蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 これは、すずめの戸締りについての書きかけのノートというか、一部シーンの「断絶」の評価のされ方について、以前のほうが物語の中でよりくっきりとやってるんじゃないの? という思いから書き留めていたもの。なかなか全体の記事が書けそうにないので供養みたいな感じで投げておきます。

 

 すずめの戸締りに関連してだが、今回、当事者と非当事者の違いを見せるシーンがある。芹沢の「ここってこんな奇麗な所だったんだ」というセリフにすずめがぶっきらぼうに「どこが」と返す場面だ。残酷な断絶を現すシーンとして評されたりするところだが、正直セリフだけの応酬ということもあり、それとなく挿入されている感が強い。確かにそれは、現実の震災の当事者非当事者の温度差を現す象徴的なシーンではあるが、物語そのものにはさほど寄与しないシーンだと思うし、正直、芹沢が言うほど奇麗なところかは見てはっきりとわかるほどではないように思う。割と普通の野原だ。ここを特に取り上げるまでもなく、新海監督はそういう当事者非当事者の断絶をより物語の中や美麗ともいえる風景の中で見せてきたのではなかったか。

 だから、新海作品の個人的な魅力の一つとしてその美しい世界で見せる残酷さみたいなものがある。監督の特徴的な、美化とは言わないが、かなり美麗な作画の中で美しいからこそ残酷なシーンになっている場面として出色なのが、『秒速五センチメートル』『君の名は。』『天気の子』あたりだと思っていて、特に『君の名は。』の何が好きって、あの最後の最後でティアマト彗星が降ってくる場面で、全世界の人たちが素晴らしい、綺麗だ、みたいな感じで祝祭的なトーンで染まり切った中、主人公の三葉と瀧にとっては、それは正反対のものだということを残酷なまでに美しく描き切っていたし、『天気の子』では、人々が待望した晴天の祝福が、少年と少女にとってはこの上もなく残酷な晴れ上がった空の美しさだったりして、物語と新海監督特有の画面の美しさがこれ以上なくその当事者非当事者の残酷な距離感を描いていたんではないのかと思う。

 まあ、結局は「現実」によりダイレクトにつながるほうが、目立ちやすいのかもしれない。しかし、そんなついでみたいな感じじゃなくて、いままで物語のテーマとしてやってきたんじゃないの? みたいな気がどうしてもして、その辺ちょっとモヤモヤしているというか、結局はフィクションよりも「現実」を媒介にしたほうが伝わりやすいのかという気もして複雑な気分だったりする。

書きかけ