蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

 『ゴーストバスターズ』2016年版について、一応書いておくが、これは今公開されている「アフターライフ」に対する2016年を称揚する一部からの「攻撃」についても書いていくため、2016年版にある「問題点」にも触れていくことになる。あまり愉快なことにはならないだろうから、この映画が好きな人はあまり読まないことをお勧めする。

 2016年版は、映画の外でいろいろありすぎて、あんま触りたくないのだが、今回2016年版を「上げる」ために、アフターライフに対するクレーム的な「下げ」を行う言説が見られたので、ちょっと抗議する意味でも書いておこうと思う。

 まず、2016年版だが、そこまで嫌いというわけじゃないし、フツーに楽しんだことは事実だ。キャストは好いし、明るくキャッチ―な雰囲気も好い。ただ、個人的には映画の内容そのものはそれほど面白いとはいいがたいかな、という感じだ。リブートするにしても『ゴーストバスターズ』というのは、主人公をはじめとする登場人物の属性や配置が重要なのではなく、まずはその世界を支えるギミックにもっと凝ってほしかったのだ。エクトワンやプロトンパックや封印ボックスといったデザインがもとに比べてことごとくいまいちなリファインになっていると自分には感じられた。リブートにせよ、そこを前作から切り離してしまうのはまずかったんじゃないのかなあと思っている。シリーズのつながりとして、道具はほぼ同じのを出すことは大事だったのではないか。あと、敵の造形や最後の「ダンジョン」たるホテルのお化け屋敷性の薄さとか、「科学」ギミックも薄くて、核兵器打ち込んであの世との門を閉じるみたいな展開も安易すぎてイマイチ感はぬぐえない。

 一方で、キャストたちは生き生きしていて、そこはこの映画の美点だとは思う。半面、やたら言われている「ポリティカルコネクトレス」や「エンパワメント」な部分にはかなり疑問な点が多々見られる。女性がカッコよく活躍するのはそれはそれでいいのだが、全体的に「問題とされている」描写や役割を反転させているだけで、問題そのものを解消している感じではないのだ。たぶん指摘されてはいるだろうけど、彼女たちの「秘書」は頭空っぽでセクシーな男性なのだが、これは映画でよく出てくるとされる頭空っぽでセクシーな女性の反転でしかなく、お姫様な役割も含め、じゃあそれを男性にすればOKなのかという問題は残ったままだ。敵の造形も彼女たちと似たようなオカルトマニアなのだが、いわゆるキモイ中年オタク。キモイおっさんはキモイおっさんでしかなく、そいつをやっつけて終わりなんだけど(このおっさんはほんとにただキモいだけで、劇中女性嫌悪みたいなものを露骨に向けてはいない。どっちかというと世界を憎む中二タイプ)、「エンパワメント」云々言うのなら、彼女たちの「敵」って、いかにも低所得なキモイオカルトマニアじゃなくて、「学校にふさわしいか」みたいなので彼女たちを判断した権力タイプのおっさん連中じゃないのと思うのだが。だから終盤、活躍に手のひら返して「わが校にふさわしい」として、受け取ると思って疑わない終身雇用を恭しく提示する学長の頭に、生卵かスライムぶつける描写を期待したのだが、そんなことはなく、市長に気に入られて(市長は普通に男だし、秘書は女性で伝令役に過ぎない)あのシリーズの本部になる消防署を手に入れるだけだ。中年マニアがしがないホテルマンに比べて彼女たちのほとんどが学者というのも「ポリコレ」的に問題といえば問題といえる。しかも、黒人女性だけブルーカラーという初代から続く「問題」も残ったままだ。

 私は正直、だからダメだというつもりはない。ただこの映画を「ポリコレ」や「エンパワメント」な価値観で「底上げ」するのは、なんか違うんじゃないのか、と思うだけだ。たしかにこの映画に加えられたけた外れの不当な憎悪は批判されてしかるべきだ。だが、この映画を「ポリコレ」や「エンパワメント」的に語るとして、この映画が本当にそうなっているのかという批評的な目を向けることが、この映画をその象徴のごとく称揚する言説にはあまりないような気がするのだ。それまでを反転して留飲を下げているだけなんじゃないのか、という疑いというか、懐疑的な部分はやっぱりあると感じる。

 いってみれば、本当の強者の男性ではなく、社会的地位が低そうで、みんなから嫌われてそうな弱めの男性をぶん殴って終わるのは、残念ながらSNSなどで見かける光景が映し出されていただけなんじゃないのか、という気もして、この映画を女性の「エンパワメント」映画として称揚するには危ういものがあると思う。

 ここまでが、私の2016年に対する外部も含めた雑感なのだが、今回アフターライフに対して、主人公が旧作主人公孫であるということが、「血統主義」であり、2016年の「誰でもゴーストバスターズになれる価値」を毀損しているとして、2016年版を極端に称揚する一部から批判がある。また、今作が旧作とつながっていることで「自分の好きなものが無視された」という怒りもあるらしい。個人的にどっちかというと「いちゃもん」に近いものだと思うのだが、まあ、公式が2016年版に対して冷淡であることは確かだろう。とはいえ、2016年版が旧作に替わるほどの面白さがあるかというと、ちょっと微妙なところがあるし、独立性を看板にするよりは、旧作とのつながりを強調する方に作戦して変更したというのは、「成功」したとはいえない前作を受けての作品としてそこまで責めるものだろうかと思う。

 それはともかく、気になるのが「血統主義」という言葉の使い方だ。アフターライフのように、血縁者から何かを受け継ぐ物語というのは、枚挙にいとまがない。それは物語の一つの「タイプ」であって、そこに「ポリコレ」的な意味合いを見出すのは大変危険だと私は思っている。物語を形作る一つのツールだし、そもそも「誰でも英雄になれる」というのは、物語を作るうえで絶対なのか。

 それから、2016年版と2021年版個々で見れば、「誰でもゴーストバスターズになれる」を実現しているのはどっちなのか。女性しかいないのは、「男性しかいない」を裏返しにしたものでしかないということでもある。「多様性」という観点でいうなら、2021年版のほうが「アップグレード」されているということができるのではないか(ていうか、こういうのでいちいち「価値」を測ること自体がフィクションに対する冒涜でつまらないことだと思う。なので書いてて気分が悪くなる)

 なんだろう、スターウォーズでも「誰でもジェダイになれる」ことがことさら価値があるみたいな言説が出てきた時もなんか変な気がしていたが、それは物語を面白くすることに関係があるのだろうか? 英雄とその関係者という語りで面白くなる物語の「タイプ」はあるし、そこまで「平等」にしなければならないのか。一時期そういう誰でも英雄に、主人公になれるよ、という製作者の「気遣い」がこだまするような映画がとても嫌だったこともある。そんなこと言われなくたって私はいつだって映画の中では「主人公」なのだ。

 まあそれはどうでもいい。とにかく、個人的に気になっているのは、批判するなら映画の形態ではなく内容でやってほしいということがあるし、2016年版は果たして2021年版に対して「ポリコレ」や「エンパワメント」に優越できる作品なんだろうか、という疑義もある。また、それをもって他作品を批判するのは個人的には納得しがたいものがあったということだ。

 ていうか、そもそも自分の中に「すばらしい映画のものさし」というものを設定して、そうじゃないから~という姿勢で評することもまた、危ういものがあるんじゃないのかと思うのだけど。