの埋め合わせか、彼女は赤子を取り上げ、育てようと決心する。

 この映画は、その不老の少女という存在により、少女性を纏わせたまま、姉、恋人、そして母という多重性を描いてゆく。その鏡として赤子は少年、青年、そして父となる。確固として変わらない記号としての姿に込められた多重性と、姿とともに役割を変えてゆく存在との摩擦。そのどこか悲しみを帯びたすれ違いがPAワークスの抒情的な作画の中で描かれてゆく。

 それから、この映画はなんといっても、始まりから「分かり切った終点」に向かってゆく映画だ。ハリウッドでよくある「事実をもとにした映画」ならともかく、オリジナル映画でここまでどうなるかが分かり切った映画は現代では珍しい方かもしれない。しかし、だからと言ってつまらないということはない。彼女が赤子を取り上げた瞬間から、私はお母さんだから泣かないとマキアが決めた時から、観客はその終点を知る。先読みされることを恐れる映画や、ネタバレ厳禁を謳う風潮など何のその、映画は観客が悟った結末へ確かな足取りで進んでゆく。

 出会いがあれば、別れがある。そして、死というものは避けられない。そういう意味で、誰でも自分の結末は知っている。ファンタジーとして描いてはいるが、生きていれば必ずある“別れ”についてのこれは普遍的な映画なのだ。そして、その別れをキャラクター同士の関係性の移ろいを経て、一歩一歩確かめるようにして見つめてゆく。これはそういう映画だ。

 それから、この映画は仕草というか日常芝居がめちゃくちゃ丁寧だ。あと、性的な部分は全くない清浄な画面から性的な欲望のニュアンスがドロドロ出てくる、その不意を突くような官能性が地味にすごい。秘めた感情、押し殺した願い。そんな言葉を持たない人の思いが画面にあふれていて、そのアニメーションが実にいい。

 固定された姿の少女を通して、日々の、人々の二度とは戻らない移ろいを見事に映し出していて、不老の少女は、やがて赤ん坊に来る死を、初めて彼を腕に抱いたときのように看取る。彼が彼女を慕った日々を昨日のことのように思い出しながら。

 そうして、少女は、それでも過ぎてゆく新しい「さよなら」のなかに帰ってゆく。またそれを見つめ続けるために。

 

 ※そういえば、ヒビオルってやっぱり日々織るという意味合いから来てるんだろうか。

 さて、日に日に安っぽい地金をさらして「小さくバカになってゆく©乙事主」島でみなさん元気に生きてますでしょうか。“生きろ”というのも正直勘弁してくださいな感じですが、クソがあふれ切って、いつか窒息するまでは何とか齧ったフィクションの記録とやらを続けていこうかと思いますです。

 しかし、私は人から面と向かって幼稚だと言われる人間なんですが、自分みたいな人間であふれているとは、この島もやりますね。「日本中が君のレベルに落ちたら、この世の終わりだぞ」とは、ドラ先生もよく言ったものです。私と同等の幼稚人間たちがどこまでヘラヘラできるのか、まあ、案外過去もそうだったように死ぬまでずっとそうなんでしょう。バカは死んでも治らないのです。

 それにしてもデフォで幼稚でバカだからそれなりに頑張ろうという視点がすっぽり抜けて、初期値で礼儀正しく謙虚で技術力が高い(!?)、みたいなその自信はどっから来るのか……

 『アーカムアサイラム』のジョーカーは外の世界をだだっ広い精神病院と言ってたが、この島はだだっ広い小学校で、そっちの方がより地獄なんじゃなかろーか、と思う今日この頃。

 そういえば、また新しいアニメが始まりますね。今期もいつも通りというか、やっぱりあんまり観れてなくて『鬼滅の刃』、『彼方のアストラ』、あと『女子高生の無駄づかい』あたりを観てました。「鬼滅」も「アストラ」もよかったんですけど、個人的には「女子高生」がなんか好きでした。こういう青春もの好きですね。

 twitterのTLだと、青春ものと言えば「わたモテ」とか「僕ヤバ」がすごい熱で盛り上がってるんですけど、個人的に楽しみつつもノリ切れないところもあって、そんな中「女子高生」は自分的には割とキャラクターたちにしっくりくる感じがして何度か繰り返しだらだら観てました。

 なんというか、バカっぽいところがすごく好きというか、主人公田中望のあだ名が直球の“バカ”で、徹底してしょうもない言動を繰り返す彼女を軸に、無表情天才キャラの“ロボ”、一応ツッコミ役ながら、スイッチが入ると早口が止まらない“ヲタ”(裏、というかアニメだと構成上の主人公)の三人がメインの日常ギャグ、その何とも言えないバカっぽい空気感がたまらない。

 三人以外にもオカルトマニアや中二病といった属性つきのキャラクターたちが自分の属性を徹底して貫くことで、そのかみ合わなさなどが可笑しみをかもしだしていて、その合間合間にちょっとつながる瞬間がある。そのさじ加減が個人的にかなり好みでした。

 あとなんていうか、部活とかより小さい集団で集まってどうこうとかじゃなくて、適当にぶらぶらして会った人間たちと会話していく感じ。一応、メインの三人はつるんでる感じなんですけど、一緒に登下校してる間だけのダラダラ感というか、たまたま方向が一緒だったからみたいな距離感がいいんですよ。一人いなくても、二人いなくても、まあそれはそれで、みたいなそんな感覚。

 ギャグも過度なパロディとかじゃなくて、それぞれの属性が生み出す過剰さがメインで、そこも結構好きですね。

 バカっぽさとダラダラ感。これぞ自分の求める青春って感じでとても良かったです。