蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

さだめられた結末を見つめる:『さよならの朝に約束の花をかざろう』

 ちょっと前に見た映画の話。というか、だいぶ前の話になるが、一昨年はクリスマスに『ゴケミドロ』観たので、今回は『サイレントヒル』を観ようと思ってたんですよ。しかし、家人が劇場で観てすごく良かったからこれを観ろ、泣ける、みたいな感じで勧めてきて、半ば強制的に別の映画を観ることとなったのでした。

 その映画は『さよならの朝に約束の花をかざろう』である。とりあえずネタバレ前提というか、結末含めた話の大筋を書いてしまうのでそのつもりで。

 とはいえ、ネタを知ったところでどうこうなる映画では全くありませんが。

 2018年は17年に続いてにアニメ映画が充実した年といってもよく、この映画はそれらの一角を占める作品として称賛された。また、著名なアニメ脚本家として健筆をふるっている岡田麿里氏が監督を務めたということで、注目されることにもなった作品である。

 とまあ、メンドクサイ前置きはさておき、この作品はざっくりいうと、不老(不死ではない)一族――イオルフの少女が親を失った男の子の赤ちゃんを拾い、育て、やがて時が両者を引き放し、親として子供を看取る話である。

 世界観は古典的というか、どちらかというとジブリというより現代的な日本のゲームファンタジーに近いかもしれない。伝説の巨竜で他を圧倒していた王国が、その朽ちてゆく伝説の竜の代わりに不老の一族に目をつけ、主人公マキアの里を襲撃するところから物語は始まる。一人、襲撃から逃れたマキアの前に、両親を殺され、母の固く硬直した腕の中で泣き叫ぶ赤子。それを見て、同じように大切なものを失ったモノの埋め合わせか、彼女は赤子を取り上げ、育てようと決心する。

 この映画は、その不老の少女という存在により、少女性を纏わせたまま、姉、恋人、そして母という多重性を描いてゆく。その鏡として赤子は少年、青年、そして父となる。確固として変わらない記号としての姿に込められた多重性と、姿とともに役割を変えてゆく存在との摩擦。そのどこか悲しみを帯びたすれ違いがPAワークスの抒情的な作画の中で描かれてゆく。

 それから、この映画はなんといっても、始まりから「分かり切った終点」に向かってゆく映画だ。ハリウッドでよくある「事実をもとにした映画」ならともかく、オリジナル映画でここまでどうなるかが分かり切った映画は現代では珍しい方かもしれない。しかし、だからと言ってつまらないということはない。彼女が赤子を取り上げた瞬間から、私はお母さんだから泣かないとマキアが決めた時から、観客はその終点を知る。先読みされることを恐れる映画や、ネタバレ厳禁を謳う風潮など何のその、映画は観客が悟った結末へ確かな足取りで進んでゆく。

 出会いがあれば、別れがある。そして、死というものは避けられない。そういう意味で、誰でも自分の結末は知っている。ファンタジーとして描いてはいるが、生きていれば必ずある“別れ”についてのこれは普遍的な映画なのだ。そして、その別れをキャラクター同士の関係性の移ろいを経て、一歩一歩確かめるようにして見つめてゆく。これはそういう映画だ。

 それから、この映画は仕草というか日常芝居がめちゃくちゃ丁寧だ。あと、性的な部分は全くない清浄な画面から性的な欲望のニュアンスがドロドロ出てくる、その不意を突くような官能性が地味にすごい。秘めた感情、押し殺した願い。そんな言葉を持たない人の思いが画面にあふれていて、そのアニメーションが実にいい。

 固定された姿の少女を通して、日々の、人々の二度とは戻らない移ろいを見事に映し出していて、不老の少女は、やがて赤ん坊に来る死を、初めて彼を腕に抱いたときのように看取る。彼が彼女を慕った日々を昨日のことのように思い出しながら。

 そうして、少女は、それでも過ぎてゆく新しい「さよなら」のなかに帰ってゆく。またそれを見つめ続けるために。

 

 ※そういえば、ヒビオルってやっぱり日々織るという意味合いから来てるんだろうか。