蒼ざめた犬

齧ったフィクション(物語)の記録。……恐らくは。

夏に観たかった娯楽大作:映画『ゴーストバスターズ/アフターライフ』

Introdaction

 60年代後半から70年代前半のアメリカンニューシネマの時代が終わり、『ロッキー』をはじめ、『ジョーズ』、そして『スターウォーズ』、といった新しい才能たちが作り上げる新しい大衆娯楽映画の狼煙が上がる。そして、80年代にその「娯楽」は爆発し、ハリウッド式娯楽映画の一つの黄金期を作り上げていく。その中の一つとして、『ゴーストバスターズ』は生まれた。特に今につながるフォロワーを生んだわけではないが、その「幽霊退治」は、ホラーの雄『エクソシスト』とそのフォロワーなどとはまた違った独自性を放っていた。それは、当時のオカルトやSFと結びついた絶妙な世界観を形作り、爆発的な人気を呼ぶ。

 私も、小学生未満のころに大いにはまり、かなり大きな本部やEcto-1(エクトワン)、それに黄色い幽霊車(緑の怪獣みたいなバケモノに変形する)のおもちゃや主人公たち4人のアニメのフィギュアを持っていた(アメリカのやつで当時発売されてたものだったし、それなりに貴重だったのでは。もうどっかいったけど)。

 まあとにかく、ホラーコメディの金字塔として、当時の子供たちに刻まれた映画だったのではないだろうか。

 この映画の画期性の一つは、アメリカ的、というと変だがホラーに風通しのいいポップな要素を取り入れたところだろう。微妙にさえない男たちが、湾曲するサイケな光線で、蛍光色な幽霊たちを捕まえるという、それはまさに現代版「エクソシスト」だった。またそれは、『エクソシスト』の時代にどこか淀んでいたものを振り払う、その時代の空気を孕んでいたようにも思う。そして、時代を経てポップで楽しかった時代のタイムカプセルのような存在となっていった。たぶんそこには「アメリカの繁栄」というやつが詰まっている。おそらく、そのおこぼれを享受した国の人間たちにとっても。

 ゴーストバスターズの画期性の一つをポップさと書いたが、それ以上に画期的だったのはおそらく、それを支えたガジェットに他ならない。霊柩車とも救急車ともつかない専用車、エクトワンの天才的な造形、サイケな光線を放つプロトンパックの無骨でカッコイイデザイン。ゴーストの存在を探知する P.K.E. メーター。そして、幽霊を封印するゴーストトラップのこれまた天才的なギミック。とにかく、そのデザインの画期性はスターウォーズライトセイバーミレニアムファルコンに肩を並べるものであったと言っても言い過ぎではないのではないか。

 得体のしれない幽霊を科学の力で固定化し、封印する、そんな機械化されたエクソシスト。それは当時の「科学万能の時代」にふさわしいエクソシストだったろう。これ以降、このような科学の力で幽霊を封印するというコンセプトの作品で、これを超える作品は現れなかった、と思う(日本の漫画やアニメでも特にそういう作品を見たことはない)。悪霊と戦うと言っても、シュワルツネッガーやキアヌが悪霊を物理で殴ったりすることが関の山だった。

 結局、有力なフォロワーを生むことなく、独自の輝きを保ったまま、時代とともに埃をかぶっていく。そして、2016年のリブート(これはまた、後で別に語りたい)を経て、今回は第一作の続編という形で再び我々の前に現れたゴーストバスターズ。正直そんなに期待してなかったというか、前回のリブートで「失敗」して、今度は第一作の主人公の孫とか、なんかちょっと「失敗したくない」感が強めじゃないの、みたいな思いだったのだ。あと、関係ないけど『大怪獣のあとしまつ』というどーしょーもない映画見た後でテンションただ下がりというのもあって、映画館そのものに不信感が一時的に芽生えていた。

 しかし、それは杞憂だった。映画の始まりから引き込まれ、新しい主人公たちがあの失われたガジェットを再び手に取り、幽霊退治に乗り出す過程にワクワクさせられた。そして、それまでなかった、ある意味この作品だからこそできた「ゴーストストーリー」の側面は新しい作品にふさわしい要素となっている。そして、終盤のあるイメージも見事だ。そういえばアレってそうなんだよな、といういまさらながらの気づきを得た。第一作のマシュマロマンや第二作の自由の女神みたいな、派手派手なギミックじゃない(一応派手だが)にせよ、そのイメージは「ゴースト」と「ゴーストバスターズ」にふさわしい鮮烈さを放つ独自のものとなっていると思う。

 

あらすじ

 かつてゴーストと戦った者たちがいた。ニューヨークの摩天楼に巣食った古代神ゴーザと無数の悪霊群、そして摩天楼の間を闊歩した巨大なマシュマロマン。あれから、もうすでに37年が経過しようとしていた。時は2021年、かつてニューヨークを跳梁したゴーストたちは影も形もなく、それらと戦っていた者たち――ゴーストバスターズという存在もいつしか都市伝説のような扱いとなり、時代の中に埋もれていった。

 科学好きの少女、フィービーはオクラホマの「おじいちゃん」の家に母と兄との三人で引っ越してきた。というか、住んでいたアパートを家賃滞納で追い出され、母を捨てた祖父が死んでいたことを幸いに、その家に身を寄せることになったのだ。何かお金になるものがないかと期待する母をよそに、フィービーはその家に“何か”が潜んでいる気配を感じ始める。そして、彼女は町の人から“泥爺さん”と呼ばれていた祖父がしていたらしい何かに興味を持つ。祖父は何をしていたのか、地下で見つけた研究室に残る奇妙な機械類や床下に隠してあった機械の箱のようなもの――祖父の痕跡を探るうちに彼女は祖父――イゴン・スぺングラーがかつてニューヨークでゴーストたちと戦った「ゴーストバスターズ」の一員であると知る。祖父はゴーストバスターズの仲間を捨て、母を捨て、なぜこの町にやってきたのか、そして彼はこの家で何をしていたのか。それは、30年続いているこの町での原因不明の地震と関係があるのか。

 それを探るうち、フィービーは床下から見つけた奇妙な箱――ゴーストトラップの封印を解いてしまう。飛び出したそれは、鉱山跡地へ去り、それと呼応するようにして、そこに眠る何かが目覚め始める。町に出現し始める何か――それは、かつてニューヨークを襲ったゴーストたちだった。フィービーは兄のトレヴァー、学校で知り合った初めての友達、ポッドキャストとともにゴーストたちを追い、そして、鉱山跡地に封印されていた古代神と戦うことになる。

 かつての彼女の祖父たち――「ゴーストバスターズ」がそうであったように。

 

 

感想

 大傑作というほどではないかもしれないが、出来のいい快作だし、私はシリーズの中でも一作目に並ぶくらい好きなほうだ。

 ジュブナイルなのもいい。それも良いジュブナイルならこうせねば、みたいになっているような「家庭の深刻さ」とか、それを経て「成長」や「自立」を強調する、みたいなのが特にないのがいい。夏休みにおじいちゃんの家に遊びに行って冒険した、それで十分だし、いちいちそういう要素が達成されているかどうかをチェックして、「高級」かどうかを品定めするのに何の意味がある? 父と娘の不和も父が娘の写真を大事にしてたで解消されちゃっていいんだよ、映画なんだから。

 そういう意味でも、この映画は娯楽映画に徹している。少年少女たちが先人たちが残した「遺物」を復元し、彼らが戦った存在ともう一度戦う。そう、当時イケてたあのガジェットたちは「遺物」と化した。プロトンパックもエクトワンもド田舎の農場みたいな廃屋で埃をかぶっている。それは、この作品の「リメイク」の方向性が、2016年版とは異なることをはっきりと示している。2016年版はいわば、イケてるものとしてリファインすることを目指したような映画だった。今作は、埃をかぶっていた『ゴーストバスターズ』という作品のほこりを払い、その「過去の遺物」で「過去の幽霊」を打ち倒す。この映画は言ってみれば、過去のアトラクションなのだ、映画のすべてが。舞台は摩天楼がそびえるニューヨークではなく、オクラホマのド田舎。そこは、ある意味横溝正史の「因習はびこる村」のように「過去」を仮託された町だ。80年代風のローラースケートで接客するダイナーがあったり、並ぶ車やファッションもどことなく80年代風。学校の夏期補習で行く部屋には今だブラウン管テレビが置いてあり、そこで『クージョ』や『チャッキー』を理科教師が見せたりする。タブレットなんかもほとんど姿を見せない。アパートを追い出された主人公たちが向かう「おじいちゃん」の家はクラシックな幽霊屋敷然としていて、これは「現代の観客」が、「過去」という「アトラクションとしてのお化け屋敷」を体験するような構造になっている。

 過去の『ゴーストバスターズ』は、摩天楼や美術館をお化け屋敷にした。近代的なニューヨークに生み出されるお化け屋敷にゴーストバスターズは駆けつけ、そこに突入していった。今回はある意味、町全体が「お化け屋敷」というもので、そのレトロな舞台全体が過去作との差別化をうまく図らせ、なかなかワクワクさせるものとなっている。

 そして、なんといってもあの懐かしいガジェットの数々が、デザインはそのままに、あくまで「古びた」形で出てくることだ。サビサビのボロボロ。かつて勇者たちが使っていたボロボロの装備を修復して使うという、好きな人は好きな展開だ。そして、今回は特にあのエクトワンが大活躍するのがいい。今までその特徴的なフォルムの車は、ゴーストバスターズのただの送迎バスで終わることが多かった。ゴーストを捕まえるためにあの車で追いかけるシチュエーション、そんなあっていいはずなのに特になかったそのカーアクションシーンはこの映画の白眉だ。車ひしめく大都会ではなく、だだっ広い田舎の街道をおんぼろキャデラックの改造車が爆走し、後部座席が飛び出る改造銃座からぶっ放されたプロトンビームは、そこかしこの店の看板やネオンを吹っ飛ばしていく。同時に展開される、ごついオフロードタイヤを装着したミニ四駆式改造のゴーストトラップはいいアレンジだ。ドローンじゃなくてラジコン操作するミニ四駆っていうのがいいのだ。爆走する車、プロトンビーム、そしてこのラジコン・ゴーストトラップを駆使してゴーストを捕獲する演出は、従来になかったスピード感とタイミングを合わせるジリジリした緊張感が生まれていて、ここは最新作ならではの部分がよく出ていたところだろう。個人的にはあのボロボロのエクトワンがちょーカッコよく見えてくるアクションシーンが見れただけで満足。

 敵とそのギミックみたいなのは第一作の門と鍵の神が再登場する形なので、敵としてのゴーストの魅力は第一作、代二作に比べると弱いのは仕方ないにせよ、もう少しなんか魅力を盛ってほしかったところはある。ただ、最後のピンチに陥ってからの、助っ人の登場や最後の逆転ギミックを決めるタイミングとか、その辺は大変良かったし、なにより感動的だ。映画全体は、昨今のハリウッド映画にしてはかなり先読みしやすいというか、わかりやすい伏線や展開で、日本のアニメみたいなところがある。だからこそ、そこに到達する「まってました」という感覚はエンターテインメントとして王道な楽しさを提供してくれていると思う。

 どっちかというと、夏休み映画の決定版みたいな雰囲気で、予定通り夏に公開(コロナ……)してたらな~という思いはあれど、過去作へのリスペクトとツボを外さない職人技、しかし、前作になかった新しさも盛り込んで、きちんと楽しめる映画になっている。ファンはもちろん、初めての人でもおすすめな一本だ。

 

 

 ※ここから先は余談というか、ネタバレしつつの感想となるので、そのつもりで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 監督が1・2のアイヴァン・ライトマンの息子ってことで、ジェイソン・ライトマンって誰やねん、と思っていたら、あの『JUNO/ジュノ』とか『マイレージライフ』の監督ですか。『JUNO/ジュノ』と『ヤング≒アダルト』で予期せぬ妊娠しちゃった女子高生の何とも言えない日常とか、40手前のいまいちラノベ作家の女性が、田舎に帰って当時イケてたはずの自分という自己像が崩れていくイタタな映画はかなり好きだ。特に『ヤング≒アダルト』の結婚式での主人公のイタさは、色々えぐるので、マッドなマックスでカッコいい姿を刻まれても、自分にとってのシャーリーズ・セロンはこの映画だったりするのです。

 それはともかく、この映画のアクションシーンについで魅力的なのは「ゴーストストーリー」としての部分で、ここは、この作品の独自性を出している部分でもあります。それは、悪霊ではなく、普通の人間のゴースト――幽霊が出てくるということ。ゴーストバスターズにおけるゴーストとは、あくまで敵役としての悪霊でした。普通の人間の霊というのはその霊を退治するという映画の性質上、出てくることはなかったわけです。今回は主人公フィービーの祖父で元ゴーストバスターズの一人、イゴン・スぺングラーがゴーストとして出てきます。第一作のゴーストバスターがゴーストになるという、一回限りの禁じ手みたいなものですが、孫が死んだ祖父を知るという物語と、祖父が残したものを受け取る物語として作品に一本の芯を通しています。演出面では、見えない(このゴーストが見える世界で見えないという逆説がまた面白い)祖父の霊が、明かりやスタンドライトを使ってフィービーと「対話」するシーンがとても良い。特に、プロトンパックを孫と一緒に修理するシーン――その小型化された加速器に驚く孫に対し、スタンドライトを曲げて壁のマサチューセッツ工科大の卒業証書を照らし出すシーンなど、彼の得意げな顔が見えるよう。

 そして、かつて戦ったゴーザとの戦い。その最後の最後で、かつてのキャストたちがプロトンパックを背負い、助っ人に駆け付けるシーン、そして、「最後の一人が」ついにその姿を現す瞬間は、最高のファンサービスでしょう。ハロルド・ライミスが今はもういないということもまたファンには切なく、ビル・マーレイとの映画内での「和解」もまた同様です。ある意味、禁じ手というか卑怯といえば卑怯だし、それほど好きじゃない人から見たら過剰接待とか鼻白む向きもあるでしょう。でも、やはり、監督はファンとしてどうしてもやっておきたかったし、やらなければならないことだったのだ。30年近くのいろんなものを「成仏」させることが。

 演出的にもイゴンの霊体が孫を支えて一緒にプロトンビームを打つ姿は、まさにセル戦のかめはめ波ドラゴンボールですよ! ずるい、ずるすぎる。そして、ゴーザやその他の霊をとらえるトラップを発動するため、電力不足を補う最後の一手として、プロトンビームをトリガーとして使うギミックも演出的によくできています。あれをそのままコンデンサーに向けて大丈夫かという問題とかはあるんだろうけど、あのエネルギーを最後のトリガーとする一発逆転な演出こそが大事なのです。

 そして、農場一面に埋められたトラップが発動し、あふれかえるゴーストたちを光とともに封印する絵は、壮大な墓地そのもの。そういえば、あの幽霊を閉じ込める長方形のトラップは棺桶なんだよな、ということをいまさらながらに思い至った次第。悪霊たちが地中の墓地に封じられ、イゴンが天に昇っていく対比とかも締めとしてよかった点でした。

 新しいキャラクターやそのキャストもなかなかよく、特にフィービー役の マッケナ・グレイスの演技は素晴らしいものがあったと思いますね。俗っぽく言うなら眼鏡萌え~科学少女萌え~な人は劇場へゴーだ。17歳と年齢ごまかしてバイトする15歳設定の兄(  フィン・ウルフハード)もいいぞ(こそっ)。