蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

笑い者が世界を笑うまで:映画『JOKER』

 とりあえず、迷っていたら観に行ってほしい。こんなにも笑い声が悲しい映画はそうない。

 どこまでも孤独な人間が、ささやかだか自己を規定していたものを少しづつ削られてゆくさまは、別にこの映画に限ったことではなく、“いまここ”にある現実でもある。どこにも救いはなく、世の中のすべてが男を押しつぶそうとする、その先にあるのは燃えさかる地獄の世界だ。

 ブルースなんかどこ吹く風、肉屋が大好きな豚の鳴き声が響き渡る。そんな時に現れたこの映画を、人々はどう観るのか。まあ、それは特に興味ないけど。

 監督はトッド・フィリップス。あのハングオーバーシリーズの監督だ。ハチャメチャギャグから一転してこんなドシリアスな映画なのか、という気もするが、登場人物たちがのっぴきならない状況に追い込まれるのは同じではある。そして、主演はホアキン・フェニックス。『容疑者ホアキン・フェニックス』のために世間をペテンにかけた男。自分の中だと、いまだに『グラディエーター』のコモドゥス帝にインパクトが残ってて、狂乱以上に何考えているか分からない静かな狂いっぷりが今回の映画にも通底しているように思う。

 あらすじ

 ゴッサムシティには文字通り腐臭が漂い始めていた。清掃業者のストは18日目に突入し、政治の機能不全はその漂う臭いのように明らかになり始めていた。そしてゴッサムの歪みは、街の中でひっそりとコメディアンを夢見る貧しい道化師、アーサーに容赦なく襲い掛かり始める。音楽店の閉店セールで看板を掲げる仕事中に、少年たちに看板を奪われ、追いかけた先で暴行を受けるアーサー。看板をなくしたことで音楽店からは抗議、そして雇い主に叱責される彼に同僚ピエロが身の安全にと渡した一丁のリボルバー。それが、アーサーを取り返しのつかないところまで追いつめてゆく。

 小児病棟での仕事中、子どもたちの前で忍ばせていた銃を取り落とし、あっという間にクビを言い渡されてしまうアーサー。そして失意の中、帰宅途中の列車内でサラリーマンに絡まれていた女性を救うため、笑い声で自分に気を引くが、その代わりに絡まれ殴り倒される。男たちの暴行は激しく、アーサーは咄嗟に取り出した銃でそのうちの二人を射殺。足を撃った残りの一人も追いかけてホームの階段前で撃ち殺す。

 その後駆け込んだ公衆トイレ内でアーサーは舞う。静かに、ゆっくりと踊る彼から、零れ落ち始めるのはそれまでの彼自身か。

 彼は社会から押し出されるようにして踏み出した。もう戻ることのできない“喜劇”への階段を、彼は――ジョーカーは、ただひたすらに駆け下りてゆく。

 

感想 ※ネタバレ前提で語るのでそのつもりで。

 彼は人を笑わせたかった。しかし、現実は彼を虐げ、笑い者にし続ける。そんな彼が世界を笑う者になるまでを映画はつぶさにとらえてゆく。

 JOKER――バットマンにとどまらず、アメリカンコミックにおいてこれほどの存在感を持つヴィランはいないだろう。映画ではこれまで、ジャック・ニコルソンヒース・レジャージャレッド・レトが演じてきた。中でもヒース・レジャーのジョーカーは半ば神格化されるほどの存在感で、ヒースがジョーカーを演じた『ダークナイト』もまた、ジョーカーという悪についての決定版といえる映画となっていた。

 そもそもジョーカーはその出自をあまり語られない。数あるコミックスで売れないコメディアンだったとか、けちな強盗だったとかがわずかに語られるだけだ。『ダークナイト』のジョーカーもそれに準じ、人間的な部分をまるっと欠いた純粋悪、つまりは悪魔の化身だった。悪魔が人々を悪の道へと引きずり込む。バットマンという正義のコインの裏。『ダークナイト』は観客にジョーカーが示す悪なる世界を見せつける映画だった。

 今回のホアキン・フェニックスが演じるアーサー=ジョーカーは、一人の人間が悪に堕ちてゆくまでの映画だ。どんなに生きにくくても社会のすみっこでしがみついていた男が、すべてをなくし、何者でもない男になる。彼を取り巻くあらゆるものが、彼の細い体を締め上げてゆく。

 観念的な悪がテーマだった『ダークナイト』とは対照に、これはだいたいの人が「分かる」映画だと思う。アーサーは「可哀そうな人」で彼が状況含めてヤバくなる時は毎回コントラバスを中心とした不協和音が鳴り響くので、そういう意味でも分かりやすい映画だ。分かりやすいと言えば、階段も象徴的な存在として分かりやすく登場する。決定的な瞬間はだいたいそばに階段がある。仕事を失った時や初めて人を殺した時、自分の過去の秘密を知った時など。なんというか、天国と地獄みたいな象徴でもある。つらいながらも夢を見て階段を上る姿はやがて、下に降りてゆくことが増えてゆく。そんなふうにこの映画は「分かりやすく」そして、だからこそどこまでも深い底へと連れてゆかれる。劇物のような映画、なのかもしれない。最後の光景は、世界で今起こっていることそのもののような光景だ。

 まあ、劇物かどうかはともかく、この映画は何よりものすごく美しく、そして悲しい映画なのだ。脳障害で切羽詰まると発作的に笑ってしまうアーサーが笑うシーンはどれも悲しく、こんなにも人が笑うシーンが悲しみしかない映画はそうない。そして、彼が堕ちてゆくごとに、涙が流れた。人が犯罪を犯すシーンに涙してしまう、これはそんな映画でもある。

 富裕層であるビジネスマン3人をアーサーが撃ち殺したことで、低所得者たちは彼を英雄視する。だがアーサーは何も信じていない。彼を映画の初めで暴行したのは低所得層の少年たちであり、自分を決起としたデモにはどこか冷ややかだ。しかし、デモがゴッサムを燃やすとき、彼はパトカーの中からそれを満足そうに眺め、笑う。切羽詰まったストレスがかかった状態でしか笑っていなかった男が、恐らく初めて本心から笑う。「人生はクロースアップで撮れば悲劇で、ロングショットで撮れば喜劇になる」そんなチャップリンの言葉のように、自分自身を、世間を遠くから眺めるようになって、彼はようやく笑えるようになったのだ。そして、最後には血塗られた笑みを浮かべる。

 アーサーがジョーカーとなってゆくシーンはどれも鳥肌ものなのだが、中でも最後のシーンは、その踏み越えていった瞬間――復活と祝祭の光景は映画史に残る場面だろう。

 

 アーサーとロッキー

 最後に、この映画は70年代映画の空気を濃密に纏っている。最初に現れるワーナーのあのデコラティブを排した懐かしのロゴ、そしてそれに準じた時代設定。監督のトッド・フィリップスは、本作の制作に影響を受けた作品として、70年代のアメリカン・ニューシネマ――『タクシードライバー』を筆頭に『キング・オブ・コメディ』『セルピコ』『カッコーの巣の上で』を挙げていて、かなりダイレクトにオマージュを捧げている部分が見られる。そして、これら以外に、本作から浮き上がってくる映画がある。『ロッキー』だ。

 アメリカン・ニューシネマを終わらせたとも言われたりする『ロッキー』は当初、ニューシネマ路線で制作されていたが、最後の最後をロッキーの凱歌のようなシーンにしたことで、鬱々としたニューシネマの空気を払い、ふたたびハリウッドの映画を娯楽映画路線に切り替えた――少なくともその決起の一つとなった。そんな「アンチ」ニューシネマな『ロッキー』にこの作品はどこか似ている。汚いフィラデルフィアの売れないボクサーが、同じような貧しい女性と心を通わせ、やがて世界チャンピオンから挑戦の誘いを受ける。本作も売れないゴミ溜めのような街で、コメディアンが貧しいシングルマザーの女性を慕いつつ、売れっ子コメディアンから招待される。ただ、本作はそれがすべて幻と化す。ロッキーはあの有名なフィラデルフィア美術館の階段を駆け上り栄光をつかむが、アーサーは階段を駆け下りてジョーカーとなる。ロッキーと決定的に違い、この映画はどこまでもニューシネマだった。

 この映画はある意味裏ロッキーというか、アメリカン・ニューシネマを終焉に導いた『ロッキー』への復讐なのかもしれない。