蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

私はそれを問えるだろうか

 宮崎駿の新作『君たちはどう生きるか』の公開日が決定し、ポスタービジュアルが公開されていた。だいぶ前から吉野源三郎の同名著書のタイトルを借りた本作を製作中という話だったが、本当に作ってたんだなあというか、宮崎駿最新作という現実感がじわじわ広がってきている。

 それはともかく、「君たちはどう生きるか」という言葉だ。公開日が正式に発表され、このタイトルとなった言葉がネットを駆け巡っているわけだが、「説教臭い」「大きなお世話」という声が結構ある。若い人間はまあともかく、そこそこないい年の人間からも多く聞こえて、やっぱりなと思うとともに、子供じみた反応になんか地味にウンザリぎみな気分になっている。まあ、宮崎監督から見ればみんなコドモみたいなもんだろうが。

 宮崎監督はこの言葉に若いころ出会って感銘を受けたらしいのだが、それはなんか、うらやましいと思った。それはたぶん、自分の生き方を示す「大人」が――本当はそうでなくとも、少なくともそうふるまおうとする大人がいて、続いてくる人間たちにそれを問うてくる人たちもそれなりにいたのだろう。

 私たちは大きな流れの中にいる――そういう自覚が宮崎駿には確固としてある。それは創作の方面でよくみられたりするし、確か『幽麗塔』の口絵だったと思うが、大河の上流にボアゴベとかデュマとか涙香とかいった名前があって、その中で宮崎駿の自画像的豚が「わしらも大きな河の一部なんだよ」みたいなことを言って、そういう意識をはっきり視覚化している。

 私たちは一つの大きな流れの中にいて、受け取ったものを次へと渡す。そのなかで、生き方を問われ、それをまた次へ問う。彼はたぶん、創作を通してそれを見てきた。

 そんなのは流行らない、押し付けられたものなどいらない、俺たちは好きにやるし、お前らもそうすれば、というのが今の「コドモ」たちの流行なのかも知れない。反発する彼らは「権威」である巨匠に「俺も好きにやってきたぜ」とお墨付きをしてほしいのかもしれない。しかし、私はそういう側でいたくない。

 「どう生きるのか」を問われ、問うたほうを見返しながらそれを抱えて生き、今度は自分たちの生き方を見返されながら、それを次に問う。それはもうコドモのコドモである私たちには、私にはかなわないのかもしれない。しかし、誰もが「大人」のふりもしない、出来なくなった世界で、「好きにやれ」というのは、かなり無責任に近い、いや無責任だ。最近の大雑把な「世間」というやつを見ているとそういう思いが強くなる。特にネットには「好き放題」やっているインフルエンサーなんて連中がたくさんいて、その好き放題にあやかろうとする人間たちが群がり続けている。

 この文章も所詮は説教臭い文章にすぎないんだろう。それでも私は、たぶんできないにせよ、先達から受け取った問いを次へと問う、そんな大きな流れの一部として生きたいのだ。